イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/01/19

231. ヨハネ福音書と新約の司祭職 まことの礼拝

ヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の対話の主題を続ける。前回は、「水を飲ませてください」(ヨハ4:7)というイエスの言葉から、新約の司祭職についての重要な事柄を考察した。今回は、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:21)に続くイエスの言葉から、新約の司祭職についての別の展望を見つけたいと思う。 

イエスは、サマリアの女の、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(ヨハ4:9)という問いに、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)と答えた。サマリアの女は、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」(4:11)と、さらに問うた。この言葉は彼女の内奥から出たのだ。続けて父祖ヤコブを引き合いに出した彼女の憂いも井戸のように深かった(4:12参照)。 

そこでイエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4:13~14)と言われた。それを聞いて彼女は夢中で言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)。彼女が、「また、ここにくみに来なくてもいいように」と付け加えたのは、無意識に、もう父祖ヤコブの歴史を持ち出す必要がないようにという思いが込められていた。彼女は自分の真実の思いを、自分が何を求めているのかを知る必要があった。しかしそれには、彼女が日ごろから自分にはどうしようもないとして放置していた問題に、正面から向き合わねばならない。次のイエスとの対話で彼女は、そのことを自覚し、同時に自分の真の望みに目覚めた。 

イエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハ4:16)と言われた。女は答えて、「わたしには夫はいません」(4:17)と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(4:17~18)。この時、「夫」の問題とつながって、彼女の内奥にあった神への彼女の信仰が生かされていないという現実への切実な思いが引き出された。それは、当時、アブラハムにつながるすべての人々が抱えていた問題であった。男性にも女性にも問われるこの問題から目をそらせば、神と関わりのない多様で新たな問題が、そこに次々と生じるのである。 

彼女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハ4:19~20)。イエスはそれに応え、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:21)と言われて、イエスが御父のもとから担ってきた「まことの礼拝」についての教えをお与えになった。それこそがイエスが与える「生きた水」である。 

続けてイエスは、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:22~24)と言われた。この御言葉は、創世記で神がアダムに、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と言われた御言葉が、新約の司祭職を示唆していたことを、明らかに示している。 

「お前は顔に汗を流してパンを得る」、そのパンは、イエスが「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6:35)と言われる「命のパン」である。「土に返るときまで。お前がそこから取られた土に」とあるように、他の生き物と同じく「土」で形づくられた人の「肉体」は土に戻る(創2:19参照)。しかし、「塵にすぎないお前は塵に返る」とあるように、神は、土の「塵」で人の「霊」を形づくられた。ゆえに神がその鼻に吹き入れられた「命の息」は、神に似た人として生きる霊の自発性である(2:7参照)。それは「神は霊である」ということからすれば、塵に過ぎないほどのものであっても、人は神に似た姿を持っているのである。「塵に返る」とは、人の霊の自発性が神のもとに「返る」ことを指している。人が「まことの礼拝」を求めるのはこのためである。 

神が、新約の司祭職を男性に授け、女性が授かった胎から生まれる霊と肉体をもった人に仕えることは、神の悲願となっていた。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」ためである。イエスは、この御言葉を実現するために、聖霊と直につながって生きる未来の信者の必要を満たし、神が男と女に造られた人々が、それぞれの召命がもたらす役割を十全に発揮できるように、すべてを備えていかれた。次回もイエスとサマリアの女の対話の主題を追っていきたい。 

Maria K. M.

 


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