50. ヨハネの黙示15~16章
前回考察したように、人の意志に偶発的情報が密着したまま死ぬと、悪霊となってこの世に残る。また、悪霊にならずとも、地上の生活にあまりにも執着していた意志も、死の時、神のもとに帰るみ言葉「あれ」に付いて行けず、この世に残ることになる。イエスが語った、紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた金持ちと、貧しい人ラザロのたとえ話のとおりである(ルカ16:19~31参照)。二人は死んで、ラザロは天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれ、金持ちは、黄泉で苛まれていた。アブラハムは、その理由を、「子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と説明した。これら死んで地上に残った苛まれる意志や、悪霊であった意志を、ご自分の死とともに一人一人連れて行くために、ご聖体は、信徒の協力を待っている(本ブログ№49参照)。信徒に拝領されることを待っているのだ。だから、信徒が勇敢にミサを目指すとき、神はミサに行くことを決断したこの信徒の意識の領域を守る。黙示録で、「神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった」(黙示録15:8)と書かれた「神殿」とは、この時の信徒の意識の領域を指している。では、ここで書かれている「七人の天使の七つの災い」とは何であろうか。まず分かるのは、これらの天使たちに神の怒りで満たされた金の鉢を与えた「四つの生き物のうちの一つ」(黙示録15:7)は、ヨハネ福音書だということだ(本ブログ№12参照)。それは、16章の「第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、『事は成った』と言った」(黙示録16:17)というフレーズが、ヨハネ福音書の「イエスは、この酢を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19:30)と符合するからだ。さらに、このイエスの十字架上の死の場面は、「羊のために命を捨てる」とイエスが何度も繰り返して言った、良い羊飼いのたとえの場面とリンクしている(ヨハネ10:1~42参照)。ヨハネの福音書において、イエスが公生活に入ってから、イエスの話しを聞いた人々との論争が絶え間なく続いた。その始まりは、「ベトザタ」と呼ばれる池で、安息日に病人を癒したことだったが(ヨハネ5:1~47参照)、その池はエルサレムの「羊の門」の近くあると書かれている。羊の囲いのたとえで始まる10章の記述から、イエスの言葉につまずいた人々が、イエスを殺そうとするまでの心理の変化を読み取ることができる。その流れは、黙示録の「七人の天使の七つの災い」と符合する。そして、「これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである」(黙示録15:1)と書かれた言葉は、この符合によって理解することができる。(つづく)
Maria K. M.
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