イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/07/25

49. 悪霊の救い

ご自身を「ある」と言う神は、「あれ」というみ言葉によって被造物に自発性を付与し、すべてを創造した(創世記1章参照)。生き物が死ぬときは、この命を生かしていた「あれ」は、神の意志を成し遂げて神のもとへ帰る。一方、人は、他の生き物とは異なり、「あれ」という自発性が付与されたあと、神が、神の意志である命の息を吹き込んだ。意志は知識とともにある(本ブログ№41参照)。だから、人が死ぬ時、その意志は、体と共に死ぬ「人の知識」と切り離され、神のもとへ帰るみ言葉「あれ」に付いて行くことができる。聖書の中で蛇や竜の名で呼ばれている「人の偶発的情報」は、人間に取り込まれ、区別されずにその人固有の知識として意志に密着すると、人間を悪魔化(サタン化)する。だから、多くの人は、悪というものを人格化したくなるが、悪は生きている人間の仕業だ。悪魔化(サタン化)した人が死ぬと、その人の意志には、その人固有の知識として偶発的情報が密着したままである。そこでその人の意志は、「あれ」に引き寄せられることなくこの地上に残り、悪霊となる。悪霊となった意志は苦しみ、生きている人に取り付き、殺し、再び死ぬことによって解放されようとする。福音書には、イエスと出会った悪霊たちが、「神の子、構わないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」(マタイ8:29)と叫んだとある。この場面でイエスは、悪霊の望みどおり豚の中に入ることを許し、再び死ぬ機会を与えた(マタイ8:30~32、マルコ5:11~13、ルカ8:32~33参照)。弟子たちはイエスから与えられた権能によって、他者にとり付いた悪霊を追い払うことはできた。しかし、悪霊に死を与えられるのは神だけだ。十字架上でイエスは、すべての人をご自分に引き寄せた(ヨハネ12:32参照)。ことにイエスが現れる時代までこの世に残った悪霊やその他の死者たちの意志を引き寄せ、ご自分の死とともに連れて行った。これが、悪霊が言った「その時」だ。イエスは、ご自分の未来においても、地上に神がキリストの聖体として現存し、キリスト者に食べられることによって死に、この神の救いの業を続けるように準備した。イエスは、毒麦のたとえを話した時、意志を麦に、「人の偶発的情報」を毒麦にたとえた(マタイ13:24~30参照)。両者は、「刈り取る者」によって分けられる。人が死んでもその人の意志に貼り付いて、人を悪霊にしていた「人の偶発的情報」は、意志から引き離され、焼くために束にされる。イエスは、神の救いの業の継続を、イエスの名によって遣わされた聖霊と信者に委ねた。ミサの中でご聖体が信者に食べられて死ぬと、「私はある」(ヨハネ8:58)というみ言葉が神のもとに帰る。この時み言葉は、十字架上でイエスがしたように、死んで地上に残った悪霊やさまよう他の霊を、一人一人連れて行く。「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」(黙示録19:9)の幸いが、すべての人のものになるのだ。だから信者は、ご聖体を拝領する直前、死にゆくご聖体を前にして、天の父がペトロに現した言葉ではっきりと宣言しなければならない。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と(本ブログ№32参照)。

Maria K. M.


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