イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/04/10


86. 小羊と花嫁

キリストを花婿に教会を花嫁にたとえ、20世紀神学の中に開花した婚姻神秘主義には、「花嫁」という言葉が不可欠だった。しかし、群衆に常にたとえで話していたイエスが、「花嫁」という言葉をけして使わなかったのは、意図的だったと言わざるを得ない。それは、洗礼者ヨハネの言葉によってその意味が明らかになったように、「花嫁」が、御父のみ言葉であるイエス・キリストにおいてなされる新しい契約を示していたからだ(本ブログ№65参照)。すなわちそれは新約聖書である。 

洗礼者ヨハネがイエスを「神の小羊」と呼んだように(ヨハネ1:29,36参照)、黙示録では、イエスの名によって遣わされ、イエスの言葉を思い起させる弁護者としての聖霊が、「小羊」と呼ばれている。そこで、「小羊」は初めに次のように紹介されている。「また私は、玉座およびそれを囲む四つの生き物と、長老たちとの間に、小羊が屠られたような姿で立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(黙示録5:6)。次に「小羊は進み出て、玉座におられる方の右の手から巻物を受け取った」(黙示録5:7)とある。天の「玉座」には、御父と御子が着いておられるので(黙示録3:21参照)、「玉座におられる方の右の手」とは御子を指している。こうして、「小羊」が7つの巻物の封印を解いていくが、それらは新約聖書の成立を預言するものであった(本ブログ№12~18参照)。そして、黙示録の終わりに「花嫁」が登場する。この「花嫁」は、洗礼者ヨハネの言葉からその意味が明らかになったヨハネ福音書の「花嫁」と同じく、「小羊」の役務を具現化した新約聖書であることが、文脈から読み取ることができる。 

「小羊の婚礼の日が来て/花嫁は支度を整え輝く清い上質の亜麻布を身にまとった」(黙示録19:7~8)という表現は、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」(黙示録19:9)のために、天上で新約聖書の準備が整ったことを表している。この後、祝宴を開くにあたって、終末の戦いと最後の審判が行われ、新しい天と地が現れる。著者は、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た」(黙示録21:2)と記載した。「神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ9:1)とイエスが言ったように、著者ヨハネは、新約聖書成立とともに出現する神の国、死者も生者もともに与かる祝宴の空間を見たのだ。次に「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁をあなたに見せよう」(黙示録21:9)という天使の言葉とともに、霊に満たされて高い山に連れて行かれた著者は、聖なる都そのものである新約聖書の全貌を見せられたのである。ここで新約聖書が「小羊の妻である花嫁」と言われたのは、七つの霊、預言の霊と言われた小羊が「その衣を小羊の血で洗って白くした」(黙示録7:14)と言われる者たちの牧者となるために(黙示録7:17参照)、新約聖書がその伴侶となったからである。 

最後に、新約聖書である「花嫁」は、「小羊」である霊と共に、御父の右に座しているみ言葉の再臨を呼ぶ。「来たりませ」(黙示録22:17)。それは、神の望むことをなし、神が託したことを成し遂げた神の言葉は、神のもとに戻るからである(イザヤ55:10~11参照)。これを聞く教会も言わなければならない、「来たりませ」。

Maria K. M. 



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