イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/01/13


178. 預言された者 その3

聖フランシスコの小品集に残された彼の記憶、そして彼についての伝記は、そこに現わされた真理によって、私たちが信仰において前進するよう強く促している。フランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像で、眼を見開いて十字架上のイエスを凝視している男として預言されていた(本ブログ№174参照) 。彼が聖痕を受け、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を身をもって実現したことと、助祭職を受けていたことは、教会の召命を知る重大な手がかりになった。 

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)とイエスがマグダラのマリアに言ったのは、彼女が女性だったからである。ヨハネ福音記者がこの場面を挿入したのは適切だった。イエス・キリストの教えは男女の弟子たちが対等に受け取り、「イエスの召命」を生きることができるものであったので、女性も男性と同様に司祭職を受けることになるという錯覚が生じる可能性があったからだ。 

イエスの十字架のそばに立ち、イエスがご自分の母と愛された弟子を親子の絆で結んだのに立ち会ったマグダラのマリアは、十字架上のイエスの言葉によって男性である使徒が、司祭職と分かたれない絆で結ばれたことの証人となった。また、イエスの復活の場面では、復活したイエスに、イエスの遺体を引き取ると宣言して、彼女に「イエスの召命」があることを証しした。ここでイエスが、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言った言葉は、彼女に続いて「イエスの召命」に呼ばれることになる女性たちが、司祭職への錯覚を抱くことがないように、イエスにすがりつく手を放し、まだ父のもとへ上っていないキリストの体への執着を捨て、聖霊に向かって一歩を踏み出すように諭すためであった。 

イエスは、続けて「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)とマグダラのマリアに命じている。彼女は迷うことなく「弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(20:18)。それは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちに、イエスが訪れる心の準備をさせた。 

その日の夕方、家の戸に鍵をかけていたのに、イエスが来て真ん中に立った。そして、「あなたがたに平和があるように」と二度も言ったのは、彼らを宣教に遣わす前に罪を許す権能を与えるためであった。マタイ福音書に、「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と書かれている。使徒たちは、ペトロを筆頭にイエスを決して見捨てないとの証しを立てていたのだ。しかし、イエスの受難を目の当たりにした弟子たちは皆逃げ去り、ペトロは、イエスを「知らない」と言って三度否んだ。彼らがそれぞれに、まず自分自身を赦さないなら、彼らはイエスを証しすることができない。宣教することができないのだ。これがヨハネ福音書の主の復活の場面に描かれた7つのエピソードの3つ目のエピソードである。 

4つ目のエピソードは、復活したイエスが現れたことを信じなかった使徒トマスに、イエスが現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ20:27)と言った場面だ。この言葉は、マグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と諭した言葉とは対照的である。彼が司祭職と結ばれた使徒の一人だったからである。 

続けてイエスがトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言ったように、キリストの体になるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒に触れることになる司祭は、「見ないのに信じる人」の幸いを持っているのである。ヨハネ福音記者は、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と解説している。ご聖体を挙げる司祭自身と、彼と共に祭壇を囲む信徒たちが、ご聖体を「神の子メシアである」と信じて告白し、イエスの名により命を受けることになると言っているのである。 

つづく 

Maria K. M.


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