イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/02/03

181. 預言された者 その5

『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の第20のテーマ「よい修道者とむなしい修道者」では、次のように書いている。「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ、自分のすべての楽しみと喜びを見いだし、それらによって人々を満足と喜びのうちに神の愛へ導く修道者は幸いです。暇つぶしのむなしい言葉を喜び、それによって人々を笑いへ導く修道者は不幸です。」ここには、サン・ダミアーノの十字架像をとおしてフランシスコが受け取ったヨハネの福音書と黙示録の極意がある。彼はまさしく、「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ」という言葉をヨハネ福音書から身に着け、「幸い」と「不幸」の感覚、そして、それを自分自身の中で他者を見るかのように見分ける力、メタ認知力を黙示録の訓練から身に着けていたのだ。それこそが、「イエスの愛しておられた弟子」の姿である。彼はこのポジション、「イエスの召命」に留まりたかったと思う。 

ヨハネ福音書の主の復活の場面に描かれた7つのエピソードの最後の3つは、まさに「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ」ある「神の愛」について明らかにしている。前回考察したように、イエスが、御父の熱情とともに、母の思いをもって神の愛を示したのは、イエスの喜びが「彼らの内に満ち溢れるようになるため」(ヨハ17:13)であった。人々をそこに導くこと、すなわち「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ、自分のすべての楽しみと喜びを見いだし、それらによって人々を満足と喜びのうちに神の愛へ導く」ことは、すべてのキリスト者の務めである。キリスト者は、キリストの弟子、キリストの名を背負った修道者だからだ。 

その可否は、新しい契約の司祭職にかかっていた。新約聖書を読むと、御父の熱情とそれを負った御子の思いが、新しい契約の司祭職を目指していたことが伝わってくる。神は、初めの男性に、「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで」(創3:19)と言った時から、聖霊が降臨し、新しい契約の司祭が聖霊と協働してご聖体を生み出すその時を待ち構えていたのである。この神の計画は、私たちの間にある「神の国」が、キリスト者によって証しされ、全世界に認知されるまで、今も止むことがない。それが、すべてのものを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と神が言った時点に到達する時である。ミサ典礼が完成したなら、それが「神の国」であったと私たちキリスト者が実感するだろう。ご聖体を生み出すために聖霊と協働する男性、使徒とその後継者たちは、イエスの母マリアから受け継いだ司祭職を存続させて(ヨハ19:26~27参照)、イエスが示した「神の愛」を未来のキリスト者に保証し続けるのである。 

5つ目のエピソードでは、大漁の後、使徒たちが魚のかかった網を引いて、舟で戻って陸に上がって見ると、炭火がおこしてあった。パンもあった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(ヨハ21:12)と声をかけた。そして、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(21:13)。イエスは、やがて使徒たちの言葉によってイエスを信じる人々に、使徒たちが成すべき手本を見せたのである。ここにこそ、男性である使徒がイエスの母マリアから受け継いだ司祭職の本質がある(ルカ22:27参照)。 

6つ目のエピソードで、イエスは、ペトロの体験をとおして「神の愛」を伝えようとした。復活した日の夕方、イエスは使徒たちの前に現れて、主の平和を与え、彼らを派遣するために、彼らに罪を赦す権能を授けた(ヨハ20:19~23参照)。これによって彼らは、イエスを見捨てて逃げたことや、ペトロがイエスを三度否んだことから癒されていた。この状態が、「神の愛」を伝えることができる時である。 

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた」(ヨハ21:15)と書かれている。かつてイエスは、使徒たちの前で「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と答えたペトロに、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と明かし、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(16:18~19)と約束した。イエスの眼差しは、今再び御父の熱情と母の思いをもって使徒ペトロに注がれた。「この人たち以上に」という条件に、ペトロは応えられるはずであった。 

「ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」(ヨハ21:15)。「わたしの小羊」と言えるのは、御父である。このときペトロに愛を問うたのは御父の御心であった。イエスは続けて愛を問うて、「わたしの羊の世話をしなさい」(21:16)と命じた。これは母の思いを持った御子の御心である。三度目に同じように問うて、「わたしの羊を飼いなさい」(21:17)と命じて続けたイエスの言葉には、これから起こることを告げる聖霊の働きがあった(16:13参照)。著者は、聖霊が降臨した後でその言葉の意味を知ったのである(21:19参照)。三位一体の神の愛を知ることは、人が神の一致の内に入る体験である(17:21~26参照)。そして、イエスは、ペトロに「私に従いなさい」(21:19)と言った。「神の愛」を体験したペトロに再びキリスト者としての道を示したのだ。 

つづく

Maria K. M.


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