2025/12/08
225. ヨハネ福音書と新約の司祭職 イエスの母
新約の司祭職の視点からヨハネ福音書を読むと、様々なことに気付かされる。前回考察したように、ヨハネ福音書の1章は、初めに三位一体の神のイメージを伝えている。後に、「わたしと父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたイエスの上に聖霊が降ってとどまったように、また、イエスご自身が、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(8:58)と言われたように、イエスは、三位一体の神である。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)ということが実現したのは、イエスが神であったからだ。
洗礼者ヨハネの証言の中には、「水で洗礼を授ける」、「“霊”が降って、ある人にとどまる」、「聖霊によって洗礼を授ける人」という言葉が現れている(ヨハ1:33参照)。そこに、私たちの教会が教える3つの秘跡、洗礼、堅信、叙階の秘跡の姿が確認できる。洗礼と堅信は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じる人々に神の子となる資格を与えるための道である(1:12参照)。それは、父と子と聖霊の名によって授けられる秘跡であり、そのために、「聖霊によって洗礼を授ける人」が存在する。それは神であるイエスが、やがて使徒たちに授けるために、地上にもたらした新約の司祭職である。
洗礼者ヨハネは、イエスに聖霊が降るのを見て、イエスが神の子であることを確信すると、自分の弟子たちにイエスに従うよう促した(ヨハ1:35~37参照)。イエスに関する師の体験を、そばで見聞きしていた洗礼者ヨハネの弟子たちは、すぐイエスに従うことができた。その一人であったアンデレが、兄弟シモンをイエスのところに連れて行ったとき、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする』と言われた」(1:42)とある。イエスは、シモンと初対面のこの時、「わたしの教会」(マタ16:18)の土台となる使徒の頭を選んだ。ヨハネ福音書は、新約の司祭職にとって、曖昧になってはならない重要な場面が、いつどこで起こったかをしっかりと書いて残した。
その後、イエスはフィリポとナタナエルも弟子に加えられた(ヨハ1:43~51参照)。フィリポは、「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身」(1:44)とあり、ナタナエルは、「ガリラヤのカナ出身」(21:2)であった。ガリラヤのカナは、続く2章の初めにある「イエスの最初のしるし」(2:11)が行われた場所である。このように新約の司祭職に呼ばれた男性は、神の運びの手中に置かれ、イエス・キリストの生涯に関連付けられていく。そして、彼らに特別に準備されたイエスとの関係は、イエスの母との交わりに向けられていく。彼女こそが、天使のお告げに応えて、初めてイエスを受け入れ、イエスの名を信じた人であった。
「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(ヨハ2:1~2)と始まる2章では、イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母の対応に目が留まる。イエスの御業のために召し使いたちに命じた彼女の願いは、イエスの名によって遣わされた聖霊が降臨した後も続いている。イエスの母は、新約の司祭職を授かった使徒たちとその後継者たちと今も共にいて、聖霊に聞き従う彼らに同じ言葉で願い、励ます。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と。
カナの婚礼の場面で、イエスは水をぶどう酒に変える最初のしるしを行った。このエピソードは、イエスが最期の食卓で、ぶどう酒の入った杯を取って、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言われた聖体制定の場面とイメージが重なる。そして、ヨハネ福音書は、カナの婚礼に続けて神殿から商人を追い出す場面を描き(ヨハ2:13~22参照)、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(2:21)という解説を挿入した。これらのことから、2章にはご聖体の秘跡が現れていると見ることができる。
新約の司祭職は、神と人の命に関わる職務である。「私はある」と言われる神は、新約の司祭職を授かった男性からご聖体として生まれ出て、神があるようにと願い、女性から生まれる人の命に仕えることを望まれた。それは、イエスを受け入れ、イエスの名を信じ、洗礼によって神の子となる資格を与えられた信者が、ご聖体に育まれて神の子となるためである。
Maria K. M.
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