イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/04/27


245. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

イエスはカファルナウムで、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)と、ご自身に従ってきた群衆に言われた。この言葉は、この時の群衆には理解できなかった。しかし今、私たちは、イエスが、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。・・私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6:33~35)と言われたことを実現されたことを知っている。ゆえに私たち教会は、ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きようと努力する。 

日々水を飲むように黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練は、信者がミサ典礼に向かう日常のルーティンと重なっている。イエスがもたらした神の国の中核をなすミサ典礼に与り、神に向かって「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるすべての信者の内奥で、天の父の名が聖とされるために、ヨハネの黙示録の第1の幸いは、黙示録の訓練を続けることが必須であることを告げた。そこに「時が迫っているからである」(黙1:3)とあるように、わたしたち信者が、イエスの名によって遣わされた聖霊と共にいて、共に働く時は、なのである。「み国が来ますように」という祈りが真剣みを帯びてくるのは、このためである。そして、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの道を聖霊と共に歩む自分を確認しつつ、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と祈るのである。 

ミサ典礼に向かう日常のルーティンの道筋で立ちのぼるこれらの祈願は、信者たちの口に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という確信的な祈りをもたらす。主の祈りの第4の祈願であるこの人間的で素朴な祈りには、黙示録の、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれた第4の幸いが向かい合う。この幸いは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願の持つ人間的で素朴な表現の裏に、重厚で根源的な構造があることを示している。それは、この祈りが、創世記の「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創3:19)と、アダムに予告した神の言葉が、実現することを願う祈りだからである。 

創世記には、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」(創2:7)とある。ヨハネ福音書に、復活したイエスが使徒たちに、「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハ20:22)と書かれているところからも、「神の息」は、人を霊的存在とするものであると分かる。人は神のイメージで、また、「神は霊である」(4:24)とイエスが言われた神との類似性を持って創造された。人は初めから霊的存在となるものとして創造されたのである。神はアダムに、自分の肉体の死に至るまで「額に汗して糧を得る」ために働くこと、そして霊的存在に戻ることを予告した。この予告が、女性から生まれるすべての人のものになるように、イエスは女性から生まれ、アダムに告げた言葉を実現するために、男性としてお生まれになった。 

イエスが、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」と言われた「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」とは、まさに、その働きを授けられた男性が、額に汗して得る「糧」なのである。「父なる神が、人の子を認証されたからである」とは、このように働く男性に、天の父がしるしを付けられたということである。それは、イエスが以前、「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)と言われた言葉を受け取った男性のしるしである。 

イエスのこれらの言葉を最終的に受け取ることができたのは、その当時、使徒たちだけであった(ヨハ6:66~69参照)。「人の子があなたがたに与える食べ物」は、天の父の「御心を行い、その業を成し遂げること」であり、それは、「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」を生じさせ、それを特別な仕方で人々に分け与えることである。彼らは、イエスの名によって遣わされた聖霊と共に働き、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と言われたイエスの言葉を現実のものにする。この神の現実は、ミサ典礼の中で繰り返される。イエスが聖体制定とともに使徒たちに授けた新約の司祭職は、併せて使徒たちに委ねられた王職によって、連綿と受け継がれるものとなったからである。 

イエスの名によって遣わされた聖霊は、福音として地上に残されたイエスの御言葉に命を与え、生きるものとされる。ミサ典礼の中で新約の司祭職は、聖霊の「介添え人」(ヨハ3:29)である司祭の記憶に、特別な仕方で隠されている。彼らは、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という彼らの祈りは、御父に聞き入れられ(16:23~24参照)、ご聖体が生まれる。これらの只中で、すべてを目撃する司祭自身と会衆は、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願が叶うのを見る。彼らは、第4の幸いである「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いに与っているのである。 

Maria K. M.


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