イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/05/11


247. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

前回の考察を続ける。黙示録で、天使が筆者に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」(黙19:9)と言ったように、ミサ典礼の中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子、イエス」と呼び、毎回ご聖体とその名を結び付けて自身の記憶に書き記すことの幸いと重要性を、どれほど強調しても足りない。このような仕方は、人が直観的に受け取れない事柄を身に着ける際の、常とう手段である。しかし、世界中で、ローマ・カトリックの信者は、司祭が掲げるご聖体を前にして、百人隊長の言葉で応える。それは、ご聖体と百人隊長の謙遜の言葉が、容易に結びつくからである。一方、イエスが百人隊長の信仰を褒めたのは、彼が、兵隊を前に権威を行使する自分の体験から、イエスの権能を信じ、イエスを受け入れたことにある。イエスは彼の人間的な謙遜を褒めたわけではなかった。 

むしろ、「私が行って癒やしてあげよう」と言われたイエスに、「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます」(マタ8:8)と言って、その来訪を断った百人隊長の謙遜は、彼の家族がイエスと出会う機会を奪う結果となった。また、人間的な謙遜を抱き、自分の足を洗おうとするイエスを拒んだペトロを、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハ13:8)と厳しく戒められた。イエスが弟子に求めるへりくだりや謙遜は、仕える者になることや(マタ23:11~12参照)、招待を受けたら末席に着くこと(ルカ14:10~11参照)、神の前では、あの義とされて家に帰った徴税人のように自分の望みを正直に願うことであった(18:13~14参照)。 

これらの事から考察すると、世界中で、ローマ・カトリックの信者が、毎回ミサ典礼の中で、ご聖体を前にして、百人隊長の言葉を唱え続けているのは、この言葉が、ご聖体への尊敬とへりくだりを表すと勘違いしているからだと言わざるを得ない。しかしそれは、パンとぶどう酒の形態に隠れるほどの神のへりくだりを前にして、あまりにも釣り合いのとれない言葉である。イエスは、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタ11:28~30)と言われた。信者が、神の子イエスの神的なへりくだりに倣うことは、イエスの軛を負い、荷を担う決断をすることにある。 

それは、イエスの名によって遣わされた聖霊と共に働かなければ、人にはできないことである。そのために、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子、イエス」と呼び、毎回その名を自身の記憶に書き記すことで、この啓示が暗黙知となって信者たちの記憶に留まることは、ミサ典礼に与る者の大きな幸いである。直観的に受け取れない事柄を身に着ける際の、これが最も効果的な仕方だからである。しかし、ここでもう一つの弊害にぶつかる。信者たちの旧約聖書への依存である。旧約聖書の使命は、福音書の中でイエスによって引用されたことでその役目を終えた。イエスとつながり、イエスによって完成され、福音書の中で新しい御言葉として生きるものとなったのである。ゆえに、それは、必要に応じて解説されれば十分である。 

しかし、主日のミサにおいて、信者たちがことばの典礼に入ると、復活節を除き、先ず初めに旧約聖書が朗読され、続いて詩編が唱和される。その後に使徒書や福音書が朗読されるのである。そうするとそこで読まれる新約聖書の言葉は、旧約聖書や詩編の朗読に共感した信者の記憶に後から入れられることになる。いわば古い革袋に入れられた新しいぶどう酒である。ミサ典礼に行き着いた信者の中には、悩みや苦しみを抱えている者や、日々の重荷に心が弱くなっている者もいる。そんな信者たちにとって、旧約聖書や詩編の言葉に共感し、身を任すことはたやすい。それらは深い感動を呼び起こし、後につかの間の安らぎを得させることもある。こうして、旧約の預言とともに、今も救い主を待ち続ける民の世界観に浸る危険の中に、イエスの新約の民が放置される。 

このようなミサ典礼の雰囲気の中でも、司祭に朗読され、聖霊によって生きるものとなった御言葉は、鋭い剣となって信者の記憶に入り、しみついた「人間の情報」をそぎ落とそうとする。「人間の情報」は、イエスが弟子たちに自分自身と区別することを教え、受難と十字架上の死をもって、示し続けた、「いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者」(黙12:9)の真の姿である。黙示録では、太陽の中に立つ天使が、個々の信者からそぎ落とされた「人間の情報」を「肉」と呼んで、空高く飛んでいるすべての鳥にそれを食らえと命じる(黙19:17~21参照)。最期の食事の前に、弟子たちの足を洗って拭いて浄めたイエスのように。それは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟ったイエスが、「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(ヨハ13:1)行為であった。 

しかし、ミサ典礼をこのように行っている私たちは、イエスの前で、人間的な謙遜を抱き、「私の足など、決して洗わないでください」(ヨハ13:8)と言うに違いない。そして、ことばの祭儀の前に回心の祈りをしたとしても、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という主の祈りの第5の祈願が叶う日は遠い。また、この祈願が行き着くはずの黙示録の第5の幸い、「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(黙20:6)という現実は、更に遠くにある。 

Maria K. M.


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