イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/10/26


271. ヨハネ福音書と新約の司祭職 私の血による新しい契約

新しい契約は、神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したことの実現を、その先に見ている。そこに行き着くには、イエスが、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:39~40)と重ねて強調しているように、永遠の命を得て復活するという重要不可欠の道を通る。そのためには、イエスが、「私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく」と加えられた言葉に込められたように、生きている間に人を救う罪の赦しがあることが大前提となる。その罪の赦しを実現する保障が「私の血による新しい契約」である。 

その御言葉は、新約聖書の内にある。聖体制定の言葉の内に抱かれている。マタイは、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:28)、マルコは、「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マコ14:24)、ルカは、「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)と書き取った。これらの文言は、イエスが十字架上で亡くなられた直後に、「兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハ19:34)とある場面から効力を発揮した。そのイエスに向かって立っていたローマの百人隊長でさえ、イエスが息を引き取られた様子を見て、「まことに、この人は神の子だった」(マコ15:39)と言った。私たち信者は、ご聖体に向かって立ち、宣言する言葉の重要性に未だ気付いていない。 

ご聖体が神の子キリストであると宣言することの重要性に気付けば、ヨハネ福音記者がイエスの脇腹から、「すぐ血と水とが流れ出た」ことについて、「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」(ヨハ19:35)と書いた思いを、私たち信者も共有することができる。ヨハネ福音書1章に、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである」(1:12~13)と書かれた箇所は、イエスを受け入れ、その名を信じて入信の秘跡を受け取った私たちが、「神の子となる権能」を授かったということを伝えている。 

そして、「神によって生まれた」とは、イエスの「私の血による新しい契約」によって生まれたということである。私たち信者自身がそれを証ししている。「神の子となる権能」は、信者が自発的に神を「天の父」と呼ぶときその効力を発揮し、イエスの「私の血による新しい契約」を現実のものにする。イエスが宣教の初めから、弟子と人々に向かって、「天におられるあなたがたの父」(マタ5:45他)という言葉を使われ、人々が神に向かって、「天におられる私たちの父よ」と呼ぶように、主の祈りを教えられたのは(6:5~13参照)、「神の子となる権能」が、神を「天の父」と呼ぶことで行使できる権能だからである。その権能には、イエスが最期の食卓で、「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」(ヨハ17:11~12)と祈られた、その祈りの力が込められている。 

イエスのその祈りは、私たちに、信者が自発的に神を「天の父」と呼ぶことで、その名が信者を守ることを伝えている。それは主の祈りの最後にあるように、誘惑や悪から、ゆえに罪からも守られることである。たとえば、創世記で、善悪の知識の木から取って食べることを人に禁じられた神を、私たちの天の父だと捉え直してみる。その気持ちのまま、3章で神に背いた初めの二人の物語を読むと、そこに、ご自分の子たちが仕出かした事の後始末に追われる父の姿を見出すことができる。また、4章のカインの殺人事件に対応する神には、罪を犯してしまった子にきちんと向き合い、何とかして救おうとする天の父の姿が見えてくる。神を「天の父」と呼ぶことには、神の命じたことに背いた過ちや罪を乗り越えていくための力がある。絶望を断って前へ進み、何かを失っても変化を起こし、聖霊と協働して新しい時間を作り出そうとする人がそこに現れる。 

神を「天の父」として理解する力は、やがて自分自身と隣人をより深く理解しようとする方向に向かう。それが「神の子となる権能」の力であり、私たち信者にとって、神を「天の父」と呼ぶことそれ自体に、計り知れない可能性が秘められている。私たちが神に「天の父」と呼びかけることは、「私と父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたイエスに呼びかけることでもある。そこに私たちは「父と子」としての神の在り方を見る。創世記2~3章に現れた「神である主」がおられるのである(本ブログ№264参照)。「神である主」は、聖霊が信者と協働することを可能にするために、三位一体の神でありながら、「父と子」の在り方を取ってご聖体の内に現存される。それは、聖霊が御父と御子から発出されるゆえに可能なのである。信者を神の内に具体的に招き入れる神の仕方である。ゆえに私たち信者は、次のイエスの言葉を完全に受け取り、ミサ典礼を完成し、主の再臨に向かって前進するのである。 

「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」(ヨハ6:53~56)。 

Maria K. M.

 


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