イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/07/31


102. 「あの獣」と「偽預言者」その1

前回まで、「さあ、神の大宴会に集まれ」(黙示録19:17)に始まる天使の言葉を、「十字架の場面」と「種を蒔く人のたとえ」、およびそのたとえについてのイエスご自身の解説に照らして考察した(本ブログ№99参照)。「十字架の場面」では、「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(ヨハネ6:44)というイエスの言葉が実証されていた(本ブログ№101参照)。 

御父が引き寄せてくださるのは、イエスが「その人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:44)ためである。そこで、信者が、御父の引き寄せる力に応えて、イエスの十字架のそばに行こうとするなら、「神の大宴会」を通り、欲の「肉」を天使が命じた鳥たちに食われてしまう機会を得る。信者がこの機会を活用するなら、黙示録において「預言の霊」の仕方で実現したことを(本ブログ№98参照)、自身において見ることになる。 

さて、他方でイエスは、「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と言って、「十字架の場面」を示唆する言葉を残した。今回から、この言葉を頼りに、黙示録の著者が、天使の言葉の後に見て書いた「神の大宴会」の最後の描写を、イエスが「種を蒔く人のたとえ」の後に続けて語った「毒麦のたとえ」と、そのたとえについてのイエスご自身の解説に照らして、前回と同じように考察していきたい(黙示録19:19~21参照)。 

「私は、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢と戦うために、集まっているのを見た」(黙示録19:19)。 

黙示録1:5にあるとおり、「地上の王たち」の支配者は、イエス・キリストである。それにもかかわらず、彼らとその軍勢が、「馬に乗っている方とその軍勢と戦うために、集まっている」のは、彼らが、生きている間から「獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者」(黙示録19:20)、すなわち、貨幣の虜になり、経済の仕組みにからめとられていた者だったからだ(本ブログ№46参照)。そこには、銀30枚でイエスを渡してしまった弟子がそうであったように、獣と偽預言者に惑わされ、悲惨な死に至る者がいる。貨幣とその経済の仕組みがもたらす社会構造は、人の欲さえ凌駕し、人の命を商品にする(黙示録18:12~13参照)。

つづく

Maria K. M.


 2023/07/24


101.  「神の大宴会」 その

今回は、天使の言葉の最後にある「小さな者や大きな者たちの肉」(黙示録19:18)について考察する。これまでと同様に、「十字架の場面」に照らせば、これらの肉は、この場面を遠くから見守っていた大勢の女たちのものである。彼女たちは、「イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」(マタイ27:55~56)と書かれている。このようにイエスに仕え、従ってきた弟子たちに蒔かれた種は、「良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった」(マタイ13:8)と言える。 

ここで、種が結ぶ実に格差が出たのは、イエスご自身が「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(マタイ13:23)と解説したように、「御言葉を聞いて悟る」ことに個人差が出るからだ。「天の国の秘義を知ることが許されている」(マタイ13:11)弟子たちの中にもこのような個人差があるのは、能力や資質によるものではなく、彼らの内に生じる、人の知識と体験から創り出されるあらゆる欲を放置しているからである。これらの欲は、小さなものも、大きなものも、天使が「鳥」に「食らえ」と命じた「肉」である。これらが鳥に食われてしまえば、彼らは、自分が求める真理が何かがよく見えるようになって、「御言葉を聞いて悟る」ことへの望みが増幅していく。この望みは、御父がその者をイエスのそばに引き寄せることによって最高点に達する。 

イエスが「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(ヨハネ6:44)と言ったように、御父がそれをなさるのは、神であっても人でもあったイエスの行動には制約があったからである。「十字架の場面」に登場した女性たちの中には、イエスの母と「愛する弟子」(ヨハネ19:26)とともに、御父がイエスの十字架のそばまで引き寄せた者たちがいた(ヨハネ19:25参照)。 

イエスは、十字架上で、彼らを待っていた。そこで、4つの福音書それぞれが描いているイエスの最期の言葉には、時間的な関連性が見られる。苦しみの中で、彼らの到着を待つイエスの願いは、御父に向かって、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)という叫びになる。しかしそれは、ゲッセマネの園のイエスの祈りと同じく、「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)という言葉に取って代わられる。やがて、十字架のそばに御父が引き寄せた人々を前にして、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言って息を引き取った。この人々は、イエスの血による新しい契約の証人となった。そして、この女性たちの中には、主の復活の初めの目撃者になった者もいた。 

つづく

Maria K. M.


 2023/07/17


100.  「神の大宴会」 その2

「馬とそれに乗る者の肉」(黙示録19:18)とは、 十字架の場面の百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちのものである。彼らは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『まことに、この人は神の子だった』と言った」(マタイ27:54)と書かれているように、恐れや畏敬の念が、彼らの信仰の源泉になっていた。 

マタイ福音書によると、ある百人隊長が、イエスに病の子の癒しを求めたが、イエスが「私が行って癒やしてあげよう」と申し出ると、その来訪を拒み(マタイ8:5~13参照)、「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません」(マタイ8:8)と言ってイエスを押しとどめた。それは、イエスと関わったと知れ渡ることで、ローマ兵である自分の地位や権威が揺らぐのを恐れたからだ。 

ルカ福音書の場合、百人隊長は、直接イエスと会うことさえしなかった(ルカ7:1~10参照)。彼は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、イエスに来てくれるように頼んだ。しかし、イエスが彼らと一緒に出かけて行って、彼の家の近くまで来ると、百人隊長は友人たちに伝言を託し、今度はイエスの訪問を断っている。前回「種を蒔く人のたとえ」について考察したが、百人隊長にとって、御言葉は、「茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった」(マタイ13:7)種であった。 

イエスは、百人隊長の事情をすべて見抜いていたが、百人隊長が、「ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます」(マタイ8:8)と言った言葉に驚いた。人の権威の下にいる彼が、指揮官としての日常の体験を生きて、真理を悟るまでになっていたからである(マタイ8:8~11参照)。 

そこで、イエスは、ご自分についてきた人々に対し、「よく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」(マタイ8:10)という言い方で、ご自分の民が頑なでいることを指摘した。異邦人がここまで精進してきている時代に、現状に居座っていれば、まさに、「東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く」(マタイ8:11)ことになる。 

とはいえ、自身も人の権威に服従し、戦争になれば殺人も厭わない立場にいる百人隊長の信仰は、御言葉が実現することを見ても、実を結ぶことのない信仰であった。このような人は、イエスの解説の中の、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人」(マタイ13:22)である。 

やがて、聖霊に教えられ、信者一人一人がイエス・キリストの啓示を悟って信じる時代が来たが、教会は、百人隊長の信仰に留まり続けている。ご聖体を前にして、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。お言葉をいただくだけで救われます」と言い続けることで、それを証ししているのだ。それは、百人隊長のように人の権威の下で生きることを好んでいるからだ。そこで、今も、「小羊の婚礼の祝宴」は、「神の大宴会」(黙示録19:17)になる。 

つづく

Maria K. M.



 2023/07/10


99.  「神の大宴会」

「また私は、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た」(黙示録19:17)と書かれている。「太陽の中に立っている」という描写が、福音書の「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(マルコ15:25)と言う記述と合致することから、黙示録の場面は、ここからイエスが十字架に付けられた時点に移ったと言える。 

続けて、「この天使は大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。『さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、将校の肉、権力者たちの肉を食らえ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由人、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食らえ』」(黙示録19:17~18)と書かれた。この天使の言葉は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)という十字架上のイエスの証を、「預言の霊」の仕方で実現したものである(本ブログ№98参照)。 

イエスのこの祈りは、多くの人が、権力欲、権威欲、支配欲など、人の知識と体験が創り出すさまざまな欲に従って行動しているのに、それに気づかないでいることを示している。天使が「鳥」に「食らえ」と命じた「肉」は、これらの欲であり、これらが鳥に食われてしまえば、自分が何をしているかわかるようになる。そこで、この考察を先に続ける。 

この天使が「鳥」に「食らえ」と命じた言葉は、福音書に類似の表現を見つけることができる。それは、「種を蒔く人のたとえ」にある「鳥が来て食べてしまった」(マタイ13;4)という文である(マタイ13:3~23参照)。このたとえにはイエスご自身が解説を加えており、それを頼りに、また、上記のように、天使が「鳥」に命じた言葉が、イエスが十字架に付けられた時点で発せられたことを考慮して、その解釈を試みる。 

「王の肉、将校の肉、権力者たちの肉」は、大祭司、律法学者、長老など、十字架上のイエスをののしって侮辱した人たちのものである(マタイ27:39~44参照)。彼らは、御言葉を聞く機会があったとしても悟らない。自身の権威欲や支配欲が、記憶に入った御言葉を奪い取ってしまうからだ(マタイ13:19参照)。彼らにとって御言葉は、道端に落ち、鳥が来て食べてしまった種である(マタイ13:4参照)。 

「あらゆる自由人、奴隷の肉」は、死を前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫んだイエスの言葉を聞いて興味を持った人たちのものである(マタイ27:46~49参照)。彼らにとって御言葉は、「石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイ13:5~6)種である。彼らは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れたとしても、「自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」(マタイ13:21)。

つづく

Maria K. M.


 2023/07/03


98.  「イエスの証しは預言の霊なのだ」

これまで見てきたように、黙示録を朗読し、それを聞くヨハネの黙示の訓練者は、黙示録の第4の「幸い」、すなわち「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」(黙示録19:9)の幸いに同伴されて、福音書に記された「イエスの証し」が、黙示録において「預言の霊」の仕方で実現されていく過程を、著者ヨハネと共有することになる。その例を以下に具体的に見ていくことにする。この過程を共有することによって、ヨハネの黙示の7つの「幸い」の中で唯一「幸い」の理由が書かれていない第4の「幸い」に解を与えることが可能になる(本ブログ№32参照)。それは、神の国で過越しを成し遂げる第一歩である。 

本ブログ№95で考察したように、白い馬に乗っている方は、メシア、神の子であった(黙示録19:11~13参照)。続けて、「天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた」(黙示録19:14)という描写は、マタイ福音書のゲッセマネの園で、「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ26:53)というイエスの証しが、預言の霊の仕方で実現されたものであった。 

「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである」(黙示録19:15)の描写は、ヨハネ福音書のキドロンの谷の向こうにある園で、「イエスが『私である』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(ヨハネ18:6)という証しが、預言の霊の仕方で実現されたのである。 

「また、自ら鉄の杖で彼らを治める」(黙示録同上)の描写は、「茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した」(マタイ27:29)と言う証しが、預言の霊の仕方で実現されたものである。 

「そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている」(黙示録同上)という描写は、4つの福音書すべてに記載されたイエスの受難の血の証しが、預言の霊の仕方で実現することを表している。 

これらイエスの受難の場面では、誰がイエスか、また、イエスは誰なのか、神の子か、メシアか、ユダヤ人の王か、という問いが付いて回った。イエスは、これらの問いに対して、常に”神の現実“を語って証しした。「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙示録19:16)という描写は、イエスの名に関わるこれらイエスの証しが、預言の霊の仕方で実現されたのである。 

世の人々は、誰でも、婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだと言うだろう。しかし、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いは、この婚礼の祝宴が「小羊」のものであるところに、その特異性がある。「小羊の婚礼の祝宴」は、「神の大宴会」(黙示録19:17)になる。

Maria K. M.


 2023/06/26


97.  4の「幸い」とペトロの鍵

イエスの受難によって、神の国は到来した。イエスが再び過ぎ越しの食事をするために、神の国で過越を成し遂げるのは、聖霊と共にいる私たち教会である(本ブログ№96参照)。「小羊の婚礼の日」(黙示録19:7)とは、小羊の花嫁である新約聖書が成立する日だった。それは、まさに「聖なる者たちの正しい行い」(黙示録19:8)であり、著者が待ち望んでいたことだ。そこで、第4の「幸い」と「神の真実の言葉」を書き記すと、著者は、天使の足元にひれ伏して拝もうとしたのである。天使はその彼を押しとどめ、「イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙示録19:10)と言って、まだ預言が続くことを告げた。 

その預言の初めに、天から、「白い馬」が現れたことによって、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」(黙示録19:9)の「幸い」に解をもたらす「神の真実の言葉」が、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)という、ペトロの言葉であることは明らかだ(本ブログ№95参照)。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(マタイ16:17)とイエスが言ったペトロのこの言葉には、ゆえに、特別な効力がある。 

この効力によってイエスは、次のように言葉を続けた。「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。イエスは、ペトロの言葉、「あなたはメシア、生ける神の子です」を教会の基礎に置くことで、陰府の門の力が封じられることを保証した。また、「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる」(マタイ16:19)と言って、ペトロの言葉の効力が、結ぶ時も、解く時も、地上と天上で同時に有効になることを告げた。 

「イエスの証しは預言の霊なのだ」という特別な表現は、旧い契約の預言が、イエス・キリストによって実現されたように、新約聖書のイエスの証しが、新しい契約の預言となって、聖霊と協働する個々のキリスト者の上に実現されることを指している。ゆえに、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の「幸い」と結ばれたペトロの言葉、「あなたはメシア、生ける神の子です」の効力は、すべてのキリスト者のものである。 

ここから黙示録は、福音書に記された「イエスの証し」が、「預言の霊」の仕方で実現される過程を描写していく。これを朗読し、その声を聞いて記憶するヨハネの黙示の訓練者は、著者ヨハネが体験した、いわば、神の現実のシミュレーションを追体験することによって、著者ヨハネとこれを共有するようになっていく(黙示録19:14~20:5参照)。やがて、「預言の霊」の仕方に人の感覚が慣れてくると、日常の出来事に、神の現実を、重ねて見るようになる。

Maria K. M.


 2023/06/19

96.  4の「幸い」の同伴

ルカ福音書は、イエスの最期の夕食の場面で、イエスが、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」(ルカ22:15)と書いた。そして、イエスが、神の国について2つの予告をしたことを伝えた。それは、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまでは、私はもはや二度と過越の食事をすることはない」(ルカ22:16)と、「言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)である。 

一方、ヨハネ福音書の十字架刑の場面に目を移すと、十字架のイエスのそばには、イエスの母、クロパの妻マリア、マグダラのマリア、「愛する弟子」がいた。そして、イエスは、ご自身の母と「愛する弟子」を親子の絆で結んだ(ヨハネ19:25~27参照)。この場面に続けて、ヨハネ福音書は、「その後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」(ヨハネ19:28)と書いた。ここで、これら2つの場面の直前にある、「『彼らは私の服を分け合い、衣をめぐってくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった」(ヨハネ19:24)という文で、詩編22:19が引用されているために、ここでも「渇く」という言葉にまつわる「聖書の言葉が実現した」箇所を、同じ詩篇に探すかもしれない。すると詩編22:16を見いだす。しかし、そうではない。イエスが「渇く」と言ったのは、すべてのことが成し遂げられたと知ったその時、酢、すなわち、「ぶどうの実から作ったもの」を受けて飲むことによって、神の国が来たことを告げるためであった(ヨハネ19:29~30参照)。 

イエスは、受難を通して流された御血によって、「私の血による新しい契約」(ルカ22:20)を実現した。彼が、「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ」(ルカ17:20~21)と言った通りに、イエスの血による新しい契約に参与する者たちの中に、神の国はすでに来ているのだ。この事実は、イエスが再び過ぎ越しの食事をするために、神の国で過越を成し遂げるのは、今や私たち教会であることを指し示している。だから、黙示録の第4の「幸い」は、「小羊の婚礼の祝宴に招かれた者」(黙示録19:9)の預言を共有するヨハネの黙示の訓練者に同伴するのである。

Maria K. M. 


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