イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/04/21


192. 7人の弟子と7つの手紙(第7の手紙)

前回考察したように、ティベリアス湖畔で漁をしていて復活したイエスと出会った7人の弟子たちの内、「ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)という言葉に当てはまる一人は、ペトロの兄弟アンデレであった。続けてもう一人の弟子、すなわち黙示録の第7の手紙の「ラオディキアにある教会の天使」に当たる弟子について考察する。 

ここで、ヨハネ福音書の中で名前が挙がっている男性の弟子たちを見ると、ペトロ、アンドレ、フィリポ、ナタナエル、トマス、イスカリオテのユダ、(もう一人の)ユダである。この6人の弟子たちの中で、ティベリアス湖畔の「7人の弟子」としてすでに名前が挙がっている者たちを除くと、フィリポ、イスカリオテのユダ、(もう一人の)ユダとなる。そこで、ヨハネ福音記者が、フィリポが、アンデレとペトロの町、「ベトサイダの出身であった」ことを強調していることを考えると(ヨハ1:44,12:21参照)、この弟子はフィリポだと言える。 

フィリポは、ナタナエルと出会い、すぐに彼をイエスに導いた(ヨハ1:45~46参照)。この時、フィリポがナタナエルに言った「来て、見なさい」(1:46)という言葉は、洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレともう一人が付いて来るのを見たイエスが言った言葉、「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)と同義である。漁師であった彼は、他の仲間と同じく直観的な人物であった。彼は自分の直観に自信を持っていたに違いない。しかしその姿勢は、時にその背後にある物事の本質を捉える感覚を鈍くする。フィリポはその後、イエスと共にいて、水をぶどう酒に変えたしるし(2:1~11参照)、役人の子をいやしたしるし(4:43~54参照)、病人をいやしたしるし(5:1~9参照)を体験し、それに伴うイエスの教えを見聞きしたにもかかわらず、自分の傾向に気付かないでいた。 

福音書には、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(ヨハ6:5~6)とある。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)と答えた。しかしこの答えは、イエスが群衆のためにパンと魚を増やすしるしには、結びつかなかった。そこで、そのときイエスがしるしを行うきっかけを作ったアンデレの見事な答えを、フィリポは目の当たりにすることになった(6:9参照)。彼は、このとき自分の傾きに気付いたに違いない。そして、それを克服するようになったことが次の場面で分かる。 

イエスがエルサレムに登った時、何人かのギリシア人が来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハ12:21)と頼んだ。それは、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた」(12:17)とあるように、イエスの評判が弟子たちを超えて群衆によって遠方まで達したことを意味していた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ15:24)と語っていたイエスの宣教は終わりに来ていた。このギリシア人たちの申し出を最初に受けたのは、フィリポであったが、直接イエスに取り次ぐことはしなかった。「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した」(ヨハ12:22)と書かれている。 

そして、最期の食卓では、トマス、イスカリオテでない方のユダとともに、子供のようにイエスに質問し、イエスから多くの御言葉を引き出している(ヨハ14:5~24参照)。フィリポの成長のプロセスは、私たち信者のものでもある。ゆえに、黙示録の第7の手紙の主は、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」(黙3:14)と書かれ、これまでとは異なり、私たちが受け取りやすい方として表現されている。この方が、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15~16)と言われる言葉に、現代の私たち信者は返す言葉がない。その通りだからである。「なまぬるい」状態は、どのようにして起こるのか。 

誰もが、自己充足や自己実現のために、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」(黙3:17)といった感覚を持って行動する。それは同時に人を、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(3:17)状態に置く。自分の真の姿を自身に隠しているのだ。これが「なまぬるい」状態を生む。ゆえに手紙の主は次のように続ける。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(3:18)。さらに、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(3:19)と励ます。「わたしから買うがよい」とはどこで実現されるのか。どこで「叱ったり、鍛えたりする」のか。それはこれら7つの手紙を含む黙示録の訓練の場である。 

つづく

Maria K. M.


 2025/04/14


191. 7人の弟子と7つの手紙(第6の手紙)

これまで、黙示録の7つの教会の天使たちへの手紙を、ヨハネ福音書の、ティベリアス湖畔で漁をしていて復活したイエスと出会った7人の弟子たちに当てはめ、その妥当性を検証してきた。ヨハネ福音書には、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれており、この順で行くと第6の手紙は「ほかの二人の弟子」の一人ということになる。 

黙示録の第6の手紙は次のように始まる。「フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(黙3:7)。この言葉は、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:19)という、かつてイエスがペトロに言った言葉を彷彿させる。 

続いて、「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(黙3:8)とあるのは、イエスがペトロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(ヨハ13:38)と言った言葉を思い出させる。これらのことから、第6の手紙の宛名「フィラデルフィアにある教会の天使」は、ペトロの兄弟であり、ペトロを最初にイエスに引き合わせたアンデレであると推定できる。彼も漁師であった。 

手紙は続けて、「見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」(黙3:9~11)と書き、「勝利を得る者」への報いをもって終わっている。「フィラデルフィアにある教会の天使」は、「イゼベル」が出現した第4の手紙、ヤコブと想定される「ティアティラにある教会の天使」とともに、他の天使たちのような厳しい忠告を受けていない。アンデレもヤコブも優秀な弟子だったに違いない。それは、彼らがイエスと出会う前に洗礼者ヨハネの弟子だったからではないだろうか。 

ヨハネ福音書によると初めにイエスに従ったのは、洗礼者ヨハネの二人の弟子たちであり、そのうちの一人は、「シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」(ヨハ1:40)と書かれている。もう一人は上記の理由からゼベダイの子ヤコブだと思われる。それゆえ、その時のいきさつをヨハネ福音記者は詳しく記載することができた。「(洗礼者)ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(1:35~37)とある。二人は師である洗礼者ヨハネからイエスについて、「世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)、「私よりも先におられた」(1:30)、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」(1:33)、「この方こそ神の子である」(1:34)という知識を得ていたのである。 

その後の二人の行動には目を見張るものがあった。彼らが従ってくるのを見たイエスが「何を求めているのか」と問うた言葉に、「ラビ-『先生』という意味-どこに泊まっておられるのですか」(ヨハ1:38)と問い返して、イエスから「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)という言葉を引き出している。そして勧められるままにイエスについて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。さらに夕刻であったので、その日はイエスのもとに泊まった。彼らの行動は直観的で迷いがない。その後、アンデレはペトロに会いに行き、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」(1:41)と言って、彼をイエスのところに連れて行っている。彼は非常に読みが深く、的確に行動する人物であった。 

アンデレのこの特性はイエスの弟子になってからも変わらなかった。大勢の群衆がイエスの方へ来るのを見たイエスが、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6:5)と言ったとき、イエスが何をしようとしているかを直観的に察し、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」6:9と答えて、イエスがしるしを行うきっかけを作った(6:10~13参照)。 

このように、いつもイエスの意図に的確に従う堅実な彼は、イエスの信任が厚く、弟子たちの中から、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて出るときも、後を任せることができたのだろう。やがて、他の弟子たちも彼を頼みにするようになった。エルサレムで何人かのギリシア人がイエスに面会を求めたとき、初めに受けたフィリポは、行ってアンデレに話してからイエスにつないでいるところからも、それがうかがえる(ヨハ12:20~22参照)。 

アンデレは、次の約束に相応しい者であった。「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(黙3:12)。 

つづく

Maria K. M.


 2025/04/07


190. 7人の弟子と7つの手紙(第5の手紙)

前回考察したように、黙示録の第4の手紙の宛名である「ティアティラにある教会の天使」は、ゼベダイの子ヤコブであった。そこで、第5の手紙の「サルディスにある教会の天使」は、同じくゼベダイの子のヨハネに当たる。ヨハネは、使徒ペトロとともに活発に宣教活動をしていたことが、使徒言行録に記されている。しかし、ペトロとサマリアで福音を告げ知らせたことを報じた後、ヨハネの消息を記していない(使8:25参照)。その後、フィリポの活躍、パウロの回心、そして、引き続きペトロは独自の宣教活動を続けている中で、ヨハネはどのように生きていたのだろうか。兄弟ヤコブの共同体を助けていたのかもしれない。 

そうであれば、ヤコブが剣で殺されたとき、そこに居合わせただろうヨハネは(使12:1~2参照)、この悲劇が、かつてイエスが「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」(マコ10:39)と予告したことが実現したのだと思ったに違いない。「イゼベル」の出現によってヤコブは裏切りの杯を飲んだ(黙2:20~25参照)。彼は人々の前で惨殺され、彼の共同体は散らされた。ヨハネはこのとき、自分について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハ21:21)と尋ねたペトロに、復活したイエスが、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」(21:22)と言った言葉を思い出しただろう。 

「サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる』」(黙3:1)で始まる黙示録の第5の手紙は、第1の手紙の「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(2:1)と似せて描かれている。第1の手紙の宛名の天使は使徒ペトロであった。このことは、この手紙を受け取る天使であるゼベダイの子ヨハネが、使徒ペトロのように、イエスから特別な召命を与えられていたことを示唆している。しかし、続く手紙の内容は、ヨハネが、兄弟ヤコブが剣で殺され、彼の共同体が散らされたことに衝撃を受け、うちのめされたことをうかがわせる。ヨハネも深手を負ったに違いない。 

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」(黙3:1~2)。ここには、生き残ったヨハネの体験もまた、兄弟ヤコブと同じく、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言ったイエスの言葉の実現であり、神は、ヨハネがヤコブとはまた別の仕方でキリストの道を全うするよう計画していたことが暗示されている。 

「だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」(黙3:3)と励ましているのは、ヨハネが福音書の執筆に向かうことを示唆しているのである。イエスの名によって遣わされた聖霊の引き出す言葉こそは、ヨハネにとって命であり、暗闇の中で輝く光であった(ヨハ1:4~5参照)。その言葉の内にイエスキリストの世界観がある。それを表現できるのは、イエスの愛しておられた弟子、使徒ヨハネをおいて他にはいないのである。 

続いて、「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」(黙3:3)と記して、やがてヨハネが、に満たされ、ラッパのように響く大声を聞くまでになることを予告している(1:9~10参照)。その体験が黙示録を書かせたのである。 

そして、「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである」(黙3:4)と書かれている言葉は、ヤコブと、彼と共に殺された者たちについて祈るヨハネに答えを与えている。この手紙の主は最後に次のように約束している。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3:5)。「白い衣」と「命の書」のテーマは、永遠の命に導く神の現実を表す黙示録の重大なテーマとなる。 

つづく

Maria K. M.


 2025/03/31


189. 7人の弟子と7つの手紙(第4の手紙)


これまで、ヨハネ福音書のティベリアス湖畔での大漁の場面で、復活したイエスと出会った7人の弟子たちと、黙示録の7つの教会の天使への手紙との間には、相関があるのではないかと考え、ヨハネ福音書に書かれた順に弟子たちを7つの教会の天使に当てはめ、検証を進めてきた。7人の弟子たちは、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれている。そこで、第4と第5の手紙は(黙2:18~3:6参照)、「ゼベダイの子たち」に当たる。今回は第4の手紙、「ティアティラにある教会の天使」に宛てた手紙について考察する。

手紙の初めに、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる」(黙2:18)と、この手紙の送り主の姿が描写されている。この描写は、黙示録の著者ヨハネが、主の日に“霊”に満たされて聞いた声の主の描写の一部、「目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き・・」(1:14~15)と酷似している。この手掛かりは、著者ヨハネに語りかけた声の主が「神の子」であることを示すと同時に、第4の手紙の「ティアティラにある教会の天使」が、著者ヨハネに似た者であることを示唆している。それは、ヤコブである。 

ヤコブは、イエスが重要な場面でペトロとヨハネと共にいつも伴っていた特別な弟子の一人だった。そこで、「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」(黙2:19)と書かれている。その一方でイエスは、ヤコブとその兄弟ヨハネに「雷の子ら」(マコ3:17)という名を付けた。実際、彼らには強気に先走りする傾向があって、イエスにたしなめられている(マコ9:38,ルカ9:49,54参照)。その上、彼らは野心家でもあった(マコ10:35~41参照)。彼らは実によく似ていたのである。 

手紙で「神の子」は次のように指摘している。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(黙2:20)。ここでは列王記に登場するイスラエルの王アハブの妻イゼベルが引き合いに出されている(王上16:31~21:25,王下9:7~37参照)。この指摘は、教会共同体において、司祭が、アハブ王のように、自分の身近で重宝する女性を重用するなら起こるに違いない悲劇を示唆している。 

教会共同体には初めから多くの女性たちが奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。司祭がその一人のすることを「大目に見ている」と、共同体のさまざまな思惑が彼女に向かい、彼女が相応の能力を備えていれば、司祭と彼の共同体の間に「イゼベル」が出現する。「自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え」とあるように、司祭の後ろ盾を得た彼女は、信徒に向かって権威ある者として振舞い、自分の仕方で彼らを教える。「また惑わして、みだらなことをさせ」とは、その態度と相応の能力で人を惑わし、自分の言うことを聞くようにさせること。そして、「偶像に献げた肉を食べさせている」とあるのは、彼女の言うことを聞く信徒たちが、信仰の純粋さを損なう彼女の行為に慣れ、平然とそれを受け入れるようになることである。 

手紙には「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない」(黙2:21)と続く。彼女は、「この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らない」(2:24)人々を見つけると、列王記のイゼベルのように彼らに制裁を加える。信徒の中にはそのような共同体から逃げ出す者もいる。司祭が、彼の共同体に何が起こっているのかに気付くには時間がかかる。使徒言行録に、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(使12:1~2)とある。ヤコブは、このような状況の中で、虚を突かれたに違いない。 

人の思いや判断を見通す「神の子」は、人が行ったことに応じて一人一人に報いる。そして、「この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らない」人々に対して、「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」(黙2:24~25)と励ましている。信者にとって真の権威は、「神の子」が与える「明けの明星」(2:28)であり、それはイエスご自身である(22:16参照)。 

つづく

Maria K. M.

 


 2025/03/24


188. 7人の弟子と7つの手紙(第3の手紙)

前回の考察を続ける。ヨハネ福音書には「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)とあった。そこから、黙示録の第3の手紙の宛名である「ベルガモにある教会の天使」は、上記の順に行くとガリラヤのカナ出身のナタナエルに当たる。 

ナタナエルは、フィリポに出会ってその召命をつかんだ。フィリポは彼に、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(ヨハ1:45)と告げた。彼はそれに、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(1:46)と応じた。他の箇所では、群衆の中でも聖書を知っている者が、「メシアはガリラヤからでるだろうか。メシアはダビデの子孫で、メシアはダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」(7:41~42)と言ったことや、祭司長やファリサイ派の人々が、「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(7:52)と言ったことが記載されている。 

フィリポに対するナタナエルの応答は、彼が聖書についてよく知っていたことを物語っている。しかし、イエスと同じガリラヤ出身の彼には、「ガリラヤから何か良いものが出るだろうか」とは言えなかった。それでも、「来て、見なさい」(ヨハ1:46)と言ったフィリポの言葉に興味をもって彼の後について行ったのである。ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼の考えを知っていたイエスは、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(1:47)という言葉をかけた。この言葉にナタナエルは、「どうしてわたしを知っておられるのですか」(1:48)と問うた。彼は、イエスに内面を見抜かれた思いがしたのだ。 

イエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハ1:48)と答えた。当時のユダヤ人にとって、「いちじくの木の下にいる」とは、個人的な祈りや静かな時間を持つことを指すことがある。イエスは、彼がそのような人であることを示唆したのだ。このイエスの答えは彼の心の琴線に触れ、彼は、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(1:49)と告白した。しかし、イエスの対応は次のように少し冷たかった。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)。 

ナタナエルの告白には真実があったとしても、聖書の知識を持っていた彼にとってこの答えは、ラビ(先生)や長老とみられる人と出会ったときの常套句であったかもしれない。そこでイエスは、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言って、彼の真実を固めようとした。その三日後に行われた婚礼の場で、イエスが水をぶどう酒に変えるしるしを行い、その栄光を現すところを、ナタナエルは他の弟子たちと共に目の当たりにすることになる(ヨハ2:1~11参照)。ナタナエルの出身地がガリラヤのカナであったことから、このしるしは他の誰よりも彼の脳裏に焼き付いて残ったにちがいない。そして、最期の食卓でイエスが聖体を制定した時、彼の記憶にカナの婚礼のしるしが鮮明によみがえったことだろう。

後日、さらにイエスは二回目のしるしを再びカナで行った。死にかけている王の役人の子を、御言葉だけでいやしたのである(ヨハ4:46~54参照)。イエスに対するナタナエルの真実は固まった。黙示録の第3の手紙に書かれた、「鋭い両刃の剣を持っている方」(黙2:12)、「すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」(2:16)という言葉は、ナタナエルにとって真実である。そして、彼が読めば、「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」(2:17)とあるこの手紙の最後の言葉の意味が分かる。 

「隠されていたマンナ」は、イエスの最期の食卓の聖体制定の場面を示唆する「キリストの体」である。そして、「キリストの体」は御言葉によって成る。そこで、「その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」とある言葉から、黙示録19章に登場する「白馬の騎手」の描写に導かれる。そこには、ナタナエルが見たイエスの真実、「白い小石を与えよう」と言った方の真実がある。イエスの名によって遣わされた聖霊の姿が、次のようにイメージされているのだ。 

「私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『忠実』および『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである」(黙19:11~15)。 

つづく

Maria K. M.


 2025/03/17


187. 7人の弟子と7つの手紙(第1と第2の手紙)

前回の考察で、ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の言葉にある「わたしの来るときまで」(ヨハ21:22)が、黙示録のアジア州にある7つの教会の内、スミルナにある教会を除く6つの教会の天使に宛てた手紙のテーマになっていること、そこからこの言葉は「新約聖書が成立するときまで」の意であったこと、そして、その言葉を解釈したヨハネの心には、すでに黙示録が予感されていたことが分かった。そうであれば、この箇所でヨハネ福音書と黙示録、さらに他の福音書をつなぐ側面が見つかるかもしれない。 

そこで、復活したイエスの第5のエピソード、ティベリアス湖畔での大漁の場面で、そこに集まっていた7人の弟子たちと、黙示録の7つの教会の天使への手紙との間には、相関があるのではないかと考えた。7人の弟子たちについては順に、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれている。この順に7つの教会の天使に当てはめ、それらの手紙の内容と相関があるかどうかを検証する。 

第1の手紙の宛名である「エフェソにある教会の天使」(黙2:1)は、7人の弟子の順でいくと初めに書かれたシモン・ペトロに当たる。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(2:4~5)とあるのは、主の受難の夜、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ13:37)と言ったペトロが、鶏が鳴く前に三回否んだことが符合する。続けて、「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」と言われている。黙示録で「燭台」は教会であって(黙1:20参照)、「あなたの燭台」はここだけに出てくる。そこでこの「燭台」は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ16:18)とイエスが言った教会を指すとみられる。 

また最後に、「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(黙2:7)とあるのは、ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタ19:27)と言ったとき、イエスが、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(19:29)と言ったことと合致する。「永遠の命を受け継ぐ」と「命の木の実を食べさせよう」は同義である。 

第2の手紙の宛名である「スミルナにある教会の天使」(黙2:8)は、ヨハネ福音書の7人の弟子の順でいくと「ディディモと呼ばれるトマス」に当たる。トマスは、復活したイエスが初めて弟子たちに現れたとき、弟子たちと一緒にいなかった。ヨハネ福音書にその名がたびたび登場し、イエスの重要な場面でイエスとのやりとりがあったトマスにとって(ヨハ11:16,14:5参照)、復活したイエスが彼のいないときに弟子たちを訪れたことはショックだったに違いない。福音書には、「ほかの弟子たちが、『私たちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」(20:25)とある。 

黙示録の第2の手紙は、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる」(黙2:8)という言葉で始まる。「一度死んだが、また生きた方」とは、イエスの復活を信じないと言ったトマスに向けられている。そして、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2:10)と書かれているのは、イエスが生前ラザロを蘇らせるためにベタニアへ行くとき、トマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハ11:16)と言っていたことと符合する。彼が自身の言葉に忠実に生きて、命の冠を授けられるなら、「決して第二の死から害を受けることはない」(黙2:11)。 

前述のように、この第2の手紙には、他の6つの手紙に載せられている「わたしの来るとき」のテーマがない。復活したイエスが、上記のエピソードでトマスだけのためにもう一度弟子たちの所に来たことを考慮して(ヨハ20:24~29参照)、この手紙から省かれた可能性がある。また、それによって、ヨハネ福音書の7人の弟子たちと黙示録の7つの教会の天使への手紙との間に関りがあることに気付くサインになっているのかもしれない。 

つづく

Maria K. M.



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