2024/07/22
153. ヨハネの黙示録の内に現れたご聖体の秘儀
前回、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第4の預言、「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(12~16章)の中の、天と荒れ野に隠されたご聖体と司祭職についての考察を振り返った。これをもとに現在の考察を先に進める。
第4の預言で天に隠されたご聖体は、第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落で姿を現す。「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」(黙示録20:11)の句で始まるこの段落では、「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」がご聖体をイメージさせ、ご聖体によって悪霊が救われる様子が描写される(20:12~15参照)。そして、「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(20:14~15)で終わる。この構造によって、太字で示した箇所が決め手となって、第7の預言、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落も、次のようにご聖体について続けて描写されていることが分かる(21:1~8参照)。
「聖霊の霊性の預言」の初めの段落は、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21:1)で始まる。次に、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(21:2)という句が続くことから、これが第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)に関わることだと分かる。「夫のために着飾った花嫁」が、イエスの最期の食卓、すなわち祭壇を表しているからである(本ブログ№149参照)。ゆえに、この段落で著者が聞いた「玉座から語りかける声」(21:3)も、「玉座に座っておられる方」(21:5)の声もご聖体からのものである。聖霊による、いわば第二の受肉の神秘であるご聖体が、イエス・キリストが成し遂げたすべてを継続し、保っている様子が語られているのだ(21:3~7参照)。そして、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者・・・このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)で終わる。
完全に神であり、完全に人として現存したイエス・キリストは、この世で人の身体を取って生きている間、ただ追い出すだけで救うことをしなかった悪霊たちを、死んで陰府に降って救った(本ブログ№147参照)。ご聖体は、それと同じ仕方で、すなわち信者に食べられて死ぬことによって、今も悪霊たちを救っている(20:12~15参照)。さらにご聖体は、イエスが人々と共におられたように、神が私たちと共におられること、そしてそこに神の国があることを実感させる(21:3~4参照)。
イエス・キリストが成し遂げたすべてを私たちに悟らせる聖霊は、ご聖体を拝領する信者たちの中で、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言ったイエスの言葉を実現し、いわば第三の受肉の神秘を具体的に体験させる。そしてそのことによって、第三の受肉の神秘の状態を再現することのできる聖霊の霊性へと彼らを導く(黙示録 21:5~6参照)。聖霊の霊性の中で、神を天の父と呼ぶキリスト者は、同時に神であるイエスの子となる(21:7参照)。こうして、キリスト者がイエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって世の中で協働する姿は、世にイエス・キリストの姿をもたらすのである。
だから、終わりに、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)と書かれている警告は、「不信仰な者」という言葉が示すように、私たちキリスト者に向かっている。
昇天するイエスから、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1:8)と言われていた使徒たちのように、聖霊を受けたキリスト者であっても、受けた力を信じないで、おくびょうな者、不信仰な者となって、次々と不義を重ねていけば、第二の死を免れないのである。
こうして、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落と共に、第4の預言で天に隠されたご聖体の秘儀を明らかにしている。同じく荒れ野に隠された司祭職の秘儀については次回以降に考察する。
Maria K. M.
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