イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/02/17



183. 「あなたは、わたしに従いなさい」

前回、ヨハネ福音書の最後の夕食の場面の「イエスの愛しておられた弟子」について回想した。彼は、イエスが御父の内におり、御父がイエスの内におられることを信じ、体験していた。この弟子がイエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言っている様子から、彼には、母の胸でやすらぐ幼子の平和が感じられる。彼は実際に眠かったのだ。 

ルカ福音書には、ペトロとヤコブとヨハネが、イエスと共に山に登りイエスの変容に与った場面で、「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:30~31)とある。マタイとマルコ福音書の並行箇所には、下山するときイエスが、「エリヤは既に来たのだ」(マタ17:12)と言ったとある。これは洗礼者ヨハネのことで、イエスが、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(11:13)と言っていることから、モーセとエリヤがイエスの未来に関わるはずがない。弟子たちが見た二人はモーセとエリヤではなかった。彼らは、特別なかたちで三位一体の神を見る機会を授かったのだ。ルカ福音書は、「ペトロと仲間は、ひどく眠かった」(ルカ9:32)と記載している。 

また、ゲッセマネの園で祈るイエスとともにいた時も三人は眠っていた。ここでも、弟子たちは、「ひどく眠かったのである」(マタ26:43)と書かれている。夜通し漁に出ることに慣れていた彼らにとって、それは不自然な状況に見える。まして各福音書はそれぞれ、弟子の誰かが剣を持っていたことを伝えている。またイエスもその夜、剣を持つように言っている(ルカ22:35~38参照)。このように緊張感のみなぎるその夜に弟子たちが眠るわけがなかった。彼らは祈るイエスの姿に三位一体の神を見たのだ。これらの記述から、この体験は人間の認知の限界を超えてしまったのだと言える。それでは、信者はいつまでも神を見たと認知することができない。そこで神は初めからご聖体を制定することを計画していた。「命の木」から取って食べさせようとしていたのだ(黙2:7参照)。 

前々回考察したように、ペトロは、復活したイエスに、「愛しているか」と問われた場面で、三位一体の神の一致の内に入る「神の愛」の体験をした。しかしこの時ペトロは眠くならなかった。それどころか、イエスが「わたしを愛しているか」と三回目に問うた時、「イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(ヨハ21:17)と書かれている。彼がこれほど平静だったのは、目の前にいた方が復活したイエスだったからだ。それは、私たちが、復活したイエスの御体と御血であるご聖体を前にした時と同じだ。 

復活したイエスは、ペトロにこの体験をさせることで、かつてイエスが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と答えたペトロに、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と明かし、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(16:18~19)と言った場面の記憶を固めた。ペトロにこれらの御言葉が宿ったのである。すべては聖霊と協働してご聖体を生み出す司祭職のためであった。 

ペトロは、続けてどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして言ったイエスの言葉を悟った(ヨハ21:18~19参照)。「わたしに従いなさい」(21:19)と言った言葉に、イエスと同じ最期に与ることを覚悟したのである。そして、「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」(21:20)。彼は、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21:21)とイエスに尋ねた。ペトロは、自分の死を悟って、若い彼のことが心配になったのである。 

イエスはペトロに答えて言った。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」21:22)。この二度目の「わたしに従いなさい」には、また別の意味があった。ペトロとヨハネ、主の最期の食卓を準備した二人は(ルカ22:8参照)、聖霊が降臨した後、いつも一緒に宣教したことが使徒言行録に記されている。やがて、全く異なる道を通って、サン・ダミアーノの十字架像の上で再会する。 

つづく

Maria K. M.



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