イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/03/23


240. ヨハネ福音書と新約の司祭職 痛手

使徒パウロは、ダマスコへの途上で天からの光の中で地に倒れ、イエスの声を聞いた。その後パウロは、おもだった使徒たちからイエスについて真摯に聞き取った体験によって、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装することができた。しかし、神から特別な目的を持って選ばれた彼の体験を、そのまますべての信者たちに応用することは不可能である。パウロは、異邦人の信徒たちに宛てた手紙で、「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」(一コリ14:26)という勧めを書き送っている。 

パウロは、自分を育んだユダヤの祈りの仕方をベースに、イエス・キリストについての教えを盛り込んで訓練することで、共同体を内側から変容させる霊的環境を生み出す手段とすることができると考えていたかもしれない。詩編は、救い主を待ち望みながらも決して見ることのなかった者たちの預言的な言葉を編纂したものであったが、その構成は、人の感性を神に向ける方向性を持っている。しかしパウロは、疑問も感じていたに違いない。ルカが福音書で書いたように、イエスは、「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」(ルカ5:36)と言われたからだ。旧約の預言とイエスが実現されたこととの間には、それほどの大きなギャップがある。 

イエスは続けて、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:37~38)と言われた。革袋とは、ミサ典礼や教会の祈りの場に拠り所を見出す信者たちの記憶である。ミサ典礼や教会の祈りでは、先ず初めに旧約聖書が朗読され、詩編が唱和される。その後に使徒書や福音書が朗読されるのである。そうするとそこで読まれる新約聖書の言葉は、旧約聖書や詩編の朗読に共感した信者の記憶に後から入れられることになる。いわば古い革袋に入れられた新しいぶどう酒である。そこには大きなリスクがあるとイエスは警告する。私たち教会は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と言われたイエスの言葉を真摯に受け取る必要がある。 

更に続けてイエスは、「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(ルカ5:39)と言われた。ここには未来を思うイエスの残念な気持ちを感じる。ヨハネ福音書の別の場面でイエスは、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」(ヨハ5:39~40)と言われた。ここには、イエスについて証しする旧約聖書の魅力に引かれて、永遠の命について証しする新約聖書のイエスのもとに来ようとしない信者たちの未来の姿も予見されている。旧約聖書の朗読や詩編の唱和に努めているうちに、そこにイエスの名がないことから、かえってそれらの中にイエスがおられると錯覚し、そこに留まってしまうのである。 

「命を得るために私のもとに来ようとしない」と言われた後、続けてイエスは、「私は、人からの栄光は受けない。しかし、あなたがたの内には神への愛がないことを、私は知っている」(ヨハ5:41~42)と言われている。錯覚の中に留まっていれば、「神への愛」は起こりようがない。それは教会にとって致命的な痛手である。「神への愛」は、常に信者を、命を得るためにイエスのもとに行こうと駆り立てる。イエスが、「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:17)と言われた聖霊が、私たち信者の自発性を喚起するからである。 

教会にとって致命的な痛手のゆえに、コリントの共同体に見られた苦しみは、21世紀の今も世界中で続いている。派閥争い、みだらな所業による共同体の崩壊の危機、告訴、売春、異言や預言の問題、無秩序な礼拝。そして、今も戦争は絶えることなく続き、戦火は世界を巻き込んで再び燃え上がろうとしている。パウロの働きによってローマに集ったペトロとパウロ、ルカ、マルコ、そしてテモテは、どうしたら信者の内に、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性を育てていくことができるか、その養成を考えていただろう。そのときパトモスと呼ばれる島で、パウロに使徒の柱の一人と目されたヨハネは、そのテーマに取り組んでいたのである。 

Maria K. M.

 


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