2026/03/30
241. ヨハネ福音書と新約の司祭職 パトモスの2羽の鷲
前々回考察したように、自分の使命が、イエスから「良い羊飼い」の杖を委ねられたペトロを、ローマの共同体に迎えることにあると悟っていたパウロは、その時宜が到来すると、「トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください」(二テモ4:13)と、テモテに手紙を書いた。それがペトロを指すことを知っていたテモテは、ペトロと共にマルコを伴ってローマに向かった。パウロのところにはルカがいた。ペトロとパウロが自分たちの死を十分に認識していたと思われるこの時期、彼らは集って共にイエスのなさったことを残す具体的な案を考えたに違いない。そこでパウロがエルサレムで柱の一人と目されていたヨハネを忘れるはずはなかった(ガラ2:9参照)。ヨハネには福音宣教を支える霊的な養成が期待されていたのである。
同様にペトロも、復活したイエスにヨハネの未来について尋ねたとき、「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハ21:22)とお答えになった声を、忘れることはなかった。それは、イエスがご自分の牧者の杖をペトロに委ね(21:15~17参照)、「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(21:18)と言った直後であった。ヨハネ福音記者は、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(21:19)と解説しているが、その裏には、パウロに「帯を締められ」、ローマに連れて行かれるという予告が隠されていた。
このように、ヨハネ福音書には、新約聖書の他の書との関わりに、読者が気付くきっかけをつくる含みがある。そこで「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか」とペトロに言われたイエスの言葉を見ると、それに続けて、「それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『私の来るときまで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」(ヨハ21:23)と、ここでも含みのある解説をしている。ヨハネ福音書の終盤に置かれたこの含みは、イエスとの再会を示唆していたのである。それは、パトモスと呼ばれる島で、ヨハネが黙示録を書くことになるからであった(黙1:9参照)。
このことは、ヨハネの黙示録の冒頭に、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)と書かれことを見ても分かる。続けて、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした」(1:2)と、第三者の目で書いている。それは、同じようにヨハネ福音書の、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハ21:24)と、第三者の証言として書かれた文脈と共鳴していることからも、そこに含みがあったことを見ることができる。
さらに、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)と続けた黙示録の言葉は、ヨハネ福音書の最後の句、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハ21:25)を受けている。聖霊は、「イエスのなさったこと」を、書物ではなく、体験によって信者たちの記憶に残すことにした。黙示録に書かれた言葉を朗読する声は、それを聞いた人の記憶にその言葉を保持させる。それは、信者の感覚に「イエス・キリストの黙示」を注入し、ディープラーニングのような学習の仕方で、イエス・キリストの世界観が信者の記憶の中で自律的に形成されるようにする訓練となる。
信者は、この訓練を自発的に日々繰り返し体験することによって、記憶にある情報伝達のパターンが、神に向かって再構成される。特定の回路がつながりやすくなるのだ。それは、さまざまな折に信者の記憶に入っている御言葉に向かい、この回路が頻繁に認識され、強化されることにより、ものの見方が変わって、福音書の中で弟子たちがイエスと他の人々と区別していたように、神と人間の情報との区別が起こるようになる。ヨハネの黙示の訓練を続ける最大の効果は、どの信者にもこの区別が与えられるようになるということである。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性をもたらし、教会に大きな益をもたらす。
イエスが約束した聖霊は、「父が私の名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハ14:26)として、特別に使命を持って降臨された。その使命は、「イエス」の名によって遣わされた聖霊が、私たち「キリスト」者と協働し、二つの名が一つとなって、イエス・キリストの御業が再び世に現れることを実現する使命である。その中心には、これまで考察してきたように、イエスがもたらされた新約の司祭職と牧者に委ねられた王職、使徒職と聖霊と共働するための預言職がある。そのために書かれたヨハネの福音書と黙示録は、分かつことのできない、パトモスの2羽の鷲であった。
Maria K. M.

0 件のコメント:
コメントを投稿