イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/10/12

269. ヨハネ福音書と新約の司祭職 使徒パウロの至福直観

前回の「区別と識別Ⅱ」では、ヨハネ福音書と黙示録が、「川」というたとえを使って、私たち信者が、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することによって、聖霊と協働する機会に恵まれ、至福直観と、多くの実りと癒しを得る幸いに与ることができることを考察した。そこでは人は、自己超越欲求が引き出され、その高揚感によって神のようになった感覚、あるいはキリストとの合一を体験した感覚に陥ることはない。ましてやそこにエクスタシーを見出すことはない。至福直観の至福とは、福音を観ることである。それは、聖霊が私たちの記憶から福音を引き出し、私たちの声がそれを語るとき直観される。私たちの語る声は、自分の感覚が捉えたものを証しするからである。 

イエスが、「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハ14:20)と言われた言葉を自分のものにするのは、聖霊と協働する機会を捉えた時である。それを容易にするのは、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することを助けるヨハネの黙示録の訓練を、日常的に実践することである。聖霊と協働するということは、イエスご自身が、「私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである」(14:10)と言われたことを、信者が体験するのであるから、訓練はどうしても必要である。それによって、聖霊と協働する自分を捉えて、「私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいる」と言われたイエスの言葉を共有することができる。 

パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、次のように主の幻と啓示について綴っている。「私は、キリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです」(二コリ12:2)。十四年前というのは、彼が回心した頃かもしれない。続けて同じ内容を繰り返していることから(12:3参照)、パウロはイエスの名によって遣わされた聖霊と協働する機会を捉えた時、その強烈な印象を受け取ったのである。そして、「その人は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです」(12:4)とある。「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」とは、新約聖書に記されることになる福音であった。それが未来を先取りした内容であったために、彼には分かっても言葉にできなかったのである。 

パウロは、聖霊と協働する機会を捉え、至福直観に与った。しかしここで問題なのは、「第三の天にまで引き上げられた」と、「その人は楽園にまで引き上げられ」と書いていることだ。彼はその時、あるいは、後で、その体験に何らかのエクスタシーが伴っていたことを見出したのである。彼はそれを隠さず告白している。当時のコリントの共同体が抱えていた厳しい状況に対する戦略があったからだ。パウロは自分のすべてをかけてその状況を乗り越えようとしていた。彼は、「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、私自身については、弱さ以外は誇るつもりはありません。もっとも、私が誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。しかし、誇るのはやめましょう。私について見たり、聞いたりする以上に、私を買いかぶる人がいるかもしれないからです」(二コリ12:5~6)と続けた。 

そして、「また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(二コリ12:7~8)と書いた。彼は、啓示を受けるたびにまとわりつくエクスタシーの感覚を、「棘」にたとえて冷静に受け止めている。そして主が、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(12:9)と言われたことを私たちに伝え、「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」(12:9~10)と励ましている。 

パウロには、至福直観の先に見えていたものがあった。それは、未来の信者たちが、完成されたミサ典礼の中で、キリストとの完全な合一の体験に与り、聖霊の特別な「識別」に導かれる姿である。パウロが次のように証ししたことから、新約聖書の成立によって、福音書にイエスの言葉が現れると、その言葉がすべての時を自由に現在化することを、彼が知っていたことが分かる。 

「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一コリ11:23~26)。 

Maria K. M.


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