イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/06/23


201. 黙示録7章と11

黙示録は、主の昇天までを記述する四つの福音書に加えて、使徒言行録とパウロの書簡が新約聖書に載ることを預言した。その理由を述べた7章と、これら二つの書が天に上げられるてんまつが描かれている11章を考察する。 

7章の初めに「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」(黙7:1)と書かれている。ここで2回出てくる「四隅」という言葉が、新約聖書では使徒言行録だけに同じく2回出てくる「四隅」を暗示している(使10:11,11:5参照)。それは、ペトロがヤッファの町で祈っているとき見た幻の中に出てくる。ペトロは、幻の意味を、聖霊が働きかけた異邦人との出会いから悟った(10:1~48参照)。彼がこの体験を、エルサレムの教会に帰って報告すると(11:1~17参照)、それを聞いた人びとは、「『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(11:18)とある。これを機にエルサレムの教会は異邦人への宣教にも向かっていくことになる。この方針転換が、「大地の四隅から吹く風」である。 

四人の天使が、大地の四隅から吹く風を吹き付けないようにしていたのは、回心した後タルソスへ行ったパウロを、バルナバが見つけ出してくるまで、異邦人への宣教を待つためであった(使11:19~26参照)。主がパウロの回心を助けたアナニアに、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9:15)と言ったように、また、パウロがローマへ船出する前にアグリッパ王に語り掛け、「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(26:19~20)と証ししたように、パウロは、異邦人だけではなく、イスラエルの子らにもイエスの名を伝える使命を帯びていた。

 ここで黙示録を見ると、パウロの宣教は、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人を選んで神の刻印を押すためであるとともに(黙7:2~4参照)、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(7:9)が、「玉座の前と小羊の前」(同)に立つことができるようになるためであった。ここから、11章の初めに、筆者が、杖のような物差しを与えられ、「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」(11:1)と命じられたのは、イスラエルの子らの全部族の中から、神の刻印を押す人々を選ぶためであったことが分かる。 

続けて、「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」(黙11:2)という預言があって、これはイエスのエルサレム崩壊の預言を示唆している(ルカ13:34~35参照)そこで、「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である」(黙11:3~4)と続いている。「粗布をまとわせ」は、「自分の二人の証人」が書物や手紙であることを示唆し、「千二百六十日の間、預言させよう」とは、「四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじる」ことになるローマ帝国で、この預言が実現することを暗示している。時間を示すこれら二つの表現は、神の忍耐の時を表している。 

また、黙示録で「燭台」が、教会を指すことから(黙1:20参照)、「二本のオリーブの木、また二つの燭台」は、使徒パウロのローマの信徒への手紙に登場する「野生であるオリーブの木」と「栽培されているオリーブの木」でたとえられた二つの教会(ロマ11:24参照)、すなわちユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の教会共同体を暗示している。そして、これら二つの教会を支えるものとして、すでに使徒言行録とパウロの書簡が、「地上の主の御前に立つ」、すなわち、イエスの名によって地上に遣わされた聖霊に認められていることを証ししている。ゆえに、大きな効能を発揮するこれら二つの書に害を加える者は、神から敵とみなされる(黙11:5~6参照)。 

そして、「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」(黙11:7)とある。これら二つの書が世に出ると、「一匹の獣」が、「底なしの淵」、すなわち、過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまう。続けて、「彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(11:8)と書かれたように、その「獣」は、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈する。パウロが書いたものが、「難しく理解しにくい箇所があって」(二ペト3:16)、「地上の人々を苦しめたからである」(黙11:10)。

 しかし、これら二つの書から真実を悟って救われ、天上にいる人々が(黙7:9~17参照)、「三日半の間」(11:9)この成り行きを見守り、二つの書の真実を伝える力が墓に葬られないよう祈り支えている。一方、地上の人々は、「獣」が行った改ざんを大いに喜ぶ。「贈り物をやり取りするであろう」(11:10)とあるように、その解釈によって、金品や富が行きかい、権力や権威が売り買いされる未来が予告されている。そこで、「三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた」(11:11)とある。「三日半」とは、ここでも神の忍耐の時である。 

「二人は、天から大きな声があって、『ここに上って来い』と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た」(黙11:12)とは、やがて、これらの書が四つの福音書と関連付けられて、すべての人々に正当に解釈される日が来ることを預言している。黙示録の前半の訓練が新約聖書の暗黙知を、その人の記憶に創り始めるからだ。

 Maria K. M.


 2025/06/16


200. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(黙示録)

黙示録を構成する7つの預言の内、第3の預言は「新約聖書成立の預言」である(4~11章)。そこに出てくる7つの封印は、新約聖書を表していた。最後の第7の封印は黙示録である。これが開かれたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれ、7つのラッパが与えられた7人の天使と、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つ天使が登場する。金の香炉を持った天使の手から、香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こったとある(黙8:1~5参照)。この描写は、イエスが十字架上で息を引き取った直後に起こった現象を想起させる(マタ27:51~52参照)。このような現象は、黙示録の中で6回起こるが、そのうちの3回は黙示録の中に黙示録が現れるときに起こっている(黙8:5, 11:19, 16:18)。黙示録には特別な使命がある。 

7人の天使がラッパを吹くときの描写は、新約聖書が世に現れることによって起こる数々の「災い」、すなわち新約聖書の効能を表している(黙8:6~9:21,11:15~19参照)。次々に吹かれるこれら7つのラッパも、小さな手掛かりから次のように新約聖書の順に並べられていることが分かる。第1のラッパから第4のラッパは、その直後に一羽の鷲が登場することから、四つの福音書と考えられる。第5のラッパは使徒言行録である。第5の天使がラッパを吹いたとき、天から星が落ちてきて、「この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと・・」(9:1~2)とある。この描写は、使徒言行録で、使徒たちが牢に入れられたとき、牢にはしっかり鍵がかかっていたのに、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出したこととつながる(使5:19~23参照)。黙示録で「星」は天使を表しているからである(黙1:20参照)。第6のラッパは、偶像礼拝がテーマとなっており(9:20参照)、このテーマに多くを割いているパウロの書簡である。ゆえに、最後の第7のラッパは黙示録である。 

黙示録は「7つの雷」のたとえで公同書簡にも言及する(黙10:1~4参照)。ここに新約聖書の全貌が預言されたと言える。その後、筆者は天使の手から小さな巻物を取って食べた(10:5~10参照)。それは、旧約聖書に比べて小さい新約聖書である。「取って食べた」とは、コインの裏表のように新約聖書とつながっている黙示録の訓練を自発的にすることで、自分の記憶に新約聖書の暗黙知を持ったということである。「それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」(10:10)とある。「口には蜜のように甘かった」とは、黙示録の訓練が容易に始められるということだ。それがたとえ毎日一句ずつでも、黙示録を自分で声に出して朗読し、それを聞くことを続けることは、けして難しいことではない(1:3参照)。しかし、「食べると、わたしの腹は苦くなった」とあるように、さまざまな考えを思いめぐらす腹にとって、新約聖書の暗黙知を持つことは、苦い薬となることも多い。それは、実際に食べ続けてみれば分かる。 

「新約聖書成立の預言」である第3の預言の初めに、四つの生き物に象徴される四福音書が天の玉座の周りにいた(黙4:6~8参照)。それは、四福音書が新約聖書に加えられることは比較的早く決まっていたことを意味している。聖霊の降臨前までを記述する四つの福音書に加えて、新たに使徒言行録とパウロの書簡が、活用されるために天に上げられる必要があった。第7の封印が開かれて黙示録が登場する前、7章に挿入された出来事は、これら二つが天に上げられる理由を述べている。また、そのてんまつが第7の天使がラッパを吹く直前の11章に描かれている。次回は、これらを検証したうえで、第7の天使がラッパを吹いた後の黙示録の効能を考察した後、黙示録の後半に向かう準備に入る。黙示録の後半は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっており、信者が実生活の中でそこに向かうにあたって、起こり得る多くの困難を乗り切っていくための新約聖書の暗黙知を創る。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。➡ https://catholic-i.net/koramu/%ef%bc%88%e8%aa%ad%e8%80%85%e6%8a%95%e7%a8%bf%ef%bc%89%e8%81%96%e9%9c%8a%e3%81%af%e3%80%81%e7%9c%9f%e5%ae%9f%e3%82%92%e5%8f%97%e3%81%91%e5%85%a5%e3%82%8c%e3%82%8b%e5%a7%bf%e5%8b%a2%e3%82%92%e6%8c%81/

 2025/06/09


199. 黙示録と新約聖書 その2


黙示録は、7つの預言で構成されているが、大きく二つの部分に分かれている。前半(第一から第三の預言、1~11章)は、新約聖書に向かう預言であり、後半(第四から第七の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。前回と前々回考察したように、第三の預言において第1から第6の封印が次々に開かれる黙示録の6章は、現在の順と同じく成立した新約聖書の6つの書とつながっていた。このことから、第三の預言が確かに新約聖書の預言となっていることを確認した。最後に黙示録である第7の封印が開かれると、その特異性が明らかになる。そこで黙示録に入る前に、その性質をよく理解できるように、第一の預言から、これまでつかんだ各預言の特徴を振り返っておきたい。

第一の預言(1章) 教会と共にいるイエス・キリストの預言

「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3) とあるように、 新約聖書の他の書とつながっている黙示録は、自分の声という直観的な感覚を使って人の五感から入り、新約聖書の暗黙知を創る。イエスの名によって救われ、イエスが神の子であることを信じるということは、それを認知するということである。認知は、受け取った情報が、持っている記憶と合致したとき起こる。そこで、イエスに対する信仰を成長させるためには、新約聖書の言葉を受け取ったとき、それと合致する記憶を持っていることが必要で、黙示録がこれを創る。黙示録が直観的に捉えにくく、理解できないような言葉で書かれているのは、新約聖書とつながりながらもそれを意識させずに、暗黙知としてその記憶を創るためである。やがて信者は、複雑な手順を意識することなく、御言葉を直観的に認知するようになる。そして、その暗黙知は、黙示録の言葉を日々五感から取り込む信者の記憶の内で自己組織化し、成長する。 

第二の預言(2~3章) 教会共同体が抱えた問題とその解決の預言

この預言では、7つの教会の天使に宛てた手紙が紹介される。これら7人の天使は、ヨハネ福音書の復活したイエスと出会った7人の使徒たちであり、彼らは皆漁師であった。それは、彼らが、職業がら直観的であったことが重要だったからだ。直感的な彼らの認知力は、漁をするという複雑な手順を、体験から五感をとおして受け取り、暗黙知にしてきた結果である。ルカ福音書で、イエスがペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言った場面のやり取りは、このことを証ししている。先にイエスを見て、肉声でその教えを聞き(5:3参照)、その後にこのように声をかけられた彼らは、漁師として磨かれた直観を土台に、イエスの言葉を認知した。こうしてイエスを信じて従っていった後、イエスと共にいて体験した多くのことが彼らの新しい暗黙知になっていったのだ(ヨハ21:25参照)。やがて彼らは、聖霊の声掛けを聴き、その声を直観的に認知するようになっていく。それは、彼らに新約聖書の必要性を強く感じさせたに違いない。黙示録の7つの手紙の内容は、未来から近未来、現在という形で時系列になっており、第三の預言である新約聖書の成立という解決に向かっていた。そして、すべての手紙の結びにある「勝利を得る者」と「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」という言葉は、これらの手紙が、全信者に向けられていることを示している。 

第三の預言(4~11章) 新約聖書の成立の預言(黙示録の前まで)

「開かれた門が天にあった」(黙4:1)と書かれた門は、イエスが天から降ってきて、再び天に上り、聖霊が降臨したために開かれたままになっている門である(ヨハ3:13参照)。イエスは、世に命を与える神のパンとなるために天から降って来て(6:33参照)、聖霊を送るために去っていった(16:7参照)。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(黙4:2)とある、「その玉座の上に座っている方」は御父と御子である(3:21参照)。「玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった」(4:6)とある目は、神の知識の象徴であり、「前にも後ろにも一面に目があった」のは、四つの福音書の神の知識が一体をなしてすべての出来事に対処するためである。それは、七つの角(完全な権威)と七つの目(完全な知識)を持つ「屠られたような小羊」(5:6)と連動して働くためである。「屠られたような」という表現から、この小羊がイエスの名によって遣わされた聖霊を表わしていることが分かる。 

Maria K. M.


 2025/06/02


198. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(使徒言行録とパウロの書簡)


黙示録において7つの封印が次々に解かれる場面が、新約聖書の成立の預言となっているとの考えをもとに、個々の場面を詳しく検討することにした。前回は、最初の4つの封印が解かれる場面が、4福音書を預言していることを見た。今回は引き続き、第5、第6の封印について考察する。

第5の封印が解かれた時の描写は、使徒言行録の預言となっている。その描写が提起している問いの答えを、聖霊が降臨した直後のペトロの説教に見出すことができるからである。「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た」(黙6:9)という描写の「自分たちが立てた証し」とは、「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタ26:35)という、イエスの最期の食事のときの出来事を指している。しかし、イエスがユダの裏切りによってゲッセマネの園で捉えられたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)。その後、遠く離れてイエスに従い、大祭司の中庭まで行ったペトロも、女中に見とがめられ、イエスと一緒にいたことを問われると、「そんな人は知らない」と誓って打ち消してしまった(26:69~75参照)。これらの成り行きは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(ヨハ18:9)と言ったイエスの言葉が実現するためであったが、弟子たちは、「自分たちが立てた証し」を全うできなかったのである。それは、聖霊が降臨して初めて成し遂げられることになる。そこで、黙示録の筆者が「祭壇の下に見た」魂は、使徒たちの魂である。そして、「彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』」(黙6:10)。この問いには、使徒言行録の聖霊が降臨した直後のペトロの説教にその答えがある(使2:22~36参照)。イエスに起こったことが彼らにも起こるのである。彼らに「魂」があるのは、「殺された」のに生きているからだ。黙示録は、「彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、『あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と告げられた」(黙6:11)と続ける。彼らは、「祭壇の下」で、自分たちと同じように「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに」、今日もミサ典礼を挙行する「きょうだいであり、同じ僕である」司祭たちを見つめ、その数が満ちるのを待っている。彼らは、祭壇の下にいて私たち信者と共にミサ典礼に与っている。

第6の封印が解かれる場面は、パウロの書簡を預言している。ここで描かれたことの意味が、使徒パウロのローマの信徒への手紙によって明らかになるからである。「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された」(黙6:12~14)。この描写は、パウロが回心したときのたとえである。それは彼にとっても、ダマスコの信者たちにとっても想像を絶する激しい仕方で起こった(使9:1~9参照)。イエス・キリストに回心したパウロは、まさに「天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された」かのようだった(9:10~20参照)。アナニアに助けられ、洗礼を受けたパウロは力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコの他の人々をうろたえさせた。やがて彼らがパウロを殺そうとたくらんだときのことを、パウロは次のように語っている。「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」(二コリ11:32~33)。一方、黙示録には、「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、『わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ』と言った。神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか」(黙6:15~17)とある。これらの悲劇の原因は、「怒りの日」という表現によってつながる使徒パウロのローマの信徒への手紙の次の箇所によって明らかになる。「怒りの日」という表現は、新約聖書の中ではこれら2箇所にだけ見られるものだ。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(ロマ2:1~5)。

Maria K. M.

 2025/05/26

197. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(四つの福音書)

黙示録で小羊が7つの封印のうち最初の四つを開いたとき、「四つの生き物」が次々と「出て来い」と呼びかけた。そして、それぞれの呼びかけに応えて、4頭の馬とその騎手が現れる。これらの馬と騎手の描写は、それぞれ次に記載するように、四つの福音書に書かれた復活したイエスの最後の命令に符合する。このことから、著者は以下のとおり特定できる。 

第1の生き物(マタイ福音書) 「また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った」(黙6:1~2)という描写には、マタイ福音書の復活したイエスの最後の命令「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:18~20)という言葉が符合する。「弓」は、「天と地の一切の権能を授かっている」ことと、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ということの保証であり、「冠」は勝利のしるしである。「更に勝利を得ようと出て行った」のは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令に従ったのである。 

第2の生き物(マルコ福音書) 「小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた」(黙6:3~4)という描写には、マルコ福音書の復活したイエスの最後の命令「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マコ16:15~18)という言葉が符合する。「平和を奪い取って、殺し合いをさせる力」は、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」という言葉が人を分けるとき働く。また、「大きな剣」は、「彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」という権能の事である。 

第3の生き物(ルカ福音書) 「小羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。『小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。』」(黙6:5~6)という第3の封印が解かれたときの描写には、ルカ福音書の復活したイエスの最後の命令「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:46~49)という言葉が符合する。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン」とは、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカ6:38)というイエスの言葉がテーマになっている。黒い馬の騎手が手に秤を持っているのは「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」とあるからだ。また、オリーブ油は病気の人のために(ヤコ5:14参照)、ぶどう酒は聖体祭儀のために損なってはならなかった。これらのことは、キリストの受難と死と復活よって、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことによって実現する。そしてイエスが、「都にとどまっていなさい」と言ったのは、これらのことを実現させる聖霊が降臨するのを待つためであった。 

第4の生き物(ヨハネ福音書) 「小羊が第四の封印を開いたとき、『出て来い』と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた」(黙示録6:7~8)という描写には、ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の命令「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハ21:22)という言葉が符合する。この言葉は、イエスがペトロに、彼がどのような死に方で神の栄光を現すことになるかを示し(ヨハ21:19参照)、ご自分の「死」に従うように命じた後、ペトロが、イエスの愛しておられた弟子を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21:21)と尋ねたときの答えである。イエスの愛しておられた弟子は、イエスの昇天後ペトロと共に宣教するが、やがて二人は別の道をたどる。福音書と黙示録に関わることになるこの弟子は、イエスの死に従うことができない。そこでイエスは、ペトロに再び「わたしに従いなさい」と言って、ご自分の死に従うよう命じたのである。「乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた」とあるのは、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(一ペト3:18~19)というペトロの手紙が反映されている。ヨハネはペトロと共にいて、彼のこの考えを聞いていたに違いない。 

Maria K. M.



 2025/05/19


196. 王の王、主の主

私は、ある日、黙示録の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)というフレーズを読んだとき、この書が訓練の書になっていることに気付いた。試しにそれを始めてからその効力を知り、続けて4年近くになる。このごろ使徒パウロのテモテへの手紙の「王の王、主の主」(一テモ6:15)という言葉を読んだとき、黙示録にも同じ言葉が一か所あることを思い出した(黙19:16参照)。そこで、聖書検索をかけてみると、この言葉は、全聖書の中で黙示録と使徒パウロのテモテへの手紙にだけ載せられていることが分かった。 

この言葉があるパウロのテモテへの手紙は、「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」(一テモテ6:15~16)という祈りになっている。同じく黙示録の箇所を見てみると、次のようにパウロの祈りに答えているように見える。 

「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。・・この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。・・その名は『神の言葉』と呼ばれた。・・この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。・・この方の衣と腿のあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙19:11~16)。 

この手紙で、使徒パウロは、弟子のテモテに具体的にさまざまな勧めを与えている。その中で「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(一テモ4:13)と命じ、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(二テモ3:15~16)と教えている。パウロがここで書いている「聖書」は、旧約聖書である。そこには、「キリスト」の預言はあるが、「キリスト・イエス」の名はない。自身の信仰体験から、パウロにとって救いに導く知恵が与えられるのは、キリストとイエスの名が結びついたときであった(使9:4~5参照)。そこで彼は、「与えることができます」、「訓練をするうえに有益です」といった消極的な表現をしているのである。 

イエスは、使徒たちを選び、公生活を共に過ごし、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇させ、聖霊の降臨を体験させた。しかし、使徒パウロは、彼らとは全く異なる神の選びの上に立っていた。他の使徒たちのようなイエスとの実際の体験がなかった。彼は、イエスが「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかったのだ。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となった。 

パウロは、彼自身が「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」(二テモ1:1)と書いているように、いわばイエスに先立ってその道を整えた洗礼者ヨハネのような役割を神から与えられていた。キリスト者の未来を、崩壊するエルサレムから救い出し、ローマを新しい都とする神の計画のために選ばれたのである。聖霊の特別な導きによって、パウロの歩いた道はローマに向かっていた。彼は、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(使22:21)、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)と主が命じるままに前進し、「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9:15)というイエスの言葉を証しした。 

これらすべての物語は新約聖書の中にある。新約聖書には、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」聖霊と、聖霊と協働して新約聖書を執筆した筆者がいる。黙示録には、聖霊と筆者の関係があらわに表現されており、私たちが黙示録を朗読してそれを聞くとき、聖霊と筆者の関係を追体験することになる。一方、朗読される黙示録の描写には、対応する新約聖書の記述があり、両者はコインの裏表のような関係にある。こうして、私たちは黙示録を朗読しそれを聞くことによって新約聖書の記憶を生き生きと保つことができる。新約聖書であるパウロの上記の祈りは、「王の王、主の主」という言葉を含む黙示録の箇所とコインの裏表の関係にあった。黙示録の箇所がパウロの祈りに答えているように見えたのは、このためであった。

Maria K. M.


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