イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/12/22

227. ヨハネ福音書と新約の司祭職 天から与えられなければ

本ブログ№224~226で考察したように、ヨハネ福音書1章は、初めに、神と御言葉と命=光というキーワードを使って、御父と御子と聖霊である三位一体の神を描写している。そして、洗礼者ヨハネの証しと預言を通して、「神の小羊」、「水の洗礼」、「霊が降る」、「聖霊によって洗礼を授ける人」といった表現に、メシア、洗礼、堅信、司祭職を授ける叙階の秘跡の姿が見えた。また、2章では、カナの婚礼で御血のイメージが、エルサレムの神殿のエピソードで御体のイメージが反映されており、ご聖体の秘跡が姿を見せた。ヨハネ福音書は、このように初めの章から、新約の司祭職を中心テーマとして描いていた。3章では、同じテーマをイエスご自身の言葉で語っている。 

イエスは、ニコデモとの対話の中で、洗礼と堅信と神の国について話され(ヨハ3:5参照)、「わたしたち」(3:11)という言葉によって御自分が三位一体の神であることを示した。また、モーセが荒れ野で上げた青銅の蛇を仰いだ人々が命を得たという故事を引いて、十字架に上げられるイエスご自身のイメージを示し、司祭の手によって上げられるキリストの体を示唆した(3:14~15参照)。続いて述べられた永遠の命と世の救いについてのメッセージも、イエスご自身とご聖体の両方に関わっている。その後再び洗礼者ヨハネが登場し、新約の司祭職について預言した(3:22~36/本ブログ№222参照)。 

このとき洗礼者ヨハネは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」(ヨハ3:27~28)と言った。これによって読者は、イエスが洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けるために来た時の場面を思い出す。読者も彼の弟子たちと共にそこに居合わせていたのだ。その時洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」(1:33)と言った。彼は天から言葉を与えられ、神の子を証しする機会を受けたのである(1:34参照)。 

このように、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」という洗礼者ヨハネの言葉は、彼自身の体験からのものである。「天」とは神のことである。新約聖書の中には、もう一人神から直に言葉を与えられた者がいる。使徒ペトロである。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」16:16)と答えた時、イエスが、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と証ししているからだ。 

使徒ペトロは、洗礼者ヨハネのように天から言葉を与えられた。そして、続くイエスの次の言葉を受けたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。ヨハネ福音書によれば、イエスは初対面で、彼をペトロと呼ぶことを決めた(ヨハ1:42参照)。イエスは初めから彼をその時のために選んでいたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と初めに言ったイエスの言葉には、その思いが込められている。 

イエスの選びが実現する時が来た。ペトロに天の父が現した言葉が与えられ、彼はそれを口にした。そして、イエスの言葉を受けた。イエスが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言った「この岩」は、「あなたはメシア、生ける神の子です」という、天の父が使徒ペトロに現した言葉であった。イエス・キリストが誰であるかを宣言するこの言葉が、「陰府の力もこれに対抗できない」イエスの教会の隅の親石である。それは一方で、ペトロが手紙の中で書いているように、「つまずきの石、妨げの岩」(一ペト2:8)ともなる。イエスが昇天し、聖霊が降臨した後、この言葉を受けるイエス・キリストがご聖体だからである。 

私は、使徒ペトロが授かった「天の国の鍵」で、地上と天上のミサがつながっている間に、世界中の信者が、ご聖体がメシア、神の子であることを公言する日が来ることを強く願っている。 

Maria K. M.


 2025/12/15

226. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ニコデモ

ヨハネ福音書は、初めに三位一体の神のイメージをもって、イエスが神であることをはっきりと伝えた。前回考察したように、洗礼者ヨハネの言葉と、カナの婚礼でイエスの母のために行った最初のしるし、エルサレムの神殿でのエピソードの内に、私たちの教会が教える4つの秘跡、洗礼、堅信、叙階、聖体がその姿を現していたことを確認した。イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えるための道が、新約聖書の中にできているのだ(ヨハ1:12参照)。そして、2章の最後に次のような解説を入れ、3章のエピソードへとつなげている。 

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)。 

イエスが彼らを信用されなかったのは、しるしを見てイエスの名を信じても、イエスを受け入れないからである。そこで3章では、イエスとニコデモの対話から、「何が人間の心の中にあるか」を見せている。この中でイエスは、御自分が三位一体の神であること(ヨハ3:11参照)、人の真の必要を満たす神の仕方が、洗礼、堅信、聖体の秘跡にあることを示していく。そしてニコデモに、彼が闇から出て、光の方に来ていることを気づかせようとする。3章の最後には、洗礼者ヨハネが再び登場し、そのエピソードの内に、新約の司祭職が預言されている(ヨハ3:22~36/本ブログ№222参照)。これらの出来事によって、1~2章のテーマを固めたのである。 

ニコデモはイエスに会うと、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハ3:2)と言った。「わたしども」という表現に、彼が無意識に自分の共同体を背負っていることが分かる。そこでイエスは、彼の「神が共におられる」という言葉を捉えて、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と返した。 

イエスの言葉にニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハ3:4)と問うた。彼は、次にイエスが指摘しているように、イエスが言った「新たに生まれなければ」という言葉に驚いて、「神の国」という言葉に注意が向かなかった。それは、彼が口にした「神が共におられる」という言葉が虚しいものであったことを示している。彼の環境ではラビと見なされる人に対しての常套句になっていたのかもしれない。しかし彼は、自分が属している環境に疑問を持っていて、解決しなければならない気持ちを背負っていた。それは現代の私たちにも通じる。 

そこで、イエスは、再び、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハ3:5)と言われ、洗礼と堅信の恵みを暗示した。そして、続けて次のように言って、聖霊の働きを証しした。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:6~8)。ここで重要なことは、「その音を聞く」ということである。 

しかし、イエスのこれらの言葉に認識が追い付かないニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」(ヨハ3:9)と言うよりなかった。彼は、自分を包む闇が重いことに気付かずにいる。彼はユダヤ人の議員でファリサイ派に属する者であったが、その共同体の価値観と体質に彼はマッチしていなかったのだ(7:45~52参照)。このような重荷のために、彼が本来持っている個性や能力、また獲得した知識などからくる自己認識は委縮していた。イエスは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言って、彼が目を覚まし、自分の状態に気づき、自発的に行動するように励ました。彼は、今、神と共にいるのである。 

イエスは続けて語り、ご聖体についての暗示から、「永遠の命」にまで言及した(ヨハ3:14~15参照)。今、私たちは、それを知っており、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と言ったイエスの言葉が、後の、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)という言葉につながっていくことが分かっている。 

ニコデモには、これらの話が分からなかったとしても、聞いた御言葉は記憶に入った。それが神の仕方である。霊が告げることを聞く耳を神は求めている。ニコデモは、自分から光の方に来た。ゆえに、最後にイエスが言った次の言葉は、ニコデモの心に届いた。彼がその後登場する場面を見ると、彼が次第に自由になり、霊が告げることを聞く耳のある者となっていく姿が見える。御言葉は、彼が、自分の所属する共同体が重荷であることに気付き(ヨハ7:45~52参照)、決断を支える自発性が御言葉と結びついて、真の自己実現に至るようにと(19:38~42参照)、静かに、力強く働きかけていったのである。 

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハ3:19~21)。 

Maria K. M.


 2025/12/08



225. ヨハネ福音書と新約の司祭職 イエスの母


新約の司祭職の視点からヨハネ福音書を読むと、様々なことに気付かされる。前回考察したように、ヨハネ福音書の1章は、初めに三位一体の神のイメージを伝えている。後に、「わたしと父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたイエスの上に聖霊が降ってとどまったように、また、イエスご自身が、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(8:58)と言われたように、イエスは、三位一体の神である。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)ということが実現したのは、イエスが神であったからだ。

洗礼者ヨハネの証言の中には、「水で洗礼を授ける」、「“霊”が降って、ある人にとどまる」、「聖霊によって洗礼を授ける人」という言葉が現れている(ヨハ1:33参照)。そこに、私たちの教会が教える3つの秘跡、洗礼、堅信、叙階の秘跡の姿が確認できる。洗礼と堅信は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じる人々に神の子となる資格を与えるための道である(1:12参照)。それは、父と子と聖霊の名によって授けられる秘跡であり、そのために、「聖霊によって洗礼を授ける人」が存在する。それは神であるイエスが、やがて使徒たちに授けるために、地上にもたらした新約の司祭職である。

洗礼者ヨハネは、イエスに聖霊が降るのを見て、イエスが神の子であることを確信すると、自分の弟子たちにイエスに従うよう促した(ヨハ1:35~37参照)。イエスに関する師の体験を、そばで見聞きしていた洗礼者ヨハネの弟子たちは、すぐイエスに従うことができた。その一人であったアンデレが、兄弟シモンをイエスのところに連れて行ったとき、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする』と言われた」(1:42)とある。イエスは、シモンと初対面のこの時、「わたしの教会」(マタ16:18)の土台となる使徒の頭を選んだ。ヨハネ福音書は、新約の司祭職にとって、曖昧になってはならない重要な場面が、いつどこで起こったかをしっかりと書いて残した。

その後、イエスはフィリポとナタナエルも弟子に加えられた(ヨハ1:43~51参照)。フィリポは、「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身」(1:44)とあり、ナタナエルは、「ガリラヤのカナ出身」(21:2)であった。ガリラヤのカナは、続く2章の初めにある「イエスの最初のしるし」(2:11)が行われた場所である。このように新約の司祭職に呼ばれた男性は、神の運びの手中に置かれ、イエス・キリストの生涯に関連付けられていく。そして、彼らに特別に準備されたイエスとの関係は、イエスの母との交わりに向けられていく。彼女こそが、天使のお告げに応えて、初めてイエスを受け入れ、イエスの名を信じた人であった。

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(ヨハ2:1~2)と始まる2章では、イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母の対応に目が留まる。イエスの御業のために召し使いたちに命じた彼女の願いは、イエスの名によって遣わされた聖霊が降臨した後も続いている。イエスの母は、新約の司祭職を授かった使徒たちとその後継者たちと今も共にいて、聖霊に聞き従う彼らに同じ言葉で願い、励ます。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と。

カナの婚礼の場面で、イエスは水をぶどう酒に変える最初のしるしを行った。このエピソードは、イエスが最期の食卓で、ぶどう酒の入った杯を取って、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言われた聖体制定の場面とイメージが重なる。そして、ヨハネ福音書は、カナの婚礼に続けて神殿から商人を追い出す場面を描き(ヨハ2:13~22参照)、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(2:21)という解説を挿入した。これらのことから、2章にはご聖体の秘跡が現れていると見ることができる。

新約の司祭職は、神と人の命に関わる職務である。「私はある」と言われる神は、新約の司祭職を授かった男性からご聖体として生まれ出て、神があるようにと願い、女性から生まれる人の命に仕えることを望まれた。それは、イエスを受け入れ、イエスの名を信じ、洗礼によって神の子となる資格を与えられた信者が、ご聖体に育まれて神の子となるためである。

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 「パトモスの風





 2025/12/01


224. ヨハネ福音書と新約の司祭職、その始まり

ヨハネ福音書の1章の始まりの描写は、イエスが「わたしと父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われた言葉を念頭に置いて読むと、この描写が、三位一体である神を表現していることに気付く。公生活に入ったイエスについて、ヨハネ福音書が、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と書いた通りだ。イエスが男性としてこの世に現れたのは、聖霊と協働する新約の司祭職を受け取る男性が、神である聖霊を認識する人として完成することが必須だったからである。(1:16~18参照)。 

新約の司祭職を授かった者は、男性でありながら、御聖体が生まれるためにイエスの母のように聖霊の力に覆われる。彼らは御聖体の誕生をイエスの名によって御父に願い、与えられ、喜びで満たされる者たちになるのである(ヨハ16:20~24参照)。この司祭職の使命は、胎児を身ごもる女性が人の命に関わるのと同じように、ご聖体の命に関わる使命である。神があるようにと望まれ、女性から生まれ出る、人の命ために、「私はある」と言われる神が、新約の司祭職を授かった男性から生まれ出て、御聖体として人の命に仕えることを望まれたのである。 

新約の司祭職を受ける信者の男性にとって、イエスが「わたしと父とは一つである」と言われたことを理解して聖霊を見ることができることは必須条件である。しかしそれは、すべての信者が持つべき感覚であり、意識的に獲得する必要がある。御父からイエスの名によって遣わされた聖霊は、御言葉である御子を通じて私たちに触れる。祭壇を前にして、触れられるだけではなく、常に聖霊とつながっている新約の司祭職を、私たち信者は理解し、認める必要がある。まさにそれは、私たち信者の命をご聖体とつなぐ「へその緒」なのである。 

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言われた。「道」は御父の御心である。イエスが「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示される」(5:20)と言われたように、御父への道は御言葉であるイエスが背負っておられる。「真理」はイエスご自身である。イエスが語られる言葉は真理である。「命」は聖霊が真理を教え導く悟りにある。御父が人の命があるようにと望まれる時、御言葉は人に命があるようにと語り掛け、その御言葉を聖霊が悟らせると、人の命が始まる。すべて命はこのようにして生まれる。 

聖霊は、御父から出て、イエス・キリストを通して世に現れた。そこで、イエスは、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言われたのである。父がイエスの名によってお遣わしになる聖霊が、イエスが話されたことをことごとく思い起こさせることができるように、御言葉であるイエスは、人となられ、人々の間に住み、全力で語られたのである。 

ヨハネ福音書は次のように始まる。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハ1:1~5)。前半の「初めに言があった」から「言によらずに成ったものは何一つなかった」の部分は、「わたしと父とは一つである」を表現している。 

「言の内に命があった」とは、洗礼者ヨハネが証ししたように、神であっても人となったイエスが、水による洗礼を受け、聖霊が降ったという事実を表している。こうしてイエスは、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」(ヨハ5:26)と言った言葉が、人の上に実現することを示したのである。ここには、真理を悟らせる聖霊がおられることを、御言葉と業によって、人が信じるようになる仕組みがある。聖霊は人間を照らす光である。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある「暗闇」とは、人間の情報と知識である。 

創世記の2章の初めに、「天地万物は完成された」(創2:1)と書いてある。そしてその日、神は安息なさった(2:2参照)。そこで、1章の出だしに「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:1~2)とある描写は、神が天地を創造された後、万物の創造(1:3~31参照)に向かう前に、一呼吸置かれた様子を描いているようだ。そのように見ると、この出だしは、天地を創造するという神(御父)の御心を、御言葉(御子)が成しとげられた後、聖霊が働いておられる姿を描いている。 

「神の霊が水の面を動いていた」とあるのは、御父のみ旨を成した御子の御言葉が、聖霊によって悟りに変換されているところである。「深淵」は、神の知識の深い淵だ。ルカ福音書には、「悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」(ルカ8:31)とある。黙示録には、「底なしの淵に通じる穴を開く鍵」(黙9:1)の話もある。「深淵」が神の知識の深い淵であれば、それは、人間の情報や知識にとっては墓場であるに違いない。 

このように、旧約聖書にも三位一体の神の姿がイメージされている。ヨハネ福音書は、1章6節から洗礼者ヨハネが登場する。彼は最後の預言者として主に先立って行き、聖霊を証しし、新約の司祭職を預言した。創世記も、1章3節から具体的な創造に向かう。 

Maria K. M.


 2025/11/24

223. 3羽の鷲と新約の司祭職

「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)で始まるヨハネの黙示録は、その独特の構成によって、その意図がはっきり示されている。7つの預言で構成されている黙示録は、大きく二つの部分に分かれており、前半(第1から第3の預言、1~11章)は、新約聖書の成立に向かう預言、後半(第4から第7の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。黙示録には、3羽の鷲が登場する。最初は、4つの福音書に見立てた四つの生き物の描写に登場する、鷲のような「第四の生き物」であり、それはヨハネ福音書を表していた(4:7参照)。 

次に、7つの封印が次々と開かれるが、これらは新約聖書の7つの書を表している(公同書簡は除かれている・・黙10:4参照)。黙示録を示唆する最後の封印が開かれると、7人の天使が次々に7つのラッパを吹く場面が展開する。それらは再び新約聖書の7つの書に見立てられる。ヨハネ福音書に見立てられた4つ目のラッパが吹かれると、「また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた」(8:13)とある。二番目の鷲の登場である。 

その後12章で、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)というしるしとして、「新約の司祭職」が現れた。共観福音書の聖体制定の場面で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言って、御聖体と表裏一体を成し、使徒たちと切り離すことのできないものとしてイエスが制定した「新約の司祭職」である。続けて、「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた」(黙12:2)と描写された。この「女」は、「新約の司祭職」を受け取った使徒たちであり、「子」はキリストの体である。迫害者たちはその秘密に迫ろうとするが及ばない(12:3~4参照)。ご聖体は神のもとへ隠され、「新約の司祭職」は、使徒たちの記憶に隠されたからである(12:5~6参照)。 

彼らに向かって迫害の手はさらに伸びる。しかし、「彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(黙12:11)。使徒たちの記憶が失われないうちに、それを具体的に残す必要があった。福音書である。黙示録は、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである」(12:14)と書いている。ここで最後の鷲が登場したのは、「新約の司祭職」が、ヨハネ福音書に隠されたことを暗示するためであった。 

ヨハネ福音書は、「新約の司祭職」をテーマとしている。しかし、この福音書を手にした者が、それとすぐ気づかぬように、ヨハネ福音書は「使徒」という言葉を使わず、聖体制定の場面を描かなかった。その一方で、イエスが十字架上でご自身の母と使徒を親子の絆で結ぶ場面を描くことで(ヨハ19:26~27参照)、「新約の司祭職」を公にした。「新約の司祭職」を授かった使徒たちは、聖霊に満たされ、男性でありながら、御聖体が生まれるための母となる。彼らは御聖体の誕生をイエスの名によって御父に願い、与えられ、喜びで満たされる者たちであった(16:20~24参照)。 

前回、ヨハネ福音書の中で、洗礼者ヨハネが、「新約の司祭職」を「花嫁」にたとえて預言したことを見た。今回、黙示録も、ヨハネ福音書のテーマが「新約の司祭職」であることを示唆していることが分かった。次回は、このことを念頭に、ヨハネ福音書を見直してみたい。 

Maria K. M.


 2025/11/17



222. 洗礼者ヨハネの預言

洗礼者ヨハネは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハ1:32)と言い、重ねて、「わたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た」(1:33~34)と言って、「見た」ことを繰り返し主張した。ヨハネ福音記者が洗礼者ヨハネについて、「光ではなく、光について証しをするために来た」(1:8)と書いたように、彼は、「光」、すなわち真理の霊である聖霊を「見た」ことを証ししたのだ。そこでイエスは、後に、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(5:33)と言われたのである。 

そして、福音記者が、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハ1:9)と続けた言葉は、彼自身が体験した聖霊降臨の出来事を示唆している。彼が、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(1:17)と書いたように、またイエスご自身が、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(12:46)と証ししているとおり、恵みと真理の「光」である聖霊は、イエスを通して世に現れたのである。こういう訳で、洗礼者ヨハネは、イエスを証しするためにきたのではなかった。 

イエスは、「わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハ5:34~35)と言われた。洗礼者ヨハネは、「燃えて輝くともし火」の光を放っていたのである。その光には、最後の預言者としての使命が現れていた。 

洗礼者ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった時、洗礼者ヨハネが弟子たちに次のように言った。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)。この文脈の「花嫁」という言葉は、福音書の中ではここにしか登場しない特別な言葉であった。洗礼者ヨハネは、ある神の計画を、「花嫁」にたとえて預言したのである。 

この計画こそが、すべてを成し遂げたイエスが証ししたもの、新しい契約として新約聖書が意図するもの、「新約の司祭職」である。「花嫁」は、御父の御言葉であるイエス・キリストにおいて成し遂げられた新しい契約の司祭職をたとえていた。それは、イエスが渡される夜に使徒たちに授け、記念として行うよう命じた聖体を制定したイエスの御業である(ルカ22:14~20参照)。そこで、イエスが昇天した後、「花婿」にたとえることのできる方は、イエスの名によって新たに遣わされる聖霊である。その夜、使徒たちだけが授かった聖体制定の御言葉が現実のものになるためには、聖霊降臨を待たねばならなかった。 

「新約の司祭職」が実践されるためには、使徒として選ばれた男性の存在が必須であった。創世記でアダムをエデンの園から追放した時から、使徒たちだけを集めたイエスの最期の食卓に至るまで、人間にとって気の遠くなるような長い歴史を通じて、神は人々を導いて来た。イエスが「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)と言われたとおりである。そして、神の御業である人の創造の担い手として造られた女性たちは、創世記の初めから、人の命を生み支えながら神に従ってきた。女性たちも共に発展してきたのである。 

「新約の司祭職」を授けられた司祭たちは、洗礼者ヨハネのように「花婿の介添え人」として聖霊のそばに立って、聖霊の声に耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜ぶ。新約の「花婿の介添え人」は、「聖霊の介添え人」である。イエスは彼らを、「愛する者」という意味を込めて「友」と呼んだ(ヨハ15:14~16参照)。そこにイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)という言葉を添えられた。 

そして、彼ら自身が、イエスの聖体を支える食卓となり、イエスを支えた十字架の木となるために、イエスは十字架上で、母と使徒を親子の絆で結んだ。その母は、神の子が人となったイエスご自身の身体を身ごもって支えたイエスの母であった。ここに新約の司祭が誕生した。やがて聖霊が降れば、彼らには、天使がイエスの母に告げた、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という言葉が実現する。彼らのために、イエスは御父に次のように祈った。 

「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハ17:16~19)。

 Maria K. M.



 2025/11/10

221. 聖霊によって洗礼を授ける人

ヨハネ福音書は、初めに洗礼者ヨハネを次のように紹介した。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハ1:6~8)。「光」とは、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)と先に書かれた「光」である。 

洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」(ヨハ1:31)と言って、洗礼を授ける理由を説明した。そして、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:33~34)と告げた。「聖霊によって洗礼を授ける人」とは、イエスであった。 

洗礼者ヨハネが証ししたように、聖霊がイエスにとどまったのは、神であっても人として語るイエスの言葉が、生きた御言葉となるように、聖霊が共に働くためであった。こうして「言」の内にある命が、人間を内奥から照らす光となるのである。ここでヨハネ福音記者は、「わたしはこの方を知らなかった」という洗礼者ヨハネの言葉を二回繰り返して強調している。それは、洗礼者ヨハネが母エリザベトの胎内で6か月だったとき、イエスを身ごもって来訪したイエスの母マリアの挨拶に、胎内でおどったと書かれているルカ福音書の場面に、読者の目を向けさせるためであった。その時、マリアが言ったマニフィカトの言葉が、「聖霊によって洗礼を授ける」事の意味をよく説明しているからである。 

マニフィカトは次のように始まる。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1:46~49)。マリアは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という天使の言葉が実現したことを悟り、聖霊の力によって救い主である神を喜びたたえたのである。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」という実感こそが、聖霊によって洗礼を授かった者であることの証しである。 

続くマリアの言葉は、その実感を人がどのようにして得るかを説明している。「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:49~53)。 

「その御名は尊く」というのは、聖霊のことである(マタ12:31~32参照)。聖霊の働きで命の言葉となったイエスの言葉は、主を畏れ、その声を聴く者に働きかける。その者の内奥で、人間を照らす光となった御言葉は、その腕、すなわち諸刃の剣をもって力を振るい、その人を思い上がらせる記憶を打ち散らし、自分が権力者であるという錯覚から引き降ろす。その人が、神の御前で身分の低い者であることを自覚するまで。それは、神の子の立場に上げるためである。このようにして、神は、御言葉に飢えた人を良い物で満たし、人間の知識で満たされている者を無知のまま追い返すのである。 

ルカ福音書で、イエスがペトロの舟から群衆に教えを語り終え、ペトロに漁をするように指示した時、ペトロは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えた。また、大漁に驚いたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(5:8)と言った。このように、イエスご自身を前にし、主を畏れ、その声を聴く者となった彼らに、イエスは、マニフィカトの体験をさせたのである。 

イエスは最期の食卓で、「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言って、弟子たちがこの時すでに聖霊を受けていたことを証しした。彼らはイエスから聖霊による洗礼を授かっていたのだ。 

ヨハネ福音記者は、仮庵祭でイエスが、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハ7:37~38)と言ったと述べている。そして、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」(7:39)と説明している。「御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”」とは、聖霊降臨のことであり、イエスが言われた「聖書に書いてあるとおり」とは、未来の新約聖書を指している。そこで「新約の司祭職」が明らかにされるのである。 

Maria K. M.


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