2022/03/21
2022/03/14
30. 三人のマリア
【参考】1. マタイ26:28、マルコ14:24、ルカ22:20、2. ヨハネ6:44、3. ヨハネ19:25~26、4. 本ブログ№18、5. エレミア31:31~34、6. 出エジプト記12:1~7
Maria K. M.
2022/03/07
29. 使徒
前回の考察を続ける。なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのか、というファリサイ派の問いに、イエスは、「あなたがたの心がかたくななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」(マタイ19:8)と答えた。離縁がモーセの裁量の結果であったということは、結婚が人間の作った社会制度であり、そこにはすでに困難を抱えた男と女の関係が内包されていたということを物語っている1。イエスは、神の創造の業をダイレクトに受け取る新しい男と女のために、新しい役割を持って遣わされて来た。そこで、弟子たちに、「天の国のために自ら進んで宦官となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」2と勧めた。使徒言行録にも登場するように3、当時、有利な地位に就くために自ら進んで命がけで去勢し、王や後宮に仕える宦官と呼ばれる男性たちがいた。しかし、この時「天の国」を知っていたのはイエスだけであったから、「天の国のために自ら進んで宦官となった者」とはイエスご自身を指していた。イエスは、彼の弟子たちに、師に倣って、去勢なしの宦官になることを求めたのである。弟子の中でも男性である使徒たちにとって、去勢をしてまで官職に就こうとする者のたとえは、身に迫るものがあったにちがいない。彼らが天の国のために師に倣うことを受け入れたことが、最期の夕食の席で、イエスが御父に「彼らはあなたの言葉を守っています」(ヨハネ17:6)と報告したことから分かる。イエスは、世に残る彼らのために、御父とご自分が一つであるように、聖霊と彼らが一つになることを御父に願った4。復活後、イエスが罪を赦す権能を授けた使徒たちは、降臨した聖霊によってキリストの聖体を生み出す役割を担う。み言葉であるイエスは、神の母性を持つ男性として世に生まれた。なぜなら、御父が父である神であるのに対して、「万物は言によって成った」(ヨハネ1:3)と書かれている通り、み言葉は母である神だからである5。聖霊はイエスの代理者として神の母性を持って降臨する。肉体を持たない聖霊が、神の母性を持つ男性であるイエスについて証しするために6、イエスは、ご自身と同じ男性の弟子を選んで使徒と名付けた。初めからイエスと一緒にいた彼らも、聖霊の助け手として証しするからである7。イエスは、新しい男に神の母性を持つ聖霊の助け手という新しい役割を与えたのだ。
【参考】1. 本ブログ№27、2. マタイ19:12(日本の聖書はここで「宦官」と訳していない)、3. 使徒言行録8:26~39、4. ヨハネ17:11、5. ヨハネ1:1~4, 本ブログ№26、6. ヨハネ15:26、7. ヨハネ15:27
Maria K. M.
2022/02/28
28. フィクションの門
2022/02/21
27.最初のイリュージョン
前回、「神が人にとって父と母である」と言う結論を得た。このときテーマにした、創世記2:24の文の「父母」を「神」に置き替えてみると、この文が、人の最初の生殖行動が、神と離れたところで始まるという予告になっていることに気付く。「こういうわけで、男は“神”を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」。これについて以下で検証しながら、聖書にこのような予告が書かれた原因を探る。創世記には「神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた。人は言った。『これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである』」(創世記2:22~23)と書かれている。ここで、解説と「人」の言葉が合致していないことから、この文は人が複数になり偶発的情報1が発生し、「人」にイリュージョンが発現していたことを示している。女は、「人」の「骨の骨」であっても「肉の肉」ではない。また、すでに「女を造り」とあるのに、「人」は自分が女と名付けることにした。そして、自分を男と名乗り、女が男から取られたと言った。人はイリュージョンを発生すると矛盾を持ち、矛盾は人の意識の領域で重荷となる。それをごまかすために、人はフィクションを作り、それを人々が共有するとき「人間の仕業」が起こる。この男も実際に女とやり取りする中で、自分の言った言葉に矛盾を持ったに違いない。彼は、「彼女がすべての生ける者の母となった」(創世記3:20)というフィクションを作り、女に再び名を付け自分の立場を正当化した。しかし、いわば人が神になったかのようなこの行為は、人がエデンの園から追放される直接の原因となった。創世記によると、人が妻と結ばれるのは、この後、2人が園を追放された後である。まさに、「こういうわけで、男は“神”を離れて」妻と結ばれたのだ。エデンの園を追放されたことと相まって、他の動物と同じ目的で与えられた人の生殖行動が神と離れたところで始まったことは、人に、本能からくるような深い孤独感をもたらす。男と女の関係は初めから困難を抱えていたのだ。
2022/02/14
26. 父と母
創世記の1~2章は、人の無意識の領域に何があるのかを語っている。人は、ここで神が「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記1:28)と命じたことをほぼ実現した。今日、他の生き物たちと比べて、その進化の速さと影響力から、人が神に似せて造られたことは、十分に分かったが、自然の脅威や、宇宙の不思議の前には、人は相変わらず森羅万象の一粒に過ぎないことも明白だ。人は、目の前にある事柄をいつも自分たちが考え得るように理解し、それを実現してきた。そして、その必要から、生き物の体の働きを解明し、その情報を私たち自身の必要のためにも利用してきた。自然の食物連鎖から離れ、大きく変化してきた人の食物摂取と排出については、病と死の克服をテーマに、その研究が一般に広く伝えられ、学ばれている。しかし、人の生殖機能については、その研究は進んでいても、多くの現場で性の諸要素の多様性や諸条件の不一致などが壁となって共通認識が得られず、あらゆる深刻な事態を招いている。キリスト者にとっては、その信仰が問われるところである。したがって、人の生殖機能の初めと言える創世記の次の文から考えてみる必要がある。「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。人とその妻は二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」(創世記2:24~25)。このフレーズは、一般的な人の生殖行動について書いているように見える。しかし、本文の前後関係から見ると、ここに挿入された「父母」という言葉は、神を指していると考えられる。このフレーズは、神が人にとって「父と母」であることを示すために置かれたのだ。イエスは、神の名が「父」であることを知らせた。ヨハネ福音書は、み言葉が「母」であることを示唆した1。このように、人の生殖機能は、「神が人にとって父と母である」ということに、その原点がある。次回もこのテーマを続ける。
【参考】1. ヨハネ1:1~4
2022/02/07
25. 意識の領域
人が、「存在」を「ある」ものとして感じるのは、自発性を持っているからだ。その源は、創世記1章によれば、天と地、そしてその森羅万象が、「~あれ」という神の言葉によって創造されたことによる。この神の言葉が、すべての被造物に自発性をもたらしたのだ。人は、この自発性を自身が持っていることを意識できるために、自分が向かう対象に「ある」ものを感じて、それを「存在」だと受け取っている。そこで、聖書の中で、神が「私はある」と言うときも、神が「存在」することだと受け取ってしまう。しかし、聖書において神が「私はある」と言うとき、それは、神が人と共にいることを意味している。出エジプト記の柴の箇所で、その名を尋ねたモーセに、「私はいる、という者である」(出エジプト記3:14)と答えた神は、「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである」(出エジプト記3:12)と教えている。イエスもまた「私はある」という言葉を、「神が人と共にいる」という意味で使った1。私たちがリアルだと感じている世界は、脳の意識の領域で組み立てられる。つまり、人間の脳は、外界から取り込んだ情報を構成しなおして、いわばバーチャル・リアリティーを作っているのだ。神が人と共にいることを、人がリアリティーと確認するためには、その空間とそこで起こる事柄を共有する複数の人のつながりが必要だ。イエスは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と言って、そのつながりがイエスの名であることを求めた。イエスが3人の使徒たちに強烈な体験をさせた主の変容2の場面は、まるでメタバースのようだ。私たちは、メタバースでもイエスの名によって集まることができる。
Maria K.
M.
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