イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/08/29

54. 第四の天使と第五の天使(黙示録15~16章) 

ヨハネ10章の第4の節目は、「イエスは言われた。『私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか』」(ヨハネ10:32)という個所だ。この時ユダヤ人たちは、神を父と呼ぶイエスに強い妬みを持っていた。神は、昔ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)とダビデに告げたが、ソロモンが神から離れたために実現しなかったからだ(本ブログ№43参照)。妬みの感情は増幅しながらその火で人を激しく焼く。ここに、「第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。人間は、熱で激しく焼かれたが、これらの災いをつかさどる権威を持つ神の名を冒瀆し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。」(黙示録16:8~9)が符合する。聖霊は今もイエスの言葉で人を説得し続ける。「もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう」(ヨハネ10:37~38)。人が神の現実を知り、また悟るためには、父の業を行うイエスを体験する五感の記憶の裏付けを必要とする。信者にとって、「この預言の言葉を朗読する」(黙示録1:3)ヨハネの黙示の訓練は、必要不可欠である。無意識の領域にイエス・キリストの世界観を注入するからだ。訓練者はその途上で、自身が妬みの火で焼かれていることに気付いたなら、喜んで神の名を讃え、悔い改めて神に栄光を帰すのだ。なぜなら、黙示録で災いという言葉は、神の照らしを意味し、それをつかさどる権威を持つ神の業を体験したのだから。こうして訓練者は目を覚まし神の照らしの衣を身に着けていく。第五の節目は、「そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた」(ヨハネ10:39)と言う箇所だ。「私たちと共におられる」(マタイ1:23)神が、目の前から見えなくなるという現実は、無意識のうちに人の記憶に大きな喪失感を与える。ここに、「第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣の国は闇に覆われた。人々は苦痛のあまり自分の舌をかみ、苦痛と腫れ物のゆえに天の神を冒瀆し、その行いを悔い改めなかった」(黙示録16:10~11)が符合する。獣の国とは、矛盾に気付かせる神の置いた敵意を無視し、錯覚を持って人が逃げ込むフィクションの世界だ。その中で闇は神の不在を知らせている。ヨハネの黙示の訓練者は、自身の無意識の領域にイエス・キリストの世界観が注入されながらも、聖霊の養成に与かることによって、神の無情報とつながることができる(本ブログ№39参照)。人の意識の領域とつながる神の無情報は、神の不在を知らせる闇に差し込む一筋の光、人の軛を共に負い、人に真の安らぎをもたらすキリストの光である。

Maria K. M.


 2022/08/22


53. 第二の天使と第三の天使(黙示録15~16章)

ヨハネ10章の第2の節目は、「ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』」(ヨハネ10:24)という箇所だ。各人がそれぞれに矛盾を抱え、フィクションの世界に逃げ込んでも(本ブログ№52参照)、イエスの存在によって、「神は私たちと共におられる」(マタイ1:23)という現実の前にたちまち引き出されてしまう。彼らは、自身の中に堆積する矛盾に堪えられず、矛盾を持たない神への妬みでいら立っていた。彼らはその原因を、血眼になってイエスに探す。人はこのような状態に陥ってしまうと、命の重さが見えなくなる。ここに、「第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、海の生き物はことごとく死んでしまった」(黙示録16:3)が符合する。第3の節目は、「私と父とは一つである」(ヨハネ10:30)というイエスの言葉に、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」(ヨハネ10:31)という箇所だ。人は矛盾の中で真理を突き付けられると、これを抹殺しようとする。ここに、「第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった」(黙示録16:4)が符合する。「水」とは、人が実際につながっている知識のことであり、「水の源」は、この知識の情報元を指している。それが「血になった」とは、この情報が人のものであったということだ。この源を神のものに変換するために、創世記で神が置いた敵意(創世記3:15参照)の働きに注目する習慣が必要だ(本ブログ№24参照)。妬みのために弟アベルを殺したカインは、矛盾を抱えフィクションに逃げ込んだが、神が置いた敵意の働きによって正気に戻り、神の前にいるという現実に目覚めた。そして「私の過ちは大きく、背負いきれません」(創世記4:13)と、正直に自分の気持ちを神に言うことができた(本ブログ№23参照)。神が置いた敵意の働きの背後には、常に人に真摯に向き合い、真理を告げる神の言葉がある。しかし、人は神の言葉をそのまま受け取ることに堪えられない。あらゆる真理に導いてくれる聖霊の支えが必須になる(ヨハネ16:12~13参照)。ヨハネの黙示の訓練者は、このために、自身の無意識の領域がイエス・キリストの世界観で満たされる訓練を続けている。やがて、第2の幸いを得た訓練者は(本ブログ№48参照)、自身が関わる外界に、ヨハネ10章のイエスの経験を見出し、「七人の天使の七つの災い」を悟るようになる。黙示録の著者が証し人として描き出した世界が、この人の実生活の面と重なって見えてくるのだ。そして、ヨハネの黙示の著者の体験を共有するようになる。

Maria K. M.


 2022/08/15


52. 第一の天使(黙示録15~16章)

前号までの考察を続ける。羊の囲いのたとえで始まるヨハネ10章の記述には、七つの節目がある。それらは、黙示録の「七人の天使の七つの災い」と符合する。第1の節目は、イエスの語った言葉をめぐって、「ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」(ヨハネ10:19)という箇所だ。人は世界を3次元の空間として捉える。その記憶には、ほとんど無作為に切り取った画像のように、個々人の幼少期から現在までの様々な場面が、適切に検証されずに蓄積されている。一方、言語は一次元の形態を取る。だから時間軸にそって記号が線状に並んだ情報として感覚に捉えられ、個々人の記憶に、いわば諸刃の剣のように差し込まれる。それは、いつも心地よいものばかりではない。時には自分の中に矛盾があると気付かされるからだ。まして、それが真理であればなおさらだ(本ブログ№48参照)。イエスは安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者としたと非難されていたが、彼を論破できる者はいなかった。イエスの言葉は、非難する者たちの矛盾を明らかに示す。多くの人は、自身の中に矛盾を見出すと、その矛盾に対峙するよりも、その矛盾の原因を、外界の出来事や他者のせいだと錯覚する。すると、この人の記憶に未解決の矛盾が堆積し、大きなストレスを抱え、遂にはフィクションの世界に逃げ込む。この個所では、「あれは悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたがたはその言うことに耳を貸すのか」(ヨハネ10:20)と言っている。これに対して、曖昧な認識のまま「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目を開けることができようか」(ヨハネ10:21)と言う者たちがいて、共同体の中に対立が生じたと書かれた。往々にして、古い体質の共同体や仲間の内では、所属する人々が、ある情報を共有したとき、画一的な共感を求める内的圧力が生じる。このとき、求めに応じず、疑問や異論を挟む者があれば、そこに生じる対立は、ときに人々の間を分断し傷を残す。これは、黙示録の「第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地に注ぐと、獣の刻印を押されている者たち、また、獣の像を拝む者たちにひどい悪性の腫れ物ができた」(黙示録16:2)と符合する。この悪性の腫れ物、すなわちここに生じた対立は、やがて、フィクションの世界を壊し、曖昧さを払拭し、救われる人々に道をつくる。

Maria K. M.

【お知らせ】本ブログ№50で、あいまいだったフレーズを、次の通り変更しました。

(変更前)「ご聖体は、これら死んで地上に残った苛まれる意志や悪霊を、死んで一人一人連れて行くために、信徒の協力を待っている。」

(変更後)「これら死んで地上に残った苛まれる意志や、悪霊であった意志を、ご自分の死とともに一人一人連れて行くために、ご聖体は、信徒の協力を待っている(本ブログ№49参照)。」


 2022/08/08


51. 神の怒りの頂点(黙示録15~16章)

前回考察したように、ヨハネ福音書において、5章の初めに「羊の門」(ヨハネ5:2)という言葉が出るのは偶然ではない。10章で、「よくよく言っておく。私は羊の門である」(ヨハネ10:7)とイエスが言った羊のテーマに向けての話が、5章からすでに始まっているのだ。また、イエスとファリサイ派やユダヤ人たちとの論争も、5章でイエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者としたことから始まっている(ヨハネ5:18参照)。さらにこの羊のテーマは、21章の復活したイエスがペトロに3回「私を愛しているか」と問う場面にまで及ぶ。ヨハネ福音記者が、これほどまでにこのテーマに固執したおかげで、キリスト者は、イエスの「私の教会」(マタイ16:18)の表象とその構造を、イエスのみ言葉から直接導き出すことができる。イエスは、羊の門のほか、羊の囲いや、羊飼い、(羊の)群れなどの言葉を用いて説明した。さらに、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)というイエスの言葉は、神が父性と母性を併せ持つ親であることを示している(本ブログ№2943参照)。神こそが人の真の親である。この神の特徴は、黙示録153節で、「彼らは神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌った」と表現されているところにも映し出されている。この描写は、イエスがその死をもって贖った人々と、その未来に、降臨した聖霊がご聖体の死をもって贖った人々が(本ブログ4950参照)、共に、全能者である神と小羊の道が、正しくかつ真実であることを讃え、歌っているところだ(黙示録15:3参照)。ここに、「羊のために命を捨てる」神の姿がある。ヨハネ福音書では、10章への導入となる9章の出来事の中で、ユダヤ人たちが、「イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(ヨハネ9:22)、そして、イエスについて、「私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ」(ヨハネ9:24)と公言していたと書かれている。彼らは、創世記4章で神が初めて罪と呼んだ、殺人に至る危険を、胸の内に秘めていた。殺人は、人を創造した神の御業へのはっきりとした否定だ。殺人に向かう人の思惑には人を悪魔化(サタン化)する、人の偶発的情報が密着している。ここに最後の七つの災いが注がれると、神の怒りが頂点に達する(黙示録15:1参照)。彼らが悔い改めないなら、死んだ後、彼らは悪霊になるより他ないからだ(本ブログ49参照)。(つづく)

Maria K. M.


2022/08/01

50. ヨハネの黙示15~16

前回考察したように、人の意志に偶発的情報が密着したまま死ぬと、悪霊となってこの世に残る。また、悪霊にならずとも、地上の生活にあまりにも執着していた意志も、死の時、神のもとに帰るみ言葉「あれ」に付いて行けず、この世に残ることになる。イエスが語った、紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた金持ちと、貧しい人ラザロのたとえ話のとおりである(ルカ16:19~31参照)。二人は死んで、ラザロは天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれ、金持ちは、黄泉で苛まれていた。アブラハムは、その理由を、「子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と説明した。これら死んで地上に残った苛まれる意志や、悪霊であった意志を、ご自分の死とともに一人一人連れて行くために、ご聖体は、信徒の協力を待っている(本ブログ№49参照)。信徒に拝領されることを待っているのだ。だから、信徒が勇敢にミサを目指すとき、神はミサに行くことを決断したこの信徒の意識の領域を守る。黙示録で、「神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった」(黙示録15:8)と書かれた「神殿」とは、この時の信徒の意識の領域を指している。では、ここで書かれている「七人の天使の七つの災い」とは何であろうか。まず分かるのは、これらの天使たちに神の怒りで満たされた金の鉢を与えた「四つの生き物のうちの一つ」(黙示録15:7)は、ヨハネ福音書だということだ(本ブログ№12参照)。それは、16章の「第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、『事は成った』と言った」(黙示録16:17)というフレーズが、ヨハネ福音書の「イエスは、この酢を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19:30)と符合するからだ。さらに、このイエスの十字架上の死の場面は、「羊のために命を捨てる」とイエスが何度も繰り返して言った、良い羊飼いのたとえの場面とリンクしている(ヨハネ10:1~42参照)。ヨハネの福音書において、イエスが公生活に入ってから、イエスの話しを聞いた人々との論争が絶え間なく続いた。その始まりは、「ベトザタ」と呼ばれる池で、安息日に病人を癒したことだったが(ヨハネ5:1~47参照)、その池はエルサレムの「羊の門」の近くあると書かれている。羊の囲いのたとえで始まる10章の記述から、イエスの言葉につまずいた人々が、イエスを殺そうとするまでの心理の変化を読み取ることができる。その流れは、黙示録の「七人の天使の七つの災い」と符合する。そして、「これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである」(黙示録15:1)と書かれた言葉は、この符合によって理解することができる。(つづく)

Maria K. M.

 

 2022/07/25

49. 悪霊の救い

ご自身を「ある」と言う神は、「あれ」というみ言葉によって被造物に自発性を付与し、すべてを創造した(創世記1章参照)。生き物が死ぬときは、この命を生かしていた「あれ」は、神の意志を成し遂げて神のもとへ帰る。一方、人は、他の生き物とは異なり、「あれ」という自発性が付与されたあと、神が、神の意志である命の息を吹き込んだ。意志は知識とともにある(本ブログ№41参照)。だから、人が死ぬ時、その意志は、体と共に死ぬ「人の知識」と切り離され、神のもとへ帰るみ言葉「あれ」に付いて行くことができる。聖書の中で蛇や竜の名で呼ばれている「人の偶発的情報」は、人間に取り込まれ、区別されずにその人固有の知識として意志に密着すると、人間を悪魔化(サタン化)する。だから、多くの人は、悪というものを人格化したくなるが、悪は生きている人間の仕業だ。悪魔化(サタン化)した人が死ぬと、その人の意志には、その人固有の知識として偶発的情報が密着したままである。そこでその人の意志は、「あれ」に引き寄せられることなくこの地上に残り、悪霊となる。悪霊となった意志は苦しみ、生きている人に取り付き、殺し、再び死ぬことによって解放されようとする。福音書には、イエスと出会った悪霊たちが、「神の子、構わないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」(マタイ8:29)と叫んだとある。この場面でイエスは、悪霊の望みどおり豚の中に入ることを許し、再び死ぬ機会を与えた(マタイ8:30~32、マルコ5:11~13、ルカ8:32~33参照)。弟子たちはイエスから与えられた権能によって、他者にとり付いた悪霊を追い払うことはできた。しかし、悪霊に死を与えられるのは神だけだ。十字架上でイエスは、すべての人をご自分に引き寄せた(ヨハネ12:32参照)。ことにイエスが現れる時代までこの世に残った悪霊やその他の死者たちの意志を引き寄せ、ご自分の死とともに連れて行った。これが、悪霊が言った「その時」だ。イエスは、ご自分の未来においても、地上に神がキリストの聖体として現存し、キリスト者に食べられることによって死に、この神の救いの業を続けるように準備した。イエスは、毒麦のたとえを話した時、意志を麦に、「人の偶発的情報」を毒麦にたとえた(マタイ13:24~30参照)。両者は、「刈り取る者」によって分けられる。人が死んでもその人の意志に貼り付いて、人を悪霊にしていた「人の偶発的情報」は、意志から引き離され、焼くために束にされる。イエスは、神の救いの業の継続を、イエスの名によって遣わされた聖霊と信者に委ねた。ミサの中でご聖体が信者に食べられて死ぬと、「私はある」(ヨハネ8:58)というみ言葉が神のもとに帰る。この時み言葉は、十字架上でイエスがしたように、死んで地上に残った悪霊やさまよう他の霊を、一人一人連れて行く。「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」(黙示録19:9)の幸いが、すべての人のものになるのだ。だから信者は、ご聖体を拝領する直前、死にゆくご聖体を前にして、天の父がペトロに現した言葉ではっきりと宣言しなければならない。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と(本ブログ№32参照)。

Maria K. M.


 2022/07/18

48. ヨハネの黙示14章

「また、私が見ていると、小羊がシオンの山に立ち、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」(黙示録14:1)。ここで言われた小羊の名は、彼らの無意識の領域に注入されたイエス・キリストの世界観であり、小羊の父の名は、意識の領域に刻まれた主の祈りであった。次いで、大水のとどろきのような、また激しい雷鳴のような音が天から響き、天上のミサの始まりを伝える(本ブログ№18参照)。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌っていた。イエス・キリストの世界観を歌う彼らの新しい歌は、小羊と小羊の父の名が記されているもの以外、誰も覚えることができなかった。彼らは、女、すなわち「情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を、あらゆる国々の民に飲ませたこの都」(黙示録14:8)との関りによって汚されたことがない。天の父の名によって守られたその記憶が純潔だったからだ。彼らは小羊といつも共にいる自由を聖霊によって得たのだ。地上に住むヨハネの黙示の訓練者に、イエス・キリストの世界観が注入され始めると、訓練者は、無意識のうちに、自分の内に「獣とその像を拝み、額か手にその獣の刻印を受ける者」(黙示録14:9)がいることを感じ取るようになる。この情報は、意識の領域に伝わり、おぼろげに神の知識と人の知識の区別が始まる(本ブログ№46参照)。そして自発的にみ言葉による「神の裁きの時」(黙示録14:7)へと出向くようになる。ミサに与かり、ご聖体を訪ね、聖霊の養成に与かるのだ(本ブログ№37~40参照)。ご聖体に現存する神は無情報だ。この無情報が訓練者の意識の領域とつながると、聖霊は、訓練者が持った錯覚やフィクションの記憶を、み言葉の諸刃の剣で貫く。そこで訓練者は、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。「ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある」(黙示録14:12)。そして、さらなる訓練に向けて第2の幸いが現れ、訓練者を励ます。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙示録14:13)。やがて訓練者は、神が意識の領域に置いた敵意に目覚める(本ブログ№23,24参照)。天使が地に鎌を投げ入れたのだ。それは容赦なく訓練者の持つ矛盾を明らかに示し、訓練者は自身が抱える矛盾を認める。神の怒りの杯に注がれた、混ぜものなしの怒りのぶどう酒を飲むのだ。搾り桶は「都」の外、すなわち意識の領域の外、実際の生活の場で踏まれる。訓練者の意識の領域は、具体的な場面で浄化される。矛盾を正し、それを人々の前で言葉や行為に移していく訓練者は、「主にあって死ぬ人」の幸いを得る。

Maria K. M.


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