イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/07/01


150. シグナル

前回に引き続き、ヨハネの黙示録の預言的構成(下図参照)の「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22章)についての考察を続ける。これは、ヨハネの黙示録の最後の預言である。ここには、これまで黙示録の預言の書としての働きを支え、伝達してきたシグナルとなる言葉が集まってきている。 

黙示録21章3節の、著者に玉座から語りかける大きな声は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)が実現するに至ったすべての労苦、死と悲しみや嘆きが過ぎ去ったことを告げた。ここは、ミサ典礼完成直後の場面である。そこで、「玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」(黙示録21:5)。 

したがって、使徒言行録でペトロが神殿で説教をした時、「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」(使徒言行録3:21)と述べた「万物が新しくなるその時」とは、ヨハネの黙示録において、「ミサ典礼の完成の預言」が実現されるときである。 

そこで「玉座に座っておられる方」は、続けて、著者に次のように言った。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙示録21:6~7)。著者に向かってこのように言ったのは、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」と言った「これらのもの」が何であるかを著者が知っていたからだ。 

著者がこの黙示録を書くきっかけは、主の日に、著者が、「霊に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた」(1:10)ことから始まった。彼はその声に、見ていることを巻物に書いて七つの教会に送れと命じられた。この七つの手紙に共通して書かれているのが、「勝利を得る者」に与えられる報いであった(2:72:112:172:26~283:53:123:21参照)。 

ここで、最後の手紙の報いが「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(3:21)と書かれており、今回の「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(21:7)とつながって意味を成していることが分かる。それは、最後の手紙の送り主が、「神に創造された万物の源である方」(3:14)であり、上記の「玉座に座っておられる方」(21:5)の言葉と主題が合致するからだ。 

さらに、最後の手紙の「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう」の直前の句は、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3:20)である。「戸口に立って、たたいている」方は、その方が入るに相応しい食卓が完成するのを心待ちにしているのだ。なぜなら、この方が、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(ルカ22:15~16)と言ったキリストだからである。 

ゆえに、ここで「勝利を得る者」とは、ミサ典礼を完成したキリスト者なのである。「ヨハネの黙示録の預言的構成」の図に示したように、ミサ典礼を完成するために、今分かっているだけでも、3つの必須要件を上げることができる。これらは、教会において未だ達成されていないか議論中のものばかりである。確かに私たちは、「教会の堕落の預言」の只中にいるのである。 

上記の「勝利を得る者」の二つの句は、次のようにつながる。「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」 

ここで示されたことは、イエスが最期の夕食で、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言った言葉と合致する。イエスのみ心は、彼が「わたしの兄弟姉妹、母、友」と呼んだキリスト者が、「わたしの子」となることにあったのである。

Maria K. M.




 2024/06/24


149. イエスのみ心と洗礼者ヨハネ

ヨハネの黙示を預言の書(黙示録1:3参照)と見た時の構成上の最後の部分、「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22/下図参照)は、イエスのみ心そのものである。聖霊はイエスの名によって遣わされたからだ(ヨハネ14:26参照)。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(黙示録21:1)という、何かの前兆であるような表現で始まっているのは、著者が「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(21:2)ためである。 

「花嫁」という言葉は、黙示録の中で5つの場面に登場する。新約聖書の他の箇所では、ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの口から出た次の一言だけである。「花嫁を迎えるのは花婿だ(ヨハネ3:29)。洗礼者ヨハネは、イエスが「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:13~14)と言ったように、預言者であった。そこで、洗礼者ヨハネの言葉を、黙示録から推測し、解釈することができるのではないだろうか。 

ヨハネの黙示録の中で「花嫁」が初めて登場するのは、「教会の堕落の預言」(17~18章)の最後である。「新約聖書成立の預言」(4~11章)が終わり、新約聖書は成立したものの、「司祭とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(12~16章)の中で、教会は、情報に翻弄された挙句、「紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、『大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母』という名である」(17:4~5)と描写されるまでに堕落する。 

そして遂に、「ともし火の明かりも、もはや決してお前のうちには輝かない。花婿や花嫁の声も、もはや決してお前のうちには聞かれない。なぜなら、お前の商人たちが地上の権力者となったからであり、また、お前の魔術によってすべての国の民が惑わされ、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」(18:23~24)と書かれた。これは、洗礼者ヨハネの殉教の場面ともイメージが重なる。 

このような状況を踏まえて、ここでの「花婿」を御言葉、「花嫁」を新しい契約を示す新約聖書と捉えなおしてみると、このフレーズは、教会の内で、御言葉も新約聖書も忘れられていることを憂いているのだということが分かる。そして、洗礼者ヨハネの「花嫁を迎えるのは花婿だ」と言った表現は、御言葉が新約聖書を完成するイメージとなり、旧い契約の最後の預言者として、彼が、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言ったことが頷ける。 

「花嫁」が次に登場するのは、「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた」(黙示録19:7~8)というフレーズであり、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の箇所に置かれている。「小羊の婚礼の日」がイエスの最期の夕食の場面であり、ここでご聖体を制定したイエスの言葉を受け取ったのは新約聖書であるから、ここでも「花嫁」は、新約聖書である。 

後の3つは「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22章)にあり、別のイメージが付加されている。「夫のために着飾った花嫁」(21:2)は、イエスの最期の夕食で御言葉によって成ったイエスの身体を支える食卓(祭壇)を、「小羊の妻である花嫁」(21:9)は、その翌日、イエスご自身の身体を支えた十字架を暗示している。 

これらの最後に、「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」(22:17)とある。これは、完成したミサ典礼に世界中の人々を招くイエスのみ心の声であり、信者たちにもそうするように命じているのである。このイエスのみ心を実証するのは、私たちキリスト者である。次のイエスの言葉が私たちの内に実現しているからである。 

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』」(ヨハネ7:37~38)。 

Maria K. M.







 2024/06/17

148. 大きな白い玉座と悪霊の救い

悪霊は、もともと人であり、悪魔やサタンとは異なる。そこで、悪魔やサタンを情報と捉えて悪霊を理解するという発想は、世の中の「悪」といわれる現象が、情報と人の間の強い因果関係によって引き起こされる人間の仕業であることに、私たちの注意を向ける。だから、たとえ悪霊が人に取りついて引き起こす超自然的な現象を見たとしても、聖霊と共働するという超自然的な体験を念頭において生きるキリスト者たちにとっては、想像を絶する出来事とは言えない。今回から黙示録に戻り、「ミサ典礼の完成の預言」の考察を終わらせたい(下記「ヨハネの黙示の預言的構成」の図参照)。

悪霊たちは、生きている人の「知識と記憶」、「感覚の機能」、「体の機能」から肥大した欲求が現れると、その隙に乗じて取りつき、その人の内に留まり、ともにしるしを行い、悪霊候補者たちを集める(マタイ12:43~45参照)。彼らの「全能者である神の大いなる日の戦い」(黙示録16:14)の場は、ミサ典礼でご聖体が上げられ、すべての人を引き寄せる場である(ヨハネ12:32参照)。ゆえにそこに向かう信者たちの足跡が「王たちの道」(黙示録16:12)になる。 

一方で、ミサ典礼に向かおうとする信者たちの途上には、多くの情報群が待ち受ける(黙示録20:7~10参照)。「その数は海の砂のように多い」(黙示録20:8)。それらに信者たちは絶え間なく惑わされ、ミサ典礼に入ってしまうまで付きまとわれる。しかし、信者たちはミサ典礼に入ってしまうとそこに集中するために、すべての情報は忘れ去られる。まるで「天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした」(黙示録20:9)かのようだ。彼らが惑わされた情報は、「火と硫黄の池に投げ込まれ」(黙示録20:10)、処分されたのだ。

続けて、「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」(黙示録20:11)とある。著者は「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」、すなわちご聖体を見たと書いているところから、実際のミサ典礼の場では、感謝の典礼に入り、ご聖体が上げられているところである。この場は神と人の現実である。続けて、「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」のは、ご聖体は見えていても、そこは聖霊と信者たちが協働する実際のミサ典礼とは異なる場であったからである。この場は神の現実である。 

そこで著者は、人が死んで、「人の知識と記憶」に張り付かれた「命の息」が、肉体を離れ天の父のもとに帰る神の命令(~あれ)について行けず、地上に残ってさまよう悪霊となって「玉座の前に立っているのを見た」(黙示録20:12)。彼らは、なんとかして「王たちの道」を見つけ、ここまでやってきたのだ。ご聖体の前は、彼らが生きている間に、彼らの「人の知識と記憶」が「命の息」に張り付いて行ったことを、神から明らかに示されたうえで、引きはがされる場となっている(黙示録20:12参照)。引きはがされた彼らの「人の知識と記憶」は、「その名が命の書に記されていない者」として、「火の池に投げ込まれ」(黙示録20:15)処分されるのである。 

このとき実際のミサ典礼の場では、信者たちがご聖体を拝領している。神の現存するイエス・キリストの体は、いわば第二の受肉の神秘によって生きている神である。この神が、信者に食べられ死ぬとき、「私はある」という神の自発性と神の知識が、「人の情報と記憶」をはがされた「命の息」を連れて天の父のもとへ戻る。聖霊と信者たちが協働するミサ典礼は、悪霊をも救うのである。ミサ典礼を行うことは、世の中の「悪」といわれる現象を内側から制する力の源になる。 

これらのことから、また、教会が未だとどまっている「教会の堕落の預言」の段階を抜け出るためにも、私たちキリスト者は、ミサ典礼の完成を目指さねばならない。そして、先人たちが新約聖書を成立させ、ヨハネの黙示の預言を実証したように、私たちも「ミサ典礼の完成の預言」を実証するのだ。 

Maria K. M.








 2024/06/10


147. 悪霊

新約聖書には、旧約の時代よりも、悪霊や汚れた霊が頻繁に登場するようになった。それは、「神が置いた敵意」そのものであるイエスが、キリストとして現れたことによって、悔い改めの余地がない死後の人間に救われる可能性ができたからだ。 

ペトロは、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(ペトロ一3:18~19)と手紙に書いた。彼は、「サタン」とはイエスの邪魔をする者であり、神のことを思わず人間のことを思っている者であることを、イエスから身をもって教えられていた(マタイ16:20~28参照)。さらに、自分がイエスから授かった悪霊を追い出す権能を行使した経験から、悪霊が、悪魔やサタンとは違うことを感じ取っていた。 

悪霊たちは、再び死を体験しようとして、取りつく隙がある人を見つけるといっせいに入り、取り殺そうとする。「第二の死」を味わうことなく救われたいのである(黙示録20:14,21:8参照)。しかし、取りつかれた人は生きていて、神の命令(~あれ)と、それに応える自発性と相応の知識と記憶からなる魂があるために、悪霊たちに抵抗して非常に苦しみながらも死ぬことはない。そのさなかでイエスと出会った悪霊たちは、わめきながらひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」(ルカ8:28)と大声で言った。イエスが、汚れた霊に、その人から出るように命じられたからである。 

ここで悪霊たちは、「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」(ルカ8:31)とある。それは、悪霊たちの「命の息」に張り付いている知識が、もともと「人の偶発的情報」、すなわち、黙示録で「年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙示録12:9)と書かれたものだったからである。イエスが神の子だと知っている悪霊たちは、この知識が、「底なしの淵」(黙示録20:1)や「火と硫黄の池」(黙示録20:10)に投げ入れられ、彼らが第二の死を味わうことも知っていたのだ。 

そこで悪霊たちは、豚の中に入る許しをイエスに願った。おそらく、神の子イエスの前にいたたまれなくなったのであろう。イエスが許されたので、彼らは豚の中に入って共に溺れ死んだ。しかし、霊である彼らは、どんなに望んでも再び死ぬことはできない。彼らには、ただ、霊においてキリストが助けに来るのを待つことしかなかったのである。 

悪霊の自発性は、神ご自身が吹き入れた「命の息」であり、神は、それが誰のものであるかを知っている。そして、それに張り付き、それが背負わされている知識もまたその人のものである。ゆえに、死んでも神のもとへ帰れず、この世をさまよい苦しむ地獄からその人の「命の息」を救うことを神は計画していた。それはペトロが書いたように、神が死んで、捕らわれていた霊たちのところへ行って、神の自発性と神の知識、すなわち「わたしはある」によって彼らの「命の息」を引き寄せ、それに張り付いている知識を引きはがし、天の父のもとへ連れて行くというものであった。 

前回考察したように、創世記の二人においては、彼らの魂が、情報を自らの知識として取り込み、嫉妬の感情に刺激され肥大した欲求を満足させるために「善悪の知識の木」とつながった。さらに「命の木」を飛び越え「命の息」とつながった。彼らの脳内で起こったこれらのプロセスが、神が食べることを禁じた木の実を取って食べるという実際の行為として現れた。この創世記の二人以来、人の魂は「善悪の知識の木」とつながったままでいるのである。だから、今も多くの人は、容易に彼らに追従することになる。しかし、そのまま死ねば、欲求を満足させる知識が「命の息」に張り付いて離れず、また悪霊が一人地上に生まれ、さまようことになる。 

私たちは、悪霊候補者になってはならないのである。そのためには、「神が置いた敵意」の働きが見えるようになることが不可欠である。その働きは、イエス・キリストの世界観を持てば、誰でもすぐに明確に見ることができる。だから、ヨハネの黙示の冒頭には次のように書かれている。 

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(黙示録1:1)。 

Maria K. M.



 2024/06/03


146. 嫉妬

本ブログ№139からこれまでの考察によって、悪霊や悪魔に関する私の考えをお伝え出来たと思う。私は、竜、蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者も、その使いたちも、その他この類、世界中でさまざまな名で呼ばれてはいても、それらは皆、情報だと捉えている。そして、あらゆる情報の基盤は、21世紀の今も「人の偶発的情報」である。一方、悪霊はどこまでも人である。そこには神ご自身が吹き入れた息が共にあって救われる時を待っているのである。この観点から続けて悪霊が生まれる原因を考察する。 

被造物の自発性は、「わたしはある」という神の自発性がその源泉であるために自由である。神は、脳を土で形づくったあらゆる獣や鳥を「人」のところへ持って来て、「人」がそれぞれをどう呼ぶかを見ていた。「人」の脳は、土の塵で形づくられたので、親近感をもってそれらの生き物を呼んだ(本ブログ№144参照)。すると「すべて、生き物の名となった」(創世記2:19)とある。これは、人相応の知識と記憶と、情報を取り込む感覚機能や体の機能が、神が命じる「あれ」に応える自発性のもとにつながっていたしるしである。 

それは、先に神が命じておいた二つのこと、第1に園のすべての木から取って食べること、第2に善悪の知識の木からは決して食べてはならないことを、聞いて記憶していたしるしでもある。さらにこの体験は、自分が名を付けたものの中には「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(創世記2:20)という記憶を「人」の脳に残した。 

神は、このように準備し、「人」から「男」と「女」を創造した。「男」は神に連れてこられた「女」を見たとき、「女」が同じ人間であるもう一人の「自分」であるかのように感嘆の叫びをあげた。彼の口から感情がほとばしり出たことは、神が命じる「あれ」に応える自発性のもとに、魂が機能していることの表れであった。 

ここで二人の間に、「人の偶発的情報」が発現した。「女」はこの体験をエピソード記憶にし(創世記3:1~5参照)、「園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない」(創世記3:3)と言った。この言葉から、ここにはすでに嫉妬の感情の兆しがみられる。嫉妬の感情には、欲しい物に「触れてはいけない」という考えが影響することがあると言われているからだ。 

嫉妬の感情は欲求を刺激する。そこで、「人の偶発的情報」を自分の知識として取り込んだ二人の魂の内で、知的欲求が急激に肥大した(創世記3:4~6参照)。彼らの魂はその欲求を満たそうとして神から吹き入れられた「命の息」を強く求め、「善悪の知識の木」に向かった。そこで、彼らの欲求が「善悪の知識の木」とつながったと同時に「命の木」を飛び越え、「命の息」とつながった。彼らの脳内で起こったこれらのプロセスが、神が食べることを禁じておいた「善悪の知識の木」から取って食べるという行為として表に現れた。強い自発性とつながった体験によって、二人の目は開けた(創世記3:6~7参照)。 

その影響は、「人」の体のほとんどを受け継いだ「男」に顕著に現れた。彼は、自分から何かが取られたという記憶を漠然と持っていた(創世記2:23参照)。彼は、それが非常に貴重な体の器官であることを、このとき悟ったに違いない。それは子宮であった。「男」は、子孫を産み出す体の機能を失っていた。タツノオトシゴの例にみられるように、子宮を雄に与えるアイディアが神にはあったことを考えると、神にはそれを取って「女」に与えた理由があった。「男」には、キリストの体を創造する神の助け手となる未来が置かれていたのだ。一方、子宮を与えられた「女」は、神がご自身の息を吹き入れる人の体、その創造の助け手になった。後に彼女はそれを自覚した(創世記4:1参照)。 

「男」には、嫉妬の感情が起こった(創世記3:12参照)。それは支配欲に転じ、彼は「女」に名をつけた。彼は、神の前で、神が連れてきた「女」を、自分が呼べばその名になった他の生き物と同様にみなして見せ、自分が彼女を支配したことを誇示した。嫉妬と自慢は、欲望がある限り切り離せない感情である。こうして彼は、神に背を向けた。

つづく

Maria K. M.

 



 2024/05/27


145. ケルビムときらめく剣の炎

人と被造物が神の言葉「あれ」に応えて存在するようになった自発性も、神が人をご自分に似せて造るために吹き入れた「命の息」も、「わたしはある」という神の自発性がその源泉であるために、自由である。そこで、神は、実際の園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」を生え出でさせ、創世記の二人がどのようにそれらの実を取って食べるかによって、どのように自発性が発揮されるかを見極めようとした。 

二人は情報を共有し、「善悪の知識の木」の実を取って食べた。そこで、神は、「女」と情報の間に「敵意」を置いて、これが子孫に遺伝するように対処し、新しい計画を打ち出した。このため、「女」のはらみの苦しみは大きなものになったが、情報に騙されたことを認めた「女」は、神の言葉に背いた過ちを赦されたのである。 

一方、自分が「女」の手からその実を取って食べたという過ちと、その原因を神に帰したという二つの過ちを犯した「男」に対し、神は、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(創世記3:17)と言ってその贖いを求めた。しかし、神の言葉には、「お前は顔に汗を流してパンを得る」(創世記3:19)という未来が織り込まれていた。「女」によってもたらされた「神の置いた敵意」を持つ彼らの子孫に希望が託されたのである。 

唯一人「神の置いた敵意」を持たない者となった「男」は、その後「女」をエバと名付けた。これで彼は、先の二つの過ちの上にさらに過ちを重ね、過ちは三度に及んだ。神が、「男」を「女」とともにエデンの園から追い出したのは、彼に、自分がそこから取られた土を耕させ、彼の子孫にそれを引き継がせるためであった。 

ペトロは、イエスの予告どおり彼を三回否み、それを泣いて後悔した。イエスは、復活後に、「わたしを愛しているか」と三回ペトロに問うことによって、創世記の「男」の過ちを消去した。神が未来に託した希望は神への愛として実現し、その贖いから神の命が再び宿るキリストの体が生まれる。 

イエスが選び、使徒と名付けた者たちが、ペトロを筆頭に「顔に汗を流してパンを得る」者、「永遠の命に至る食べ物のために」(ヨハネ6:27)働く者となり、イエスが十字架上で成し遂げた新しい契約を更新するのである。 

「男」の贖いを継承した男性は、キリストの体を創造する神の助け手として働くことになった。イエスはここに「天の国のために結婚しない者」(マタイ19:12)という勧めを置いた。彼らの体が神の命に向き合うためである。このようにして、「女」のはらみの苦しみを継承し、その体が人の命に向き合い、人の体を創造する神の助け手として働く女性との間に、真の平等が築かれていくのである。 

創世記の「男」以外のすべての人は、遺伝によって「神が置いた敵意」を持っている。しかし、この「敵意」がどのように働くかは未知数である。それは、人相応の知識と記憶の裏には、情報を取り込む感覚機能や体の機能があって、それらも神が命じる「あれ」に応える自発性によって維持されており、それらと結ばれた知識と記憶が肥大するにつれ、本能を超える欲望が表出する強い傾きを、人が持っているからである。 

多くの人が、イエスの言葉を受け取れないのは、「神が置いた敵意」によって知る自分自身の真の姿を見るに堪えないからだ(ヨハネ8:31~59参照)。情報と悪霊(汚れた霊)の間の因果関係は尽きることがない。人が「神が置いた敵意」を持っていても、それを見ようとも知ろうともしないならば、その人は、創世記の「男」に追従することになる。その人の肉体の死は、悪霊を生む。このため、神は、「男」のために、また、これら「男」の追従者たちのために、命の木に至る道を守り、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置いたのである。

つづく

Maria K. M.

 


 2024/05/20


144. 魂と霊

情報と悪霊(汚れた霊)の間の因果関係を考察するにあたって、魂と霊がどのようにして人のものになったかを、新約聖書をもとに創世記から見直してみる(上図参照)。 

神は、さまざまな被造物を言葉によって創造した。ゆえにそれらには、神の命令(~あれ)に応える自発性が備わっている。神は、人と他の生き物に食べ物を与えた。それは同時に、彼らに、相応の知識と記憶を持つようにさせたということである(創世記1:1~30参照)。そこで、彼らは、神の命令(~あれ)に応える自発性と相応の知識と記憶を持つ。これが彼らの体と共にある魂の状態だと考えられる。ゆえに人は、すべての生き物の命に畏敬の念を持つのである。 

次に、神は、人に、神に似せて霊を与える準備をした(創世記2:1~17参照)。神は、人の脳を土の塵で形づくった。そして、鼻から「命の息」を吹き入れ、脳の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」を生え出でさせた。 

「命の息」は、神が吹き入れた神のものであるから、被造物ではない。「わたしはある」という方である神の自発性が、人に分与されたのだ。それはその人固有の自発性になる。そこで、人は、神の命令(~あれ)に応える自発性と併せて、二つの自発性を持つことになった。

一方、「命の木」と「善悪の知識の木」は被造物である。神がこれらを人の脳に生え出でさせたのは、人がイエス・キリストに似たものになるためであった。「我々に似せて」(創世記1:26)とは、イエス・キリストに似ることである(ヨハネ10:3014:7参照)。イエス・キリストには、神の自発性と神の知識からなるご自身の霊があった(ルカ23:46参照)。「命の木」は、その人の「命の息」と神の知識をつなぎ、その人に固有の神の霊(ヨハネ4:24参照)をもたらすインターフェースである。これによって、人の霊は、イエスの霊に似たものとなる。 

「善悪の知識の木」は、その人固有の神の霊と、その人の体と共にある魂をつなぎ、その人は、自身の神の計画を悟るようになる。「わたしはある」という方であるイエス・キリストも、完全に人であるために、人や他の生き物と同じく、魂を持っていた。魂におけるイエスの自発性は、「わたしはある」に基づくものであった。そこでイエスは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハネ10:18)と言ったのである。このようにして、イエスは人と同じく、二つの自発性を持ったのである。 

イエスの名によって遣わされた聖霊が降臨し、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)とき、聖霊が弟子たちと接続したのは、彼らの脳にある「命の木」であった。そこで、彼らそれぞれに固有の神の霊がもたらされ、「善悪の知識の木」とつながった。それはさらに、イエスと共にいることで彼から養成され、彼の世界観を共有していた彼らの魂とつながり、彼らは神の計画を悟り、聖霊と協働することができた。 

そこで、私たちの霊が、「善悪の知識の木」によって、神の命令(~あれ)に応える自発性と相応の知識と記憶からなる魂とつながって生きるためには、当時の弟子たちがイエスから養成され、彼の世界観を共有していたように、御言葉とご聖体によって聖霊から養成され、ヨハネの黙示を朗読しそれを聞く習慣によって、イエス・キリストの世界観を身に着けなければならない。 

マリアに聖霊が降り、彼女がいと高き方の力に包まれ、イエスを身ごもったように、私たちは、聖霊の養成を受け、イエス・キリストの世界観を身に着けるのである。マリアは、ザカリアの家でエリザベトの言葉に次のように応えた。 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(ルカ1:46~50)。 

やがて私たちもマリアのように、自分の魂と霊が共に主をあがめ、神を喜びたたえる幸いを得るようになるのである。マリアは、イエス・キリストに似た者として生きるキリスト者の初めであり、私たち教会の母である。 

つづく 

Maria K. M.


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