イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/09/02


159. 使徒パウロの召命

「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4:22~24)とパウロは言った。彼は、ダマスコの途上でイエスと出会い、アナニアに助けられて洗礼を受けた体験から、これらの実感を得た。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」とは、人が神にかたどって造られたことを自分自身の内に再発見し、聖霊と協働する新しい人としての体験を身に着けていくことだ。「真理に基づいた正しく清い生活を送る」過程も聖霊とともにある。 

そのためにイエスは、「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(ヨハネ6:45)と言ったのである。「父から聞いて学んだ者」とは、イエスが、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:26)と言ったように、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」から学ぶ者のことである。 

パウロは、聖霊を体験していた。その一方で、他の使徒たちのように直接イエスを知らず、「わたしが話したこと」を記憶に持っていないパウロは、自分の中から何も引き出すことができなかった。使徒パウロは、イエスの3年間の公生活を共に過ごし、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇し、聖霊の降臨を体験させるためにイエスが選んで使徒とした者たちとは、全く異なる神の選びの上に立っていたのだ。 

そこで彼は、幼い日からヘブライの聖書に親しんできたテモテに、「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(テモテ一4:13)と命じ、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテ二3:15~16)と教えている。「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」、これこそがパウロ自身が持っていると実感するものであった。 

神は、彼を選び、彼のすべてが彼のために益になるような仕方で彼を運んだ。彼が「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリピ3:8)と書いた「他の一切」の中には、ファリサイ派として復活を信じていたこと、タルソス生まれでローマ帝国の市民権を持っていたこと、テント職人であることも入っていた。これらすべてを神からの恵みとして、彼は大いに利用した。ゆえに彼は、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(3:13~14)と言うことができた。こうして、新約聖書の成立とキリスト教がローマ帝国の国教とされた4世紀の終わりは、パウロの「目標を目指してひたすら走ること」の延長線上に到来した。 

エルサレム神殿が崩壊することをすでに予告していたイエスは、未来のキリスト者のために「新しいエルサレム」を準備していた。その道をローマに向けて切り開くことがパウロの召命であった。ゆえに、イエスは千人隊長の兵営にいたパウロのそばに立って次のように命じた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒言行録23:11)。主はパウロのために門を開いている(コリント一16:8~9、コリント二2:12、コロサイ4:3参照)。 

黙示録の七つの教会への手紙には次の箇所がある。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(黙示録3:8)。ゆえに、彼の報いは次のとおりである。「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(黙示録3:12)。 

Maria K. M.


 2024/08/26


158. 神の国

使徒パウロは、異邦人が福音によってイエス・キリストにおいて約束されたものを一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるために、彼らに「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4:22~24)と教えた。そして、その生活を支えるためには、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5:19)と言って、それらを実行するように勧めたのである。この勧めは、コリントとコロサイの信徒への手紙にも見られる(コリント一14:26、コロサイ3:16参照)。異邦人たちに、未だ救い主を待っている旧約の民の思いを植え付けることは、彼らの記憶に預言の言葉が刷り込まれ、イエス・キリストが預言されたメシアであることを信じさせるために有効であった。それを習慣にしていた自分がイエスから呼び出されたという確信の内にいるパウロは、迷わなかった。 

一方、イエスが天から降って来たのは、旧約の預言を成就するためだけではなく、御父の御心を行うためであった(ヨハネ6:38参照)。それは、預言者が立つより遥か昔、エデンの園で起こった出来事を解決するためであった。神は、「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(創世記3:22)と言って、「アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(3:24)。それ以来神は、悠久の時を待っていたのである。父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)とイエスが言ったように、それは人を死者の中から復活させることではなかった。 

イエスにはそのために計画があった。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言ったご自身の言葉を実現するのである。この言葉は、イエスが最期の食卓で次のように実現した。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(マタイ26:26~28)。そのときイエスは、「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言っておいた。この予告は、イエスが十字架上で酸いぶどう酒を受けたことによって実現した(ヨハネ19:28~30参照)。神の国はすでに来ているのである。 

イエスが述べ伝えた神の国は、4世紀の終わりに、新約聖書の成立とキリスト教がローマ帝国の国教とされたことで、世に見えるようになるための条件が整った。しかし教会は、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」というパウロの勧めを維持し、それをミサ典礼の骨組みに据えて発展させてきた。イエスの復活の証人たち、イエスと共にいて、直接教えを受け、イエス・キリストの世界観を持っていた人々は遥か昔に亡くなり、彼らの暗黙知を知る術はなかった。このとき、成立した新約聖書に仕込まれていたヨハネの黙示録には思い至らなかったのである。 

救い主を待っている旧約の民の思いを繰り返しキリスト者の記憶に刷り込む習慣は、無意識の内に彼らの記憶に、キリストの救いも未来の出来事だという思いを植え付ける。そして、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリント一13:12)というパウロの強烈な憧れが伝播する。それは、ご聖体を制定したとき、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言った言葉によって、ご自身の時を現在化する種を、未来のミサ典礼のために蒔いておいたイエスの思いと決定的に矛盾する。 

Maria K. M.


 2024/08/19


157. 時が迫っている

使徒パウロは、エフェソの信徒たちに、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:18~20)と勧めた。彼は、異邦人の彼らが、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌うことを習慣にすることによって、無分別な者とならず、自分のように、ヘブライの聖書からイエス・キリストについての証しを読み取り、父である神に感謝するようになると考えたのだ。ダビデの作と言われる詩編には、救い主の預言が置かれており、自分の子ソロモンについて、神から「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(サムエル下7:14)と告げられたダビデは、神が人の父となるという発想を持っていたに違いない。 

パウロが、「わたしは・・ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、・・律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:5~6)と回想しているように、彼にはヘブライの聖書に基づく律法の義が、その記憶に深く根を下ろしていた。パウロの記憶の底には、律法の義を守るために得た経験や勘、直感などに基づく、簡単に言語化できない知識が横たわっていたに違いない。彼の「律法の義」は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と言われたイエス・キリストに呼ばれたことによって転換し、完成に向かった。その義は、彼がキリストを得、キリストの内にいる者と認められるために、イエスに近づく彼の指針となった。そこから彼は、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリピ3:9)と言うまでになったのである。 

一方、復活を信じるファリサイ派であったパウロにとって、キリストとその復活の力とを知り、何とかして死者の中からの復活に達したいという願いは、究極のものであったに違いない。しかし彼は、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(フィリピ3:12)と正直に語っている。続けて彼は、自分を励まし、共同体に勧めを与えた後、次のように書いた。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(3:20)。この言葉には、キリストと出会う以前の彼と変わらぬパウロの姿が見える。 

救いを未来に求めるこの言葉は、未だ救い主を待っている旧約の民のメンタリティーが、彼の記憶の中で生きていたことを物語っている。パウロの記憶は、その内奥で、救い主を待っている旧約の民の記憶を守っていたのだ。それは、エフェソの信徒たちに、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」という勧めを与えた彼の記憶であった。詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌う習慣は、ヘブライ人であるパウロ自身が実践してきたことであった。 

パウロは、イエスと出会ったことによって、「わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」ということができた。しかし、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌う習慣は、彼の内奥に絶えず働きかけ、彼を、その中に記されたことを守る者、救い主を待っている旧約の民の記憶を守る者にしていたのである。 

イエス・キリストによって、ヘブライの聖書の預言は実現した。しかし、パウロ自身がコリントの信徒への手紙で伝えているように、イエスの復活の証人たちの中ですでに亡くなった人々が出てきていた(コリント一15:6参照)。彼らは、イエスと共にいて、直接教えを受け、イエス・キリストの世界観を持っていた。聖霊は、やがてこれらの証人たちが途絶えるときに備えて、新約聖書にヨハネの黙示録を加え、その書にこう記した、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1:3)。 

Maria K. M.


 2024/08/12


156. イエスの最期の食卓に導く司祭職

荒れ野に隠された司祭職の真の姿は、「仕える者」であった。司祭職は、この職務を引き受けた者を、世の僕のように仕える者にではなく、すべての人をイエスの最期の食卓に導くイエス・キリストの友とする。主は、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(黙示録3:19)と言われる。そこで、前回考察した7つの教会の天使に宛てた手紙のそれぞれに記された、「勝利を得る者」の受ける報いに与る「仕える者」の特徴をまとめると、概ね次のようになる。 

自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜く。忍耐して、イエスの名のために我慢し、疲れ果てることがない。どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻る。受けようとしている苦難を決して恐れない。生きているとは名ばかりで、実は死んでいるような行いから目を覚まし、死にかけている残りの者たちを強め、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改める。自分の栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守る。熱くも冷たくもなく、なまぬるい状態から出て、裕福になるように火で精錬された金、裸の恥をさらさないように身に着ける白い衣、見えるようになるために目に塗る薬を、イエス・キリストから買う(2:1~3:22参照)。 

ここで言われていることを理解して、実行するには、新約聖書の成立が必須であった。イエスの司祭職とそれを引き受けた者の養成は、旧い契約の祭司職の場合とは完全に異なるからである。イエスは、「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」(ルカ5:36)と言い、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(5:37~38)と言って、新旧の契約の教えが混ざることの危険性を警告した。さらに、「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(5:39)と続けて、新しい契約に結ばれた人に、旧い契約の教えをインプットし続ければ、旧い契約の教えを好むようになると予告した。 

信者が、旧い契約の書を朗読し、それを聞いて、その記憶に旧い契約の教えを恒常的に注入することを続ければ、彼らの記憶に新旧の契約の教えが混ざって置かれてしまうことになる。無意識の内にも、救い主の到来を待ち望む旧約の時代の人々の嘆きや神への訴えに共感し、やがて、それを自分の置かれた状況と重ねて味わうようになると、嗜好的な依存が起こる危険がある。私たちは、ともすれば、常に共にいて働きかける聖霊を忘れ、いつ来られるかも知らない再臨のイエスを思い描き、そこから慰めを得ようとするからである。 

イエスご自身が、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)と言い、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカ24:44)と言ったように、イエスがこの世に到来し、イエス・キリストによる神の決定的な救いの計画が、新約聖書成立によって明らかになった今、それ以前の教えは、それを理解するために必須な歴史的研究対象として取り扱うべきである。 

旧い契約への嗜好的な依存は、「これを記念として行いなさい」(ルカ22:19)と命じたイエスの言葉によって現在化するイエスの最期の食卓を囲むとき、私たちと共にいる神として、ご聖体に現存しておられるキリストに集中させるよりも、主を迎えるのにふさわしくない自分に執着させるのである。そこで、世界中の多くの信者たちは、ご聖体を目の前にしても、彼こそが私たちと共にいる神であり、救い主であると告白する望みが自分の内奥に潜んでいることを悟ることができない。それは、すでに、天の父が使徒ペトロの上に、イエスご自身がマルタの上に現して、信者に与えておいた神の幸いであるにもかかわらず。 

過越祭の前にイエスは、最期の食卓の席から立ち上がって使徒たちの足を洗った。それは、新しい契約を前にして、それまでの一切の契約の記憶を洗い流すためであったにちがいない。「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うペトロに、イエスは次のように言った。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(ヨハネ13:8)。 

Maria K. M.


 2024/08/05



155. 司祭職と教会の天使

前回、「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」(黙示録21:9)の句を考察し、「小羊の妻である花嫁」は、主の十字架であり、イエスの言葉を記念として行う司祭自身が背負っている職務、司祭職であると結論付けた。今回、この天使のように、黙示録に登場する天使と司祭職について考察する。 

黙示録の初めに、著者は、ラッパのように響く大声が、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(1:11)と言うのを聞いた。そして、「○○にある教会の天使に、こう書き送れ」という書き出しと共に、それぞれの教会に手紙を書き送るように指示される。これらの手紙の中には、「あなた」と「あなたがた」を書き分け、司祭と信徒のいる教会共同体をイメージさせるものがある(スミルナ、ペルガモン、ティアティラ)。また、手紙の受け手が、自身の不足や弱さを抱えながらも、任された教会共同体のために、さまざまな問題と対峙する様子が描かれている。「天使」は司祭である。しかし、司祭が「天使」と呼ばれるのはなぜであろう。 

他の箇所で、天使は自分自身を、「わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である」(19:10)と言っている。「イエスの証しを守っている」という言葉は、黙示録の中では、この箇所と、「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った」(12:17)の文中の2か所のみである。そして、この「竜」の場面には、「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった」(12:6)と書かれていることから、この「女」すなわち司祭職は、「荒れ野」である使徒たちの記憶に隠されたと考えてきた。 

福音書は、イエスが「仕える者」について使徒たちに語り、彼らの記憶にこの御言葉を注ぎ込んでいった事を記している(マタイ20:26~28、マルコ9:3510:43~45、ルカ22:26参照)。使徒たちの記憶には、天使が自らについて言った「仕える者」という御言葉が置かれていたのだ。この御言葉は、イエスご自身である。イエスは最期の食卓で、使徒たちに「仕える者のようになりなさい」(ルカ22:26)と命じ、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22:27)と言っている。このようなわけで、七つの手紙の受け手である司祭も仕える者として、「天使」と呼ばれているのである。そして、ここから、「仕える者」が使徒たちの記憶に隠されていた司祭職の実像であったことが分かる。 

そこで、再び、黙示録の七つの手紙に戻り、それぞれの手紙の内容を、「仕える者」という御言葉を念頭に見直すと、そこに書かれた様々な問題に答えが見えてくる。さらに、各手紙の最後にある「勝利を得る者」に与えられる報いの内容は、「仕える者」の新しい姿を示し、それらは、終わりにイエスの食卓に行き着く(注)。司祭職は、天使がそうであるように、イエスの証しを守っている兄弟たちと共に、仕える者である。それは、すべての人をイエスの最期の食卓に導く。これらのことが分かるのは、私たちがすでに新約聖書を手にしているからだ。ヨハネの黙示録は、七つの教会に送る手紙の後、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第3の預言、「新約聖書成立の預言」(4~11章)に進む。 


(注)「勝利を得る者」の受ける報い

1.「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(黙示録2:7/エフェソ)

2.「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない」(2:11/スミルナ)

3.「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」(2:17/ベルガモン)

4.「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える」(2:26~28/ティアティラ)

5.「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3:5/サルディス)

6.「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(3:12/フィラデルフィア)

7.「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(3:20~21/ラオディキア)

 Maria K. M.




 2024/07/29


154. 司祭職と十字架

「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第7の預言、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落(黙示録21:1~8)は、前回考察したように、第4の預言で天に隠されたご聖体が姿を現す「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落(20:11~15)と同じ構造を取っている。このことから、「聖霊の霊性の預言」の初めの段落が、ご聖体の秘儀を明らかにしていることが分かった。 

続く「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の二つ目の段落は、「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」(黙示録21:9)で始まる。ここで、「小羊の妻である花嫁」は、イエスご自身のからだを釘付け、支えた十字架を表している(本ブログ№149参照)。この十字架は、イエスの言葉を記念として行う司祭自身が背負っている職務、司祭職である。そこでイエスは、使徒たちを選んで派遣するとき、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:38)と言っておいたのである。 

イエスの名によってパンとぶどう酒が御からだと御血になるように御父に願った司祭が、そのパンを取り、信徒と共に囲む祭壇の上で持ち上げる時、司祭の身体が、イエスのからだを釘付け、支えた十字架になる。福音書には、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ19:25)と書かれている。イエスは十字架上から彼らを見て語りかけた(ヨハネ19:26~27参照)。ゆえに、司祭は、共に祭壇を囲む信徒に向けてご聖体を示すのである。 

イエスによって成し遂げられたすべての出来事は、彼の最期の食卓で「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言ったものの、それを実現できなかった使徒たちの記憶に刻み込まれた。一方でそこには、御父のみ名が、これからも使徒たちを守ってくださるようにと願ったイエスの祈りがあった(ヨハネ17:11~19参照)。 

イエスは、使徒たちに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13~14)と言い、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)と続けた。そして、御父に、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17:19)と祈ったのである。 

「真理」とは、イエスご自身である(ヨハネ14:6参照)。真理であるイエスが、ご自身をささげたのは、十字架上であった。ゆえに、司祭の祈りに応えてキリストのからだとなったご聖体を、司祭が、信徒と共に囲む祭壇の上に持ち上げる時、まさに、ご聖体を支える司祭の身体が、イエスのからだを支える十字架となって、イエスに釘づけにされ、共にささげられた者になるのである。こうして、「彼らも、真理によってささげられた者となるためです」というイエスの祈りが実現する。 

イエスが「友のために自分の命を捨てる」と言った友とは、司祭職を担うことになる使徒たちである。それは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)と言った使徒たちを、一人も失わないためのイエスの決意だったのである(ヨハネ18:9参照) 

Maria K. M.





 2024/07/22


153. ヨハネの黙示録の内に現れたご聖体の秘儀

前回、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第4の預言、「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(12~16章)の中の、天と荒れ野に隠されたご聖体と司祭職についての考察を振り返った。これをもとに現在の考察を先に進める。 

第4の預言で天に隠されたご聖体は、第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落で姿を現す。「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」(黙示録20:11)の句で始まるこの段落では、「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」がご聖体をイメージさせ、ご聖体によって悪霊が救われる様子が描写される(20:12~15参照)。そして、「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(20:14~15)で終わる。この構造によって、太字で示した箇所が決め手となって、第7の預言、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落も、次のようにご聖体について続けて描写されていることが分かる(21:1~8参照)。 

「聖霊の霊性の預言」の初めの段落は、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行きもはや海もなくなった」(21:1)で始まる。次に、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(21:2)という句が続くことから、これが第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)に関わることだと分かる。「夫のために着飾った花嫁」が、イエスの最期の食卓、すなわち祭壇を表しているからである(本ブログ№149参照)。ゆえに、この段落で著者が聞いた「玉座から語りかける声」(21:3)も、「玉座に座っておられる方」(21:5)の声もご聖体からのものである。聖霊による、いわば第二の受肉の神秘であるご聖体が、イエス・キリストが成し遂げたすべてを継続し、保っている様子が語られているのだ(21:3~7参照)。そして、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者・・・このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)で終わる。 

完全に神であり、完全に人として現存したイエス・キリストは、この世で人の身体を取って生きている間、ただ追い出すだけで救うことをしなかった悪霊たちを、死んで陰府に降って救った本ブログ№147参照)。ご聖体は、それと同じ仕方で、すなわち信者に食べられて死ぬことによって、今も悪霊たちを救っている(20:12~15参照)。さらにご聖体は、イエスが人々と共におられたように、神が私たちと共におられること、そしてそこに神の国があることを実感させる(21:3~4参照)。 

イエス・キリストが成し遂げたすべてを私たちに悟らせる聖霊は、ご聖体を拝領する信者たちの中で、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言ったイエスの言葉を実現し、いわば第三の受肉の神秘を具体的に体験させる。そしてそのことによって、第三の受肉の神秘の状態を再現することのできる聖霊の霊性へと彼らを導く(黙示録 21:5~6参照)。聖霊の霊性の中で、神を天の父と呼ぶキリスト者は、同時に神であるイエスの子となる(21:7参照)。こうして、キリスト者がイエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって世の中で協働する姿は、世にイエス・キリストの姿をもたらすのである。 

だから、終わりに、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)と書かれている警告は、「不信仰な者」という言葉が示すように、私たちキリスト者に向かっている。 

昇天するイエスから、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1:8)と言われていた使徒たちのように、聖霊を受けたキリスト者であっても、受けた力を信じないで、おくびょうな者、不信仰な者となって、次々と不義を重ねていけば、第二の死を免れないのである。 

こうして、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落と共に、第4の預言で天に隠されたご聖体の秘儀を明らかにしている。同じく荒れ野に隠された司祭職の秘儀については次回以降に考察する。

Maria K. M.




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