イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/05/05


194. 黙示録と新約聖書

黙示録は、その内容を人に暗黙知として記憶させるために、直観的に捉えにくく、理解できないように構成されている。ヨハネ福音記者が、福音書の最後に、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハ21:25)と書いているように、人がイエス・キリストの世界観、すなわち、完全に神であり、人でもあったイエス・キリストの記憶を、意識的に持つことは不可能だからだ。 

黙示録の第1章に、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)と書かれたのは、いわば黙示録が指南書であることを告げているのである。そこで、七つの教会の天使に宛てた手紙には、必ず「耳ある者は、が諸教会に告げることを聞くがよい」という勧めの言葉が添えられている。「この預言の言葉を朗読する人」は「“霊”が諸教会に告げること」を声に出し、自身の記憶に流し込むのだ。この訓練を、人は一朝一夕で仕上げることはできない。自分に合った量を、それがたとえ一句ずつでも、来る日も来る日も続けて声に出して朗読し、それを聞くことを、全生涯をかけて続けるのである。たとえ視聴覚や発声に障害があっても、何とか工夫して五感から記憶に注ぎ入れることをするに値する途方もない価値が、黙示録にはある。 

聖霊は、イエスが父のもとから私たちに遣わした弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊である。イエスについて証しするために来た聖霊は、私たちキリスト者にも証しすることを求める(ヨハ15:26~27参照)。そのためには、私たちにも、初めからイエスと一緒にいた使徒たちがイエスと共有した世界観が必要である。それは、完全に神であり、人でもあったイエス・キリストの世界観である。この必要に、黙示録は応える。黙示録を五感から記憶に注ぐことによって、イエス・キリストの世界観を暗黙のうちに疑似体験する。だからこの訓練には、人の想像を超える崇高な光景も、また、おどろおどろしい光景も設定されている。黙示録は、このような意図をもって新約聖書に置かれている。 

黙示録の構成は次のようである。第1章は、私たち教会と共にいるイエス・キリストについて預言的に書かれている。次に七つの教会の天使に宛てた手紙では、教会共同体が抱えた問題とその解決が預言されている(2~3章)。その解決は、新約聖書の成立の預言(4~11章)によって示される。しかし、司祭職とご聖体の秘儀は、荒れ野と天に隠され明らかにならない。そこに教会がたどる運命の預言(12~16章)が起こり、歴史の流れに翻弄された教会の堕落の預言(17~18章)が続く。それは、教会が抱え、隠されていたさまざまな問題が暴露されることによって、その闇に光が当る預言である。その先にはミサ典礼の完成の預言(19~20章)があって、それは、真理に向かう希望となる。しかし、同時に厳しい裁きの預言が入っていのは、神に造られたすべての人が、神の命と神の愛を悟らせる「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の只中に入るためである。 

このように、黙示録は、7つの預言によって構成されている。その中で、最も驚くべきことは、1世紀に書かれた黙示録が、4世紀に成立した新約聖書を預言していることである。それも、現在私たちが手にしている聖書の順に預言しているのだ。まず天に玉座があって、座っている方がいる(黙4:1~6参照)。そこにはすでに四つの福音書のイメージが、「四つの生き物」で暗示され、それらがすでに天にあることが示唆されている(4:7~11参照)。黙示録の筆者は、玉座に座っている方の右の手に、七つの封印で封じられている巻物を見る。そして、「屠られたような小羊」、すなわちイエスの名によって遣わされた聖霊がこの封印を解いて巻物、すなわち新約聖書を開くのである(5:1~14参照)。 

7つの封印が次々解かれると、そこには、四つの福音書(黙6:1~8参照)、使徒言行録6:9~11参照)、パウロの書簡(6:12~17参照)がこの順に預言的な言葉で紹介される。最後の封印が解かれると黙示録が紹介され、その中で公同書簡も言及される(8~11章参照)。それらは、直観的に捉えにくく、理解できないように構成されているが、これまでに検証した七つの教会の天使に宛てた手紙に見られたように、その記述内容と、それに関連付けられ、ここで証しされようとしている新約聖書の内容が、コインの裏表のように同時に存在しながら物語が進んでいく。黙示録の特徴的な技法で書かれているのだ。 

次回から、各封印が解かれた時の記述と、それらに関連する新約聖書の内容をまとめながら、ヨハネの黙示録が、イエス・キリストの世界観を暗黙のうちに疑似体験させる可能性を考察していきたい。 

Maria K. M.


 2025/04/28

193. 聖霊降臨と黙示録

これまでの6回に渡る考察から、黙示録の2章から3章に書かれた7つの教会の天使たちは、ヨハネ福音書のティベリアス湖畔で復活したイエスと出会った7人の弟子たちに当てはまることが分かった。そもそもこの考察を始める発端になったのは、アッシジの聖フランシスコを回心に導いたと言われるサン・ダミアーノの十字架像であった。そこに描かれている構図が、ヨハネの福音書と黙示録のテーマをもっていたこと、また、中心に描かれているキリスト像が「復活したイエス」を表現しているとみられることから、聖フランシスコに関連する資料と合わせて、ヨハネ福音書における復活したイエスが現れた場面を検証していった。

その結果、ヨハネ福音書の復活したイエスとの最後の場面で、使徒ペトロの質問に答えたイエスの言葉を、ヨハネ福音記者が、「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」(ヨハ21:23)と、意味深長な言い回しで解説していることに注目した。ここで、ヨハネが「彼は死なないと言われたのではない」と強調していることから、ヨハネの意図を解く鍵が、「わたしの来るときまで」にあることが示唆されていることが分かった。

黙示録では数字が重要な意味を持つ。そこで、復活したイエスと出会った7人の弟子を念頭に黙示録を開くと、まず目に留まるのは「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」(黙1:4-5)という言葉である。そして、2番目のスミルナの教会への手紙を除く6つの手紙で、ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の言葉にある「わたしの来るときまで」がテーマとなっており、しかもそれらの手紙が時系列に並んでいることが分かった。エフェソ、ベルガモン、ティアティラ、サルディスにある教会への手紙では未来の予告、フィラデルフィアにある教会では、「わたしは、すぐに来る」(3:11)と近未来、そして、ラオディキアにある教会では、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(3:20)と現在形で書かれていた。 

ただし、2番目の手紙、トマスに当たったスミルナにある教会への手紙には、このテーマが除外されていた。それは、イエスの復活を頑なに信じないトマスのために、イエスが再来したことが考慮されていたと思われる(ヨハ20:24~29参照)。このように黙示録は、その記述内容と、それに関連付けられた福音書の内容が、コインの裏表のように同時に存在しながら物語が進んでいく。人が直観的に捉えにくく、理解できないように構成されているのだ。 

イエスは、人々に教えを語るとき、悟りなくしては人に理解されない真理を、たとえによって伝えた。そして、弟子たちにはその意味を解き明かしていた。しかし一方で、御父の御心を成し遂げるイエスご自身については、「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」(ルカ18:34)と書かれている。イエスの両親も同じ体験をした(2:50参照)。この体験は、彼らに、聖霊が降臨した時を(使2:2参照)、聖霊に触れられた瞬間を(2:3参照)、それによってすべてを理解した時を、そのコントラストによって鮮やかに認識させた。彼らは聖霊を知ったのである。 

黙示録が、人が直観的に捉えにくく、理解できないように構成されているという現実は、これを朗読し、聞いて記憶に収める「黙示録の訓練」を実践する私たちを、イエスと共にいた弟子たちや、彼の両親と同じ体験に与るという幸いに導く(黙1:3参照)。「黙示録の訓練」から、「理解できない」という体験を日々積むことによって、聖霊が私たちを導いて、新約聖書を思い起こさせるとき(ヨハ16:12~15参照)、その体験のコントラストから、私たちは、聖霊の働く時、聖霊に触れられた瞬間を捉えるようになっていく。聖霊を知るようになるのである。 

Maria K. M.


 2025/04/21


192. 7人の弟子と7つの手紙(第7の手紙)

前回考察したように、ティベリアス湖畔で漁をしていて復活したイエスと出会った7人の弟子たちの内、「ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)という言葉に当てはまる一人は、ペトロの兄弟アンデレであった。続けてもう一人の弟子、すなわち黙示録の第7の手紙の「ラオディキアにある教会の天使」に当たる弟子について考察する。 

ここで、ヨハネ福音書の中で名前が挙がっている男性の弟子たちを見ると、ペトロ、アンドレ、フィリポ、ナタナエル、トマス、イスカリオテのユダ、(もう一人の)ユダである。この6人の弟子たちの中で、ティベリアス湖畔の「7人の弟子」としてすでに名前が挙がっている者たちを除くと、フィリポ、イスカリオテのユダ、(もう一人の)ユダとなる。そこで、ヨハネ福音記者が、フィリポが、アンデレとペトロの町、「ベトサイダの出身であった」ことを強調していることを考えると(ヨハ1:44,12:21参照)、この弟子はフィリポだと言える。 

フィリポは、ナタナエルと出会い、すぐに彼をイエスに導いた(ヨハ1:45~46参照)。この時、フィリポがナタナエルに言った「来て、見なさい」(1:46)という言葉は、洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレともう一人が付いて来るのを見たイエスが言った言葉、「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)と同義である。漁師であった彼は、他の仲間と同じく直観的な人物であった。彼は自分の直観に自信を持っていたに違いない。しかしその姿勢は、時にその背後にある物事の本質を捉える感覚を鈍くする。フィリポはその後、イエスと共にいて、水をぶどう酒に変えたしるし(2:1~11参照)、役人の子をいやしたしるし(4:43~54参照)、病人をいやしたしるし(5:1~9参照)を体験し、それに伴うイエスの教えを見聞きしたにもかかわらず、自分の傾向に気付かないでいた。 

福音書には、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(ヨハ6:5~6)とある。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)と答えた。しかしこの答えは、イエスが群衆のためにパンと魚を増やすしるしには、結びつかなかった。そこで、そのときイエスがしるしを行うきっかけを作ったアンデレの見事な答えを、フィリポは目の当たりにすることになった(6:9参照)。彼は、このとき自分の傾きに気付いたに違いない。そして、それを克服するようになったことが次の場面で分かる。 

イエスがエルサレムに登った時、何人かのギリシア人が来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハ12:21)と頼んだ。それは、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた」(12:17)とあるように、イエスの評判が弟子たちを超えて群衆によって遠方まで達したことを意味していた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ15:24)と語っていたイエスの宣教は終わりに来ていた。このギリシア人たちの申し出を最初に受けたのは、フィリポであったが、直接イエスに取り次ぐことはしなかった。「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した」(ヨハ12:22)と書かれている。 

そして、最期の食卓では、トマス、イスカリオテでない方のユダとともに、子供のようにイエスに質問し、イエスから多くの御言葉を引き出している(ヨハ14:5~24参照)。フィリポの成長のプロセスは、私たち信者のものでもある。ゆえに、黙示録の第7の手紙の主は、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」(黙3:14)と書かれ、これまでとは異なり、私たちが受け取りやすい方として表現されている。この方が、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15~16)と言われる言葉に、現代の私たち信者は返す言葉がない。その通りだからである。「なまぬるい」状態は、どのようにして起こるのか。 

誰もが、自己充足や自己実現のために、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」(黙3:17)といった感覚を持って行動する。それは同時に人を、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(3:17)状態に置く。自分の真の姿を自身に隠しているのだ。これが「なまぬるい」状態を生む。ゆえに手紙の主は次のように続ける。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(3:18)。さらに、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(3:19)と励ます。「わたしから買うがよい」とはどこで実現されるのか。どこで「叱ったり、鍛えたりする」のか。それはこれら7つの手紙を含む黙示録の訓練の場である。 

つづく

Maria K. M.


 2025/04/14


191. 7人の弟子と7つの手紙(第6の手紙)

これまで、黙示録の7つの教会の天使たちへの手紙を、ヨハネ福音書の、ティベリアス湖畔で漁をしていて復活したイエスと出会った7人の弟子たちに当てはめ、その妥当性を検証してきた。ヨハネ福音書には、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれており、この順で行くと第6の手紙は「ほかの二人の弟子」の一人ということになる。 

黙示録の第6の手紙は次のように始まる。「フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(黙3:7)。この言葉は、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:19)という、かつてイエスがペトロに言った言葉を彷彿させる。 

続いて、「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(黙3:8)とあるのは、イエスがペトロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(ヨハ13:38)と言った言葉を思い出させる。これらのことから、第6の手紙の宛名「フィラデルフィアにある教会の天使」は、ペトロの兄弟であり、ペトロを最初にイエスに引き合わせたアンデレであると推定できる。彼も漁師であった。 

手紙は続けて、「見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」(黙3:9~11)と書き、「勝利を得る者」への報いをもって終わっている。「フィラデルフィアにある教会の天使」は、「イゼベル」が出現した第4の手紙、ヤコブと想定される「ティアティラにある教会の天使」とともに、他の天使たちのような厳しい忠告を受けていない。アンデレもヤコブも優秀な弟子だったに違いない。それは、彼らがイエスと出会う前に洗礼者ヨハネの弟子だったからではないだろうか。 

ヨハネ福音書によると初めにイエスに従ったのは、洗礼者ヨハネの二人の弟子たちであり、そのうちの一人は、「シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」(ヨハ1:40)と書かれている。もう一人は上記の理由からゼベダイの子ヤコブだと思われる。それゆえ、その時のいきさつをヨハネ福音記者は詳しく記載することができた。「(洗礼者)ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(1:35~37)とある。二人は師である洗礼者ヨハネからイエスについて、「世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)、「私よりも先におられた」(1:30)、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」(1:33)、「この方こそ神の子である」(1:34)という知識を得ていたのである。 

その後の二人の行動には目を見張るものがあった。彼らが従ってくるのを見たイエスが「何を求めているのか」と問うた言葉に、「ラビ-『先生』という意味-どこに泊まっておられるのですか」(ヨハ1:38)と問い返して、イエスから「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)という言葉を引き出している。そして勧められるままにイエスについて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。さらに夕刻であったので、その日はイエスのもとに泊まった。彼らの行動は直観的で迷いがない。その後、アンデレはペトロに会いに行き、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」(1:41)と言って、彼をイエスのところに連れて行っている。彼は非常に読みが深く、的確に行動する人物であった。 

アンデレのこの特性はイエスの弟子になってからも変わらなかった。大勢の群衆がイエスの方へ来るのを見たイエスが、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6:5)と言ったとき、イエスが何をしようとしているかを直観的に察し、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」6:9と答えて、イエスがしるしを行うきっかけを作った(6:10~13参照)。 

このように、いつもイエスの意図に的確に従う堅実な彼は、イエスの信任が厚く、弟子たちの中から、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて出るときも、後を任せることができたのだろう。やがて、他の弟子たちも彼を頼みにするようになった。エルサレムで何人かのギリシア人がイエスに面会を求めたとき、初めに受けたフィリポは、行ってアンデレに話してからイエスにつないでいるところからも、それがうかがえる(ヨハ12:20~22参照)。 

アンデレは、次の約束に相応しい者であった。「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(黙3:12)。 

つづく

Maria K. M.


 2025/04/07


190. 7人の弟子と7つの手紙(第5の手紙)

前回考察したように、黙示録の第4の手紙の宛名である「ティアティラにある教会の天使」は、ゼベダイの子ヤコブであった。そこで、第5の手紙の「サルディスにある教会の天使」は、同じくゼベダイの子のヨハネに当たる。ヨハネは、使徒ペトロとともに活発に宣教活動をしていたことが、使徒言行録に記されている。しかし、ペトロとサマリアで福音を告げ知らせたことを報じた後、ヨハネの消息を記していない(使8:25参照)。その後、フィリポの活躍、パウロの回心、そして、引き続きペトロは独自の宣教活動を続けている中で、ヨハネはどのように生きていたのだろうか。兄弟ヤコブの共同体を助けていたのかもしれない。 

そうであれば、ヤコブが剣で殺されたとき、そこに居合わせただろうヨハネは(使12:1~2参照)、この悲劇が、かつてイエスが「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」(マコ10:39)と予告したことが実現したのだと思ったに違いない。「イゼベル」の出現によってヤコブは裏切りの杯を飲んだ(黙2:20~25参照)。彼は人々の前で惨殺され、彼の共同体は散らされた。ヨハネはこのとき、自分について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハ21:21)と尋ねたペトロに、復活したイエスが、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」(21:22)と言った言葉を思い出しただろう。 

「サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる』」(黙3:1)で始まる黙示録の第5の手紙は、第1の手紙の「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(2:1)と似せて描かれている。第1の手紙の宛名の天使は使徒ペトロであった。このことは、この手紙を受け取る天使であるゼベダイの子ヨハネが、使徒ペトロのように、イエスから特別な召命を与えられていたことを示唆している。しかし、続く手紙の内容は、ヨハネが、兄弟ヤコブが剣で殺され、彼の共同体が散らされたことに衝撃を受け、うちのめされたことをうかがわせる。ヨハネも深手を負ったに違いない。 

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」(黙3:1~2)。ここには、生き残ったヨハネの体験もまた、兄弟ヤコブと同じく、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言ったイエスの言葉の実現であり、神は、ヨハネがヤコブとはまた別の仕方でキリストの道を全うするよう計画していたことが暗示されている。 

「だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」(黙3:3)と励ましているのは、ヨハネが福音書の執筆に向かうことを示唆しているのである。イエスの名によって遣わされた聖霊の引き出す言葉こそは、ヨハネにとって命であり、暗闇の中で輝く光であった(ヨハ1:4~5参照)。その言葉の内にイエスキリストの世界観がある。それを表現できるのは、イエスの愛しておられた弟子、使徒ヨハネをおいて他にはいないのである。 

続いて、「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」(黙3:3)と記して、やがてヨハネが、に満たされ、ラッパのように響く大声を聞くまでになることを予告している(1:9~10参照)。その体験が黙示録を書かせたのである。 

そして、「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである」(黙3:4)と書かれている言葉は、ヤコブと、彼と共に殺された者たちについて祈るヨハネに答えを与えている。この手紙の主は最後に次のように約束している。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3:5)。「白い衣」と「命の書」のテーマは、永遠の命に導く神の現実を表す黙示録の重大なテーマとなる。 

つづく

Maria K. M.


 2025/03/31


189. 7人の弟子と7つの手紙(第4の手紙)


これまで、ヨハネ福音書のティベリアス湖畔での大漁の場面で、復活したイエスと出会った7人の弟子たちと、黙示録の7つの教会の天使への手紙との間には、相関があるのではないかと考え、ヨハネ福音書に書かれた順に弟子たちを7つの教会の天使に当てはめ、検証を進めてきた。7人の弟子たちは、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれている。そこで、第4と第5の手紙は(黙2:18~3:6参照)、「ゼベダイの子たち」に当たる。今回は第4の手紙、「ティアティラにある教会の天使」に宛てた手紙について考察する。

手紙の初めに、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる」(黙2:18)と、この手紙の送り主の姿が描写されている。この描写は、黙示録の著者ヨハネが、主の日に“霊”に満たされて聞いた声の主の描写の一部、「目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き・・」(1:14~15)と酷似している。この手掛かりは、著者ヨハネに語りかけた声の主が「神の子」であることを示すと同時に、第4の手紙の「ティアティラにある教会の天使」が、著者ヨハネに似た者であることを示唆している。それは、ヤコブである。 

ヤコブは、イエスが重要な場面でペトロとヨハネと共にいつも伴っていた特別な弟子の一人だった。そこで、「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」(黙2:19)と書かれている。その一方でイエスは、ヤコブとその兄弟ヨハネに「雷の子ら」(マコ3:17)という名を付けた。実際、彼らには強気に先走りする傾向があって、イエスにたしなめられている(マコ9:38,ルカ9:49,54参照)。その上、彼らは野心家でもあった(マコ10:35~41参照)。彼らは実によく似ていたのである。 

手紙で「神の子」は次のように指摘している。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(黙2:20)。ここでは列王記に登場するイスラエルの王アハブの妻イゼベルが引き合いに出されている(王上16:31~21:25,王下9:7~37参照)。この指摘は、教会共同体において、司祭が、アハブ王のように、自分の身近で重宝する女性を重用するなら起こるに違いない悲劇を示唆している。 

教会共同体には初めから多くの女性たちが奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。司祭がその一人のすることを「大目に見ている」と、共同体のさまざまな思惑が彼女に向かい、彼女が相応の能力を備えていれば、司祭と彼の共同体の間に「イゼベル」が出現する。「自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え」とあるように、司祭の後ろ盾を得た彼女は、信徒に向かって権威ある者として振舞い、自分の仕方で彼らを教える。「また惑わして、みだらなことをさせ」とは、その態度と相応の能力で人を惑わし、自分の言うことを聞くようにさせること。そして、「偶像に献げた肉を食べさせている」とあるのは、彼女の言うことを聞く信徒たちが、信仰の純粋さを損なう彼女の行為に慣れ、平然とそれを受け入れるようになることである。 

手紙には「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない」(黙2:21)と続く。彼女は、「この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らない」(2:24)人々を見つけると、列王記のイゼベルのように彼らに制裁を加える。信徒の中にはそのような共同体から逃げ出す者もいる。司祭が、彼の共同体に何が起こっているのかに気付くには時間がかかる。使徒言行録に、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(使12:1~2)とある。ヤコブは、このような状況の中で、虚を突かれたに違いない。 

人の思いや判断を見通す「神の子」は、人が行ったことに応じて一人一人に報いる。そして、「この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らない」人々に対して、「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」(黙2:24~25)と励ましている。信者にとって真の権威は、「神の子」が与える「明けの明星」(2:28)であり、それはイエスご自身である(22:16参照)。 

つづく

Maria K. M.

 


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