イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/09/22



214. 「カトリック教会のカテキズム」№1386


このブログでは、これまでかなり長い時間をかけて、マタイとルカ福音書にある百人隊長のエピソードを注意深く観察し、考察してきた。イエスに僕(部下)の癒しを願う百人隊長の言葉が、世界中のミサ典礼において、司祭が掲げるご聖体を前にして、司祭と会衆が共に聖体拝領の招きに答えるという重要な場面で使われる言葉である、という観点から、このエピソードを見直す必要があると考えたからだ。上記両福音書ともに、百人隊長は二つの場面に登場する。イエスに僕(部下)の癒しを願う場面と、イエスの十字架のそばに立ってイエスへの信仰を吐露する場面である。後者の場面は、マルコ福音書も記載している。これらの場面に登場する百人隊長が同一人物かどうかは別にしても、百人隊長の言葉には、信仰における二つのステージを見ることができる。

初めの、イエスに僕(部下)の癒しを願う場面では、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハ6:44)とイエスが言った通り、百人隊長は、御父の引き寄せる力によって、イエスのもとへ来ることができた。そして、その信仰によってイエスに病気の僕(部下)を癒していただいた。第1のステージである。一方、イエスが十字架にかけられた場面では、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マコ15:39)と書かれている。ここでの百人隊長の言葉は、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)というイエスの言葉の実現となっている。第2のステージである。

「カトリック教会のカテキズム」(1997年規範版)の№1386には、「この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にはありません。『主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます』」と書かれている。 しかし、この百人隊長の言葉は、御父に引き寄せられてイエスのそばに来た第1のステージのものである。「わたしは地上から上げられるとき・・」と言ったイエスの言葉によって引き寄せられ、イエスのそばに来た私たちキリスト者とはステージが異なっている。私たち信者は、地上から上げられたイエス、すなわち十字架上のイエスに引き寄せられたのだ。

「カトリック教会のカテキズム」は、これに続いて、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼での祈りの言葉を紹介している。それは、イエスと共に十字架にかけられた盗賊の、「主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」という叫びを含んでいる。この叫びは、いわば、十字架上のイエスに引き寄せられた最初の人の叫びだということができる。

聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼は、確かに十字架上のイエスに向かう応答を含んでいるが、この場面は、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述にある、百人隊長の場面に行き着くことはない。そこには、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)という百人隊長の姿が描かれている。そして、この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。百人隊長のエピソードが伝える信仰の軌跡には、私たち信者が目指す教会の発展が映し出されている。

同じカテキズムの№1382に、「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主の体と血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです」と書かれているように、私たち信者は、ご聖体という、「この秘跡の偉大さを前にして」する応答に、「本当に、この人は神の子だった」という十字架上のイエスに向かう百人隊長の第2ステージの言葉を応用すべきではないだろうか。

「ローマ・ミサ典礼書」による司祭の聖体拝領への招きの言葉は、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」である。「世の罪を取り除く神の小羊」は、洗礼者ヨハネが自分の方へ来るイエスを見て言った言葉だ。ゆえに「神の小羊の食卓」は、イエスの最期の食卓である。ミサの中で、この時私たちは、司祭が掲げたご聖体に、十字架の上に上げられたイエスを確かに見ているのだ。

Maria K. M.

 2025/09/16



213. 完全なキリスト者の体験を味わう過程とそこで得られる実感


前回の考察を振り返ると、マタイとルカ福音書にある百人隊長の言葉は、ローマについての神の計画を知る由もないこの時の百人隊長が、イエスを信じた自分と、ローマの兵隊としての立場との折り合いをつけた言葉であったと言える。彼は、イエスに「従っていた人々」(マタ8:10)や、イエスと長老たちに付いて来ていた「群衆」(ルカ7:9参照)に、家まで来てほしくなかったのである。しかし、百人隊長は、十字架上のイエスが息を引き取った時には、その出来事を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と実感するところまできていた。

さらに、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述には、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)と書かれた百人隊長の姿がある。この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。ここに描かれた百人隊長の一連のエピソードには、完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを見ることができる。イエスを五感で捉えた者の恵みの力である。

このような百人隊長の信仰の成長を、黙示録の前半で辿ることができる。黙示録の1~3章には、百人隊長が、イエスを信じた自分と自分の立場との折り合いをつけたように、手紙というかたちをとって、自分自身と教会の現状との折り合いをつけながら宣教して行こうとする7つの教会の天使たちを描いている。続く4章から始まる新約聖書成立の預言は、百人隊長がイエスの十字架のそばに立ったように、この書を読むすべての人を、イエスの十字架のそばに連れて来るのである。

さらに、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と書かれた百人隊長の姿にあやかるのは、ミサ典礼の場である。黙示録の霊的訓練のルーティンは、ミサ典礼のルーティンと密接に重なるように意図されており、ミサ典礼から出て、次に入るまでの信者の日常の記憶を支え準備する。ミサ典礼の中で信者は、ご聖体と対面する。ここで、ご聖体がイエス・キリストであることを告白し、拝領することによって、「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長と同じ実感を得る。このルーティンを行くことこそが、完全なキリスト者の体験を味わう過程であり、黙示録の霊的訓練の過程なのである。

百人隊長と使徒ペトロとの関りから、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれたように、宣教を支える黙示録の霊的訓練が後半に向かうと、訓練者は、自身の記憶に入った啓示の言葉と「人間の情報」を区別しながら、自分自身を知っていく工程に進む。黙示録の霊的訓練のルーティンを何度も繰り返すうちに、少しずつ明らかになっていく自分の姿を認めることによって、自分の周囲の見え方も変わって来る。ここから宣教に向かうきっかけが生まれる。さらに「人間の情報」に敏感になって、その働きが見えるようになってくると、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)と証ししたイエスの言葉を悟り、聖霊と協働する機会に恵まれるようになる。

御父と御子は、新しい預言が、未来の私たち信者の上に実証されるのを待っている。イエスの名によって遣わされた聖霊は、そのために、すべての信者たちが完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを与えるために、黙示録を含む新約聖書とミサ典礼を準備した。ゆえに、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハ6:39)と言ったイエスの言葉は、どこまでも弱さが残る多くの信者たちのものである。続けて、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った言葉は、人類の希望である。

Maria K. M.

 2025/09/08

212. 完全なキリスト者の体験を味わう過程を知る手掛かり

イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(ヨハ6:40)である。前回考察したように、「子を見て信じる者」になるには、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になること以外にはない。ご聖体に向かって、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言することを、ミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人の記憶に、「子を見て信じる者」となった事実が焼き付いていく。しかしこの重要な場面で、私たち教会は、世界中が百人隊長の信仰を宣言してきた。このテーマは、これから、黙示録がどのようにして完全なキリスト者の体験を味わわせるのか、その過程を考察するにあたって、重要な課題を含んでいるので、もう一度別の角度から考察してから先に進むことにする。 

ヨハネ福音書は、イエスとピラトのやり取りを詳しく伝えている。その最期の時に、イエスがローマ総督ピラトと関わる場面を残すことによって、神が、ローマをキリスト者のものにするという狙いがあったことを印象付けようとしたと捉えると、すべてがはっきりとしてくる。イエスは、ヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と証しした。それは、結果的にローマだった。エルサレムが崩壊することを知っていた神は、新しい契約の上に、イエスが生み出し、聖霊が設立する教会のために、初めからローマに新しい都を計画していた。 

百人隊長のエピソードは、マタイ福音書とルカ福音書にある。僕の癒しを願ったルカ福音書の百人隊長は、イエスに家に来てほしくないという状況に遭遇した。イエスと長老たちに加えて「群衆」も付いて来ていたからだ(ルカ7:9参照)。そこで彼らが、「その家からほど遠からぬ所」(7:6)まで来たとき、百人隊長は、友人たちを送って、次のように言わせて、イエスの来訪を断った。マタイ福音書の場合は、イエスに付いて来たのは、「群衆」ではなく「従っていた人々」(マタ8:10)であったが、それでも百人隊長は、イエスの来訪を断っている。

 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(ルカ7:6~8)。 

神がローマに新しい都を計画していたことを念頭に置いてこの伝言を聞くと、百人隊長の言葉は、そのままローマ帝国の未来にあてはめることができる。イエスはこれを聞いて驚き、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言った。ローマの兵隊であった百人隊長が、預言者のように語ったからだ。「主よ、御足労には及びません・・」とあるように、ローマ帝国は、十字架上で亡くなったイエスを迎え入れることはない。しかし、イエスがローマ帝国の刑罰である十字架刑を受けたことは、ローマにイエスの名を刻印することになった。こうして、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」という言葉は実現した。御言葉は、パウロより先にローマに辿り着き、すでにその民に働きかけていた(ロマ1:6~7参照)。 

また、百人隊長の軍務体験から出た言葉は、一見平凡なものに見えるかもしれない。しかし、その言葉の裏には、当時のローマ帝国が持つ法律や軍事に関する、合理的なシステムがあった。そこに、神が十字架上で成し遂げた新しい契約を生きる教会のために、都をローマに求めた理由がある。神の子が地上に来たために起こる、人類の急速な進歩を受け止める器が、ローマ人の文化や伝統、気質にはあったのだ。今、歴史を経た私たちは、新約聖書の中に新しい預言があったことを知る。 

イエスの驚きの言葉は、百人隊長の僕に届き、僕は元気になっていた。イエスを信じる百人隊長の気持ちは、直観的で純粋であった。それはイエスが、「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」(ルカ4:27)と言って引用した、アラムの王の軍司令官ナアマンのようだ。彼が、妻の召使のイスラエルの少女から聞いて預言者エリシャを信じたように、百人隊長は、長老たちからイエスのことを聞いて信じたのだ。 

イエスが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(ヨハ6:44~45)と言った言葉は、旧約の預言が実現したことを証ししている。当時イエスが関わった人々は、御父の引き寄せる力によってイエスのもとに来ることができた人々であった。百人隊長もその一人であり、その信仰は、旧約の民の信仰の延長線上にあった。 

しかし、百人隊長は、その信仰に留まっていることはできなかった。後にイエスが、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)と証ししたように、十字架上のイエスに、その見張りを一緒にしていた人々と共に引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と言うことになったからだ。ルカ福音書では、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」(ルカ23:47)と書かれている。 

御父に引き寄せられてイエスのもとに来た百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。・・ひと言おっしゃってください」と言った。それは、旧約の民の預言に支えられた信仰であった。やがて、十字架上のイエスに引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」と言った言葉は、まさにイエスが今成し遂げたばかりの、新しい契約に向かっていた。さらに、聖霊が降臨した後の私たち信者は、ご聖体を前にして、「子を見て信じる者」の信仰を告白するのである。ここに、黙示録が完全なキリスト者の体験を味わわせる過程を知る手がかりがある。 

Maria K. M.

 

(お知らせ)

 今回の内容は、本ブログ執筆者が、インターネットマガジン「カトリック・あい」に投稿した内容と一部重複しています。 「パトモスの風


 2025/09/01



211. まず、世の誤りを明らかにしておくこと


前回話したように、「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)は、黙示録を霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、新約聖書の他の書と一体となって、聖霊の霊性にまで導き、完全なキリスト者となる体験を味わわせる。このことが、聖霊によってなされることから、その過程を考察する前に、まず、聖霊についてイエスが最後に証しした、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)という言葉を確認しておきたい。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とある。それは、イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(6:35~36)と言った言葉から明らかになる。この箇所でイエスが、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言った言葉は、未来の私たち信者にも向けられていることに気付かされる。

イエスは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った。そして、その仕方を次に具体的に語ると、ユダヤ人たちは混乱状態に陥った。しかしイエスは、さらに、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言って話を進めた。これを聞いていた弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)と言ったとある。彼らは、生きているイエスが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言ったのを聞いて、それを信じることができなかった。彼らは、「大変な思い違い」(マコ12:27)をしていたのだ。これが「世の誤り」である。

私たち信者は、パンとぶどう酒のかたちを取るご聖体を見て、「わたしが命のパンである」と言ったイエスの言葉を信じているだろうか。ご聖体が生きているイエスだと言えるだろうか。言えるのであれば、それをどこで証しするのだろうか。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊が、司祭の手を通してミサの中で明らかに示すご聖体を前にしてである。信者たちが、ご聖体を前にして、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言する場面がないなら、それは「世の誤り」に惑わされているからだ。

イエスは、ファリサイ派の人々に、「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(ヨハ8:17~18)と言った。ミサの中で教会全体がご聖体を「神の子、キリストです」と宣言することは、信者一人一人が御父と御子の証しに加わって、聖霊と協働して全世界を救うほどの業になる。ご聖体を前にした私たちが、もしそれを宣言しないでいるなら、イエスから「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言われ続けるだろう。それは罪について問われているのである。

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(ヨハ16:10)である。ヨハネ福音書を読むと、イエスが、「見る」という感覚の働きと「信じる」ことの関係に特別に注意を払っていたことが分かる。イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」(6:40)。「子を見て信じる者」となること、すなわち、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になることは、私たちが、ご聖体に向かって、ご聖体が「神の子、キリスト」であると宣言したとき実現する。この宣言をミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人が「子を見て信じる者」となったという認識を固めていくのである。

しかし、イエスを見ないで信じたにもかかわらず、御父のみ旨を完全に成し遂げたイエスのイメージが頭から離れず、ご聖体をよそに、そのイエスを知りたい、そのイエスを見たい、そのイエスと合一したいという思いに惑わされる者がいる。「世の誤り」からくるその思いは、義について「もはやわたしを見なくなること」と言ったイエスの言葉に反して、見たこともないはずのイエスの姿をその人に感じさせる。それは、その人自身の執拗な欲求と欲望が見せているものだ。これらの欲求や欲望は、人の最も高次の欲求と言われる自己実現の欲求から生じる。そしてそれは、一度達成されたと感じても終わりがなく、生涯にわたってそのプロセスを幾重にも編み出す。その都度あらゆる欲望を総動員して、「世の誤り」を認識せず、「大変な思い違いをしている」(マコ12:27)信者たちへ向かう。そして、彼らがこの自己実現の欲求を自分と同一視すれば、自己実現の欲求は、その人の支配者となる。

イエスは、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(ヨハ16:11)と証しした。自己実現の欲求に支配された信者たちに、それを知る機会を、黙示録の霊的訓練は与える。この訓練を続けるうちに、「鋭い両刃の剣を持っている方」(黙2:12)に、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通されて、自分の心の思いや考えを見分けることができるようになっていくのだ(ヘブ4:12参照)。やがて、自分のあるがままの姿を見る時がくる。イエスは、信者たちが、自身の自己実現の欲求を断罪する言葉を、生きている神の言葉であると気付いて受け取ることを切に願ったに違いない。それが可能となるために、イエスは、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。その弁護者こそが、「神の言葉は生きており、力を発揮」(ヘブ4:12)することを教え、悟らせる聖霊なのである。

聖霊に従って黙示録の霊的訓練を行うこと、それは言い換えれば聖霊と協働して訓練することである。人が聖霊と協働するとき、人は本来持っている可能性を発揮し、真に自分らしく生きることができる。聖霊の霊的訓練によって、やがて私たち信者は、自分がイエスに似たもの、神の似姿になるのを見ることになる。これこそが真の自己実現であり、ここにイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14:27)と約束した神の平和がある。

Maria K. M.

 2025/08/25


210. イエス・キリストの黙示と霊的訓練の書

聖霊が降臨した後、イエスを直接知る証人たちは、言葉や業によってイエスが証ししたことが、新しい預言となって実現していくのを目の当たりにした。イエスの名によって遣わされた聖霊は、彼らの体験の記憶を、イエスを見ないで信じる者たちに授けるために、新約聖書を成立させ、その中に黙示録を置いた。黙示録に「イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)とあるように、黙示録は、イエスの証ししたことが新しい預言として信者の記憶に注入される霊的訓練の書である。 

黙示録の記述は、新約聖書の他の書の内容を暗示し、それらの箇所とつながって、そこでイエスが証ししたことを、新しい預言として信者の記憶に入れる。そのうえで聖霊は、信者があらためて新約聖書の他の書を味わうとき、その人を教え導いて、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟らせる(ヨハ16:13参照)。このような黙示録の霊的訓練を継続的に行いながら、新約聖書の他の書を味わうことによって、信者の内に、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟るという循環が起こる。この循環が、イエスを直接知る証人たちが保持していた体験の記憶を、訓練者の内に創り、保持させる暗黙知となる。このことは、これまで検討してきたヘブライ人への手紙からも分かる。 

黙示録の筆者ヨハネは、初めに彼に語りかけた声の主を、「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙1:16)と描写した。また、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙にも、「鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる」(2:12)と書いている。この「鋭い両刃の剣」は、ヘブライ人への手紙の筆者も、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と書いた。黙示録の霊的訓練を繰り返し続ける信者は、ヘブライ人への手紙の筆者が書いたこと、すなわち、新約聖書の他の書に書かれたことが、イエスが証ししたこととして、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟る。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようと試みた。イエスは、最期の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに、新しい契約の司祭職を示した。イエスが司祭職を、ご聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、また、使徒たちがその職務を受け継いでいくことで、司祭職は、永遠の司祭職となっていく。このイエスの証しは、黙示録において新しい預言となって、実現していく。こうして黙示録の後半は、次のように始まる。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。 

図にあるように、黙示録は7つの預言によって構成されている。その後半は、「司祭職とご聖体の神秘が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」から始まる。黙示録の霊的訓練は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という言葉を信じて、自分の声で朗読し、朗読している自分の声に集中するようにするだけのことだ。しかし、毎日少しずつしかできないことが多い。それでも、たとえ1行でもやると決めて続けるうちに、この黙示録の習慣が「幸い」となる日が来る。「イエス・キリストの黙示」(1:1)として壮大な預言的構成を持つ黙示録は、それを霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、聖霊の霊性の預言(図第7の預言参照)まで導き、完全なキリスト者の体験を味わわせることができる。次回からその過程を考察する。 

Maria K. M.



 2025/08/18



209. ヘブライ人への手紙から黙示録へ

ヘブライ人への手紙は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようとする試みであった。それは、イエスが兄弟(姉妹)と呼ぶ信者たちが成長して、しまいにイエスから、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブ2:13)と言われるまでになるためであった。筆者が、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています・・・御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10:19~20)と書いた思いには、イエスが制定したご聖体の意味と、イエスの名によって遣わされた聖霊が働くミサ典礼のイメージが見える。また、彼の「天に登録されている長子たちの集会」(12:23)の描写には、天上の「集会」のイメージがある(12:22~24参照)。

このように、旧約聖書と深いつながりを持っているヘブライ人の信者たちを導くために、筆者は「集会」を拠り所とした。新約聖書のないこの時、彼には、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ13:7)と言うより他はなかったし、イエスの名がない旧約聖書に頼ることはできなかったのである。

一方、倫理的な問題を抱えた異邦人キリスト者の共同体に関わっていた使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙で、「酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェ5:18~19)と書いて、詩編にもとづいた霊的訓練を行うことを命じた(4:17~5:14参照)。また、コロサイの信徒への手紙にも、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロ3:16)と書いている。しかし旧約聖書の詩編には、「キリストの言葉」はもとより、イエスの名もない。しかも、イエスの再臨を待つキリスト者に、救い主を待つ旧約の人々のぶどう酒を飲ませれば、「だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』というのである」(ルカ5:39)と言ったイエスの言葉が現実になる。しかし、パウロにとって、他に頼るものは何もなかった。

イエスの公生活を共に過ごした使徒たちは、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇し、聖霊の降臨を体験した。しかし、彼らとは全く異なる時に神の選びを受けた使徒パウロは、イエスとの実体験がなかった。彼は、イエスが、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかった。これこそが、イエスの名によって遣わされた聖霊と関わるための重大な記憶になるのである。パウロはそのことを良く知っていた。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となって新約聖書の中で開花した。

やがて、パウロがコリントの信徒への手紙で伝えているように、イエスの復活の証人たちの中ですでに亡くなる人々が出てきていた(一コリ15:6参照)。彼らには、イエスとの実体験があった。その多くは、直接教えを受け、「わたしが話したこと」の記憶を持っていたであろう。聖霊は、イエスを直接知るこれらの証人たちが保持していた記憶を、未来の信者に特別な仕方で注入するために、新約聖書にヨハネの黙示録を加えた。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)とある黙示録は、聖霊が、これらの証人たちに等しい体験を、信者の記憶の奥に格納する霊的訓練の書である。

ヨハネの黙示録は、新約聖書の他の書と強く結びついて、イエスの名によって遣わされた聖霊のために、信者の内奥に重大な記憶を創る。ヘブライ人への手紙の筆者は、この未来を予見したかのように、次のように祈った。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」(ヘブ13:20~21)。

Maria K. M.

 2025/08/11



208. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題への解決と実り


ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40)。

ヘブライ人であったイエス・キリストに従うキリスト者の信仰において、旧約の歴史と切り離されることはない。しかし、ここで筆者は、信仰についての二つの在り方を示し、旧約の民の歴史に全く新しい時代が来たことを告げている。このために、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という定義は、「その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」という結果となった。一方、聖霊によってイエスの名を信じる人々は、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」という状態を受け取る。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」とはこのようなことであった。

旧約と新約の信仰の在り方についてのこれらの違いを、ヨハネ福音記者は、ガリラヤのカナでイエスが行った最初のしるしと二回目のしるしによって証ししている。聖霊によってイエスを身ごもった母は、夫ヨセフと共に、「その子をイエスと名付けなさい」(マタ1:21,ルカ1:31)という天使の言葉を信じた。その信仰によって、「この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないこと」を体験した。聖霊に満たされた彼女は、神がわたしたちのために計画してくださった、「更にまさったもの」を先取りし、完全な状態に達していたのである。それは、復活したイエスが「見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハ20:29)と言ったとおりである。

「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」(ヨハ2:1~3)。イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と答えた。イエスのこの言葉は、イエスが神の計画をもって地上に来たことを表している。イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母はそれを理解して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と言っておいた。彼女はイエスの言葉に応えたのである。こうして、母も、弟子たちも、そしてイエスの命令に従った召し使いたちも、イエスが水をぶどう酒に変える最初のしるしを行って、「その栄光を現された」(2:11)その時に遭遇したのである。ここに新約の信仰のモデルがある。

ガリラヤのカナで行われた二回目のしるしは、次のようであった。王の役人は、「イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである」(ヨハ4:47)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」とあるように、彼は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言ったのだ。イエスが子供を癒すというまだ見えない事柄を確認しようとした。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。彼はイエスの言葉を信じて帰って行った。そして、彼の子どもは癒されたのである。これが旧約の信仰のモデルである。

王の役人は、その信仰のゆえにイエスに認められながらも、「約束されたものを手に入れませんでした」。このような結果を受け取る人々は、今も世界中に数多くいる。その歴史を先に進ませるためには、私たちキリスト者が、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」という結論を理解して受け入れ、「完全な状態に」達する努力が必要だということだ。そこでヘブライ人への手紙の筆者は、続けて次のように信者たちを強く励ましている。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブ12:1~2)。

Maria K. M.

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