イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/10/12

269. ヨハネ福音書と新約の司祭職 使徒パウロの至福直観

前回の「区別と識別Ⅱ」では、ヨハネ福音書と黙示録が、「川」というたとえを使って、私たち信者が、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することによって、聖霊と協働する機会に恵まれ、至福直観と、多くの実りと癒しを得る幸いに与ることができることを考察した。そこでは人は、自己超越欲求が引き出され、その高揚感によって神のようになった感覚、あるいはキリストとの合一を体験した感覚に陥ることはない。ましてやそこにエクスタシーを見出すことはない。至福直観の至福とは、福音を観ることである。それは、聖霊が私たちの記憶から福音を引き出し、私たちの声がそれを語るとき直観される。私たちの語る声は、自分の感覚が捉えたものを証しするからである。 

イエスが、「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハ14:20)と言われた言葉を自分のものにするのは、聖霊と協働する機会を捉えた時である。それを容易にするのは、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することを助けるヨハネの黙示録の訓練を、日常的に実践することである。聖霊と協働するということは、イエスご自身が、「私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである」(14:10)と言われたことを、信者が体験するのであるから、訓練はどうしても必要である。それによって、聖霊と協働する自分を捉えて、「私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいる」と言われたイエスの言葉を共有することができる。 

パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、次のように主の幻と啓示について綴っている。「私は、キリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです」(二コリ12:2)。十四年前というのは、彼が回心した頃かもしれない。続けて同じ内容を繰り返していることから(12:3参照)、パウロはイエスの名によって遣わされた聖霊と協働する機会を捉えた時、その強烈な印象を受け取ったのである。そして、「その人は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです」(12:4)とある。「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」とは、新約聖書に記されることになる福音であった。それが未来を先取りした内容であったために、彼には分かっても言葉にできなかったのである。 

パウロは、聖霊と協働する機会を捉え、至福直観に与った。しかしここで問題なのは、「第三の天にまで引き上げられた」と、「その人は楽園にまで引き上げられ」と書いていることだ。彼はその時、あるいは、後で、その体験に何らかのエクスタシーが伴っていたことを見出したのである。彼はそれを隠さず告白している。当時のコリントの共同体が抱えていた厳しい状況に対する戦略があったからだ。パウロは自分のすべてをかけてその状況を乗り越えようとしていた。彼は、「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、私自身については、弱さ以外は誇るつもりはありません。もっとも、私が誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。しかし、誇るのはやめましょう。私について見たり、聞いたりする以上に、私を買いかぶる人がいるかもしれないからです」(二コリ12:5~6)と続けた。 

そして、「また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(二コリ12:7~8)と書いた。彼は、啓示を受けるたびにまとわりつくエクスタシーの感覚を、「棘」にたとえて冷静に受け止めている。そして主が、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(12:9)と言われたことを私たちに伝え、「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」(12:9~10)と励ましている。 

パウロには、至福直観の先に見えていたものがあった。それは、未来の信者たちが、完成されたミサ典礼の中で、キリストとの完全な合一の体験に与り、聖霊の特別な「識別」に導かれる姿である。パウロが次のように証ししたことから、新約聖書の成立によって、福音書にイエスの言葉が現れると、その言葉がすべての時を自由に現在化することを、彼が知っていたことが分かる。 

「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一コリ11:23~26)。 

Maria K. M.


 2026/10/05

268. ヨハネ福音書と新約の司祭職 区別と識別 Ⅱ

創世記で神が人を創造された時、人は、「我々のかたち」(創1:26)を現すために、権力や富、権威を付与された肉体の自発性が(本ブログ№252参照)、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」(同)を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。人は、「命の息」+「命の木」+「人間の知識」+「『我々のかたち』に創造された肉体」の型がセットアップされて初めて聖霊と協働することができる。創世記に、「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(2:19)と書かれているのは、人が初めて聖霊と協働した様子を描いたものである。 

その後、人が二人になったことによって、「人間の情報」が発現した。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」に、人は強く引き寄せられてしまう。善か悪かを判断することが、人の自己超越欲求を引き出し、その高揚感によって神になったような錯覚に陥るのだ。創世記で神が、「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」(創3:22)と言われて人を追放し、「命の木」に至る道を守られた理由がここにあった。自分の記憶に入って来た「人間の情報」を「区別」することなく取り込んで、自分の「人間の知識」にしてしまえば、「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」が、「命の木」を飛び越えて「命の息」とつながり、霊の領域が維持できなくなる。人は聖霊と協働する機会を失ったのだ。 

今の私たち信者は、イエス・キリストによって「命の木」に至る道を見出し、再び聖霊と協働する機会を授かった。私たちは、イエスが教えてくださった天の父の名を呼んで、聖霊と協働する望みを表明することができれば、その時、自分が「命の息」+「命の木」+「人間の知識」+「『我々のかたち』に創造された肉体」の型にセットアップされている。しかし、「人間の情報」を取り込み、それに満たされ乗っ取られてしまう危険は、常に待ち構えている。それを防ぐには、「人間の情報」を聖霊と協働したいと願う自分と「区別」しなければならない。そしてそのためには、それに特化した訓練が必要である。自分が持っていた聖霊と協働する望みを失ってはならないのである。信者は、聖霊と協働することによって、イエスの言葉を体感し、至福直観へと導かれ、イエス・キリストの似姿を現わすのである。 

ヨハネ福音書と黙示録は、「川」でそのことを表現して教えている。ヨハネ福音書については次の場面である。「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである」(ヨハ7:37~39)。イエスのこの言葉どおり、聖霊降臨後、聖霊は、信者一人一人とつながり、協働し(使2:3~4参照)、イエスの言葉を信者の記憶から引き出し、実現しようと、常に待ち構えておられる。私たちの自発性が、ご自分に向く時を待っておられるのである。 

一方黙示録は「川」について、「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす」(黙22:1~2)と表現した。これは、黙示録の最終章の言葉である。ここまで黙示録を日々朗読しその声を聞く訓練をしてきた者は、神がその僕たちに示すためキリストに与えた黙示録が、「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川」であることを悟っている。朗読する者の声によって流れ出たその預言の言葉が、それを聞く自身の記憶に入り、暗黙知となって、中に記されたことを守る者とする。こうして、聖霊がその預言の言葉を引き出す時に備えているのである。その人は、それが実際に起こる時、至福直観を体験し、多くの実りと癒しを得る。黙示録の訓練は、それを保証している(黙1:3、22:7参照)。 

このように聖霊は、イエスを信じた人々が聖霊を受け、聖霊と協働する幸いを得ることができるように、ヨハネの黙示録を新約聖書に加えられた。それは、私たち信者が、聖霊と協働したいと願う自分と「人間の情報」を「区別」することに特化した訓練のための預言の書である。ヨハネの黙示録の冒頭の次の言葉がそれを明らかに示している。 

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:1~3)。 

Maria K. M.

(お知らせ)インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 ➡ 「パトモスの風⑯」


 2026/09/28


267. ヨハネ福音書と新約の司祭職  契約

イスカリオテのユダは、「盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていた」(ヨハ12:6)。マタイ福音書はユダの最期について、「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった」(マタ27:3~5)と書いている。元徴税人であって、金銭の力を、身をもって知っていたマタイは、ユダの陥った状況をよく理解できたのである。しかしユダがなぜ最後に祭司長や長老たちを頼ったかについては、言及していない。 

そこは、私たち信者が、なぜミサ典礼の中の交わりの儀で、奇妙な言動をするのかという前回考察した理由に近い。ご聖体を前に、百人隊長の謙遜の言葉を唱えるのは、謙遜の徳を身につけ、キリストに相応しい者になるという、教会の高次の欲求の表れである。その理由は、キリストを花婿にたとえ、教会を、その花婿に相応しく成長する花嫁のイメージで捉えているからだ。この捉え方は、旧約の民が、神と民の契約関係を、人間にとって最も身近で強固な夫婦の契約にたとえたもので、私たち教会は、その表現を世襲し、発展させてきた。しかし全ての福音書が、イエスが人々に、「天におられるあなたがたの父」と言って語りかけている場面を記載している。さらにそのイエスが「私と父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われているのだから、キリストと教会の契約関係は、父と子の契約関係なのである。 

旧約の民が、神と民の契約関係を、夫婦の契約にたとえ、それが、イエスの時代に、民にとって旧約聖書に根付いた、よく知られた宗教的イメージだったとすれば、そこに父と子の契約関係をもたらそうとするイエスに対して、ユダヤ人たちが反感を抱いたのも当然である。金銭に捕らわれてイエスのもとに留まっていたユダさえも、最後には他のユダヤ人と同じような不信感を持って、祭司長や長老たちを頼り、その側に就いてイエスを裏切ることになったということが理解される。 

創世記6章のノアの契約についてみると、当時ギリシア文化が広い地域に伝播し、現地文化と融合し始めていた。人間的な家族関係を持っているギリシア神話の神々が伝わって来たのだ(創6:1~8参照)。大洪水の伝承は世界各地に残っていると言われる。ここでは、神が唯一の方であることを知らせ、その信仰を守ることが、箱舟のイメージで語られていると考えられる。ノアは、「私はあなたと契約を立てる」(6:18)と言われた神に守られ、唯一の神の信仰へと招かれた。彼は、「主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥の中から選んで、焼き尽くすいけにえとして祭壇の上で献げた」(8:20)。そこで神は、人と初めての契約を結んだ(9:1~17参照)。そこには、契約内容としるしが明示されている。旧い契約はこのようにその初めから、その内容が明らかに示され、しるしをもって証しされている。 

しかし、イエスが契約という言葉を使われたのは、彼の最期の食卓の席において、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:27~28)と言われた時だけであった。そこには、「私は命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた戒めである」(ヨハ10:17~18)と証しされたイエスの言葉をもってしても、私たちには理解することが難しい父と子の契約があった。 

イエスによって自分たちが授かった新しい契約の全貌が、明確につかめないままに、私たち教会は、神と民の契約関係を、夫婦の契約にたとえた旧約の民の表現を世襲しただけでなく、信者たちを養成するために、ミサのことばの典礼の初めに、まず旧約聖書を朗読し、詩編を唱和する。教会の祈りにも詩編を用いてきた。また、徳の道を説き、「ソロモンの雅歌」(雅1:1)も大いに参考にした。初め神の御心に適ったソロモンは、多くの女性たちを愛し、やがてその虜になったために、神に背き、従わなくなったことが、彼と民を滅びの悲劇へといざなっていった(王上11:1~13参照)。 

旧約聖書の中の雅歌の教えは、これを読む者がソロモンの轍を踏んで滅びの子とならないために、性愛を実際に体験せずとも、そのいざないが人の感覚にどのような刺激をもたらすか、さまざまな角度から伝えている。その最後は、金銭の力を身に受けて、ユダのように人間に頼り、神を裏切ることになるのである(雅8:11~14参照)。 

Maria K. M.


 2026/09/21


266. ヨハネ福音書と新約の司祭職 区別と識別 Ⅰ

私たち信者の多くは、自分たちがミサ典礼の中の交わりの儀でする奇妙な言動に気付いていないので、今も世界中でそれを続けている。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ったにもかかわらず、司祭が上げるご聖体を前にして、「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と宣言し、そうしておきながら、次にはご聖体を拝領しに出ていくのだ。信者たちがこの自分の言動の奇妙さに気付かない原因は、イエスが、「私が行って癒やしてあげよう」(マタ8:7)とご自身から言われたその言葉を断ってまでも見せた、百人隊長の人間的な謙遜を見習えば、イエスが褒めた信仰につながるという誤解と錯覚にある。しかし、イエスが褒めた百人隊長の信仰は、自分の兵士としての素朴な体験から、イエスの権威を信じたことにあった(8:9参照)。 

この誤解に満ちた錯覚は、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」(ルカ22:15)と言われたイエスの言葉が、ご聖体制定に向かっていたという現実を曖昧にする。そこには徳を身につければ、キリストに相応しい者になれるという高次の欲望が隠れている。その欲望を裏から支えているのは、世の罪を取り除く神の小羊の食卓で、花婿と肩を並べて立つ花嫁のイメージである。しかしイエスは、「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう」(マタ10:25)と言われた。イエスが弟子を導く道は、徳ではなく真理を身に付けることにある。真理が彼らをご聖体に向かわせる。 

弟子の多くが離れていった中でユダがイエスのもとにとどまった理由は、彼が金入れを預かっていたからだ(ヨハ12:6参照)。彼はやがてイエスの前で人に意見をするまでになる(12:5参照)。イエスと肩を並べて立つようになったと錯覚したのだ。錯覚は、人を聖霊が働くことのできない状態(悪魔の状態)に陥らせる。ヨハネ6章のパンを増やす場面で、イエスはご自分の方へ来る大勢の群衆を見て、フィリポに、「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」(6:5)と言われた。それはフィリポを試みるためであったと書かれているが、むしろユダのためだったと思う。その問いかけに、金入れを預かっていたユダは誰よりも敏感に反応したに違いないからだ。しかしユダはそれを表に出さなかった。そこで6章の最後にイエスは、「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」(6:70)と言わざるを得なかったのだ。 

パンを増やす場面に戻ると、イエスの問いかけにフィリポは、「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」(ヨハ6:7)と答えた。その向こうでアンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」(6:9)と言った。アンデレの眼差しは、イエスの「パンを買って来て」という言葉を超えて、その先にあるイエスの現実に向けられ、彼の言葉は、イエスのしるしに結び付いていった。 

アンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、この師がイエスに従うように促した二人の内の一人であった。師に機会を与えられたこの二人が従って来るのを見たイエスは、「何を求めているのか」(ヨハ1:38)と言われた。彼らは、その時夕方であったので、「どこに泊まっておられるのですか」(1:38)と尋ねた。イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)と言われた。彼らは、その日はイエスのもとに泊まった。心を合わせてイエスに従っていこうとする彼らが、瞬時に「識別」してイエスに答え、この流れをつかんだのは、聖霊が働かれたからだ。 

その翌日イエスは、フィリポに出会って、「私に従いなさい」(ヨハ1:43)と言われた。その後、フィリポはナタナエルに出会うと、「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(1:45)と言った。しかし、ナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出ようか」(1:46)と言い返した。この言葉に、フィリポは、「来て、見なさい」(同)と返した。彼は無心に、ナタナエルが言った情報を、イエスと出会った自分の知識と「区別」していた。そして彼の口から出て来た言葉は、洗礼者ヨハネの弟子であった二人に、イエスが返した言葉と同じであった。フィリポはこのとき聖霊と協働したのである。 

本ブログ№264で考察したように、創世記は、天地、森羅万象を創造された方を「神」と呼び(創1:1~2:3参照)、聖霊が人と協働できるように人に霊の領域を形づくり、霊を授けた方を「神である主」と呼んだ(2:4~25参照)。創世記2章に、「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(2:19)と書かれている。神である父と一つであるイエスは、人であっても聖霊が降ったことによって、三位一体の神の働きを現される。イエスはまだ栄光を受けておられなかったが(ヨハ7:39参照)、「神である主」となって、弟子たちに聖霊と協働して事を成す体験をさせることができたのである。 

このような体験を私たち信者が授かるために不可欠な準備は、私たちがイエスの仕方(道)に従って、「人間の情報」を、聖霊と協働したいと願う自分と「区別」する習慣を身に付けることと、その習慣を身に付けようとする者たちが、行為の前に、イエスの名によって二人三人が心を合わせ「識別」する習慣を持つことである(マタ18:19~20参照)。これらの習慣が先に立って道を進み、私たちは、真理を身に付け、命に至るのである。 

Maria K. M.


 2026/09/14


265. ヨハネ福音書と新約の司祭職 悪魔からサタンへ

前回の考察を続ける。ヨハネ6章で、イエスの言葉を聞いていた弟子たちの多くが離れ去った後、イエスは残った12人の弟子たちに、「あなたがたも去ろうとするのか」(ヨハ6:67)と問うた。シモン・ペトロは、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68~69)と答えた。この言葉に応じたイエスの言葉が衝撃的なのは、ペトロが言った「私たち」の中の一人が悪魔にたとえられたからだ。その原因は、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)という現実を見たイスカリオテのシモンの子ユダの状態にあった。 

この時のユダの状態は、創世記3章で「女」が神の命じたことを色々考えているうちに、「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ」(創3:4~5)と結論付けたと同じところに止まっていた。この時、「人間の情報」を取り込み自分の知識にした「女」は、悪魔にたとえられる。そして、続く、「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」(3:6)ということを機に、神が食べることを禁じておいた実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたのである。この行為に及んだときの「女」は、「サタンが彼女の中に入った」状態にたとえられる。悪魔がサタンになるのは、実際の行為に及ぶ時宜を得た時である。ユダは、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」のを機に、イエスから離れるという行動に出ることもできたのである。 

しかし、彼はイエスのもとにとどまった。それは、自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからだと後で説明された(ヨハ12:6参照)。彼が悪魔の状態のままイエスのもとに留まったことは、彼に大きな葛藤を負わせることになった。創世記で神が「女」に、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。/彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)と言われた言葉が、実現しようとしていたからだ。この神の言葉は、すでに「女」の子孫であるカインに、効力として現れていた。彼は、「神が置かれた敵意」のおかげで、殺人の罪を犯したにもかかわらず、自分のした行為に恐れをもって神に向き直り、救われた。今、ユダが前にしているのは、まさに「神が置かれた敵意」が人となって現れたイエスであった(ルカ2:34~35参照)。 

人は、聖霊と協働して神の似姿を現わすために、神の姿に似せて創造された霊の領域と、神のかたちに創造され、他の被造物にはない富と権力と権威を付与された肉体の領域との間で(本ブログ№252参照)、そのバランスを取ることができるような人相応の「人間の知識」を授かっている。神が受肉して人の前に立つ方、イエスとして現れた時も、「神が置かれた敵意」は、「人間の知識」に「人間の情報」が関わる時、そのままその人の内で、「人間の知識」に寄り添っていた。ゆえに、自分の記憶にある「人間の情報」を、聖霊と協働するはずの自分と区別せずに、自分の知識として取り込んだ時に起こる葛藤の大きさは、進化のゆえに、創世記の「女」やカインの比ではない。 

「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」(マタ26:24)と最期の食卓の席でイエスが言った言葉には、人となられた神の無念さが現れている。ヨハネの6章の終わりにある「あなたがたも去ろうとするのか」というイエスの問いかけは、特にユダに向けられていたとも言える。それは、「神が置かれた敵意」そのものとして世に来られたイエスが、洗礼者ヨハネが言った、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)だったからである。「私が命のパンである」(6:35)と言われたのは、イエスである。ミサ典礼の中でキリストの御体として現れるご聖体は、私たち信者自身の内に潜んでいるユダにも「あなたがたも去ろうとするのか」と問うておられる。 

現在、司祭がご聖体を取り上げ、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」と唱える言葉に、世界中の信者は、司祭も会衆も共に、「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます。」と応える。しかし、そう応えておいてその直後に、ご聖体を拝領するというコントラストがある。しかも交わりの儀の場面の初めには、信者全員で、主の祈りを唱え、その中で「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈っているのである。実に私たちカトリック信者のこの奇妙な光景は、いったい何を意味するのであろうか。 

ユダがイエスのもとにとどまったのは、自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからだと後で説明されていることを思い出すと、私たちがこのような現実にとどまっている理由を、自分自身に問い直す必要に迫られている。

 Maria K. M.


 2026/09/07

264. ヨハネ福音書と新約の司祭職 イスカリオテのユダ その始まり

ヨハネ6章の最後には、次のように書かれている。「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」(ヨハ6:70~71)。これは、直前のイエスの問いに、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68~69)と答えたシモン・ペトロの言葉にイエスが続けた言葉である。この言葉は、唐突で、衝撃的でさえある。それは、「私たちは信じ、また知っています」と言ったペトロの言葉と、「その中の一人は悪魔だ」と続けたイエスの言葉とに、際立ったコントラストが見えるからだ。 

ヨハネ福音書は、これまで考察したように、1章の冒頭から天地創造とイエスの到来を関係づけ、その中心になるテーマが命であることを告げている。そして3章までに、洗礼者ヨハネを通して新約の司祭像とその役割を示し、同時に聖霊の降臨、入信の秘跡、聖霊の働きと新約の司祭職について示唆した。4章では、新しい礼拝について、またこれに関連して、神と新約の司祭との新しい関係が具体的に示された。また5章では、安息日の真の意味とその完成について明らかにされたイエスが、父が神の自発性そのものであり、それが命であることを示された(ヨハ5:19~21参照)。そして、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」(5:26)と言われた。このイエスの言葉は、イエスの到来を告げる1章の冒頭の次の言葉を説明することができる。 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(ヨハ1:1-5)。この1章の冒頭の言葉は、神には、神と言と命という三つの在り方があるということを示している。一方、上記のイエスの言葉と合わせてみると、神は父であり、言は子であり、「言の内に成ったものは、命であった」とある「命」は、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださった」命である。「この命は人の光であった」とあることから、この命が真理の霊であることが分かる。このように、聖霊は御父と御子から発出するのである。 

このことは、創世記が「神」と「神である主」を、状況によって書き分けていることと関係している。創世記1章では、天地、森羅万象を創造され、人を「我々のかたち」に創造された方を「神」と呼んでいる(創1:1~2:3参照)。父から子を通して聖霊(命)に至る仕方で創造を成し遂げ、成し遂げた状態を聖霊(命)によって維持するためである。一方、2章では、聖霊が人と協働できるように人に霊の領域を形づくり、人を「我々の姿」に創造された方を「神である主」と呼んでいる(2:4~25参照)。こうして人の内にも三位一体の神の似姿である霊の領域を創造し、聖霊と人が一つになって働くことを可能にしたのである。このとき父と子は一つになって、聖霊の働きによって、人を三位一体の神の内に招き入れる。聖霊は御父と御子から発出するのである。 

3章では、人が聖霊と協働できる状態の時には「神である主」として、できない状態の時には「神」として描かれている。ここで「女」と「蛇」に「神である主」が対応しているのは、この時「女」が聖霊と協働できる状態にいたことを物語っている。「蛇」は「女」の記憶にある「人間の情報」なのだ。「女」が聖霊と協働できる状態にいたのは、彼女が、自分に取り込んだ「人間の情報」(蛇)の存在を認識し、自分と区別していたからである(創3:13参照)。さらに、人がエデンの園を追放され、神と関わった記憶が遠のいていく4章では「主」が登場し、「神」への人の思いが曖昧になっていく様子が描かれる。「命の木」への道を閉ざされた人は、もう聖霊と協働することがなかったからだ。そこでこれ以後、神は、3章まで使われた「神である主」の仕方で、ご自身から人に語りかけることはなくなった。 

最期の食卓でイエスが語った次の言葉は、やがて再び「神である主」の仕方で、神が人に関わっていくことを示している。イエス・キリストの到来によって、人は、聖霊と協働する可能性を持つようになったのである。「よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」(ヨハ14:12~14)。ここに御父と同じ命を持つ御子の姿がある。イエスはご聖体を制定し、ご自分が父のもとに昇った後、「神である主」が、常に私たちと共におられ、聖霊と協働する私たちが、三位一体の神の内に常に招き入れられるようにされた。 

イエスがこの言葉を語ったのは、フィリポが、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」(ヨハ14:8)と言った場面である。このフィリポは、6章の初めの場面で、イエスに試されている(6:6参照)。そしてその場面こそが、イスカリオテのユダの物語の始まりでもあった。イエスに、「私たちに御父をお示しください」といったフィリポの言葉が、「私たちは信じ、また知っています」と言ったペトロの言葉と、「その中の一人は悪魔だ」と続けたイエスの言葉との間にあるコントラストの答えにつながっていく。 

Maria K. M.

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 2026/08/31


263. ヨハネ福音書と新約の司祭職 私は命のパンである

ヨハネ5章でイエスは、「私は父の名によって来たのに、あなたがたは私を受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、その人を受け入れるだろう。互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたがたには、どうして信じることができようか」(ヨハ5:43~44)と言われた。このイエスの言葉は、そのまま今の私たち信者にも向けられている。私たち信者がイエスから求めるように勧められている「唯一の神からの栄光」とは何であろうか。イエスは、ヨハネ6章に至るまで、およそ1年以上も弟子たちと共に過ごし、彼らを養成してこられた(ヨハ2:13、6:4参照)。6章で弟子たちは、新約の司祭職に関わる最も重要な体験をする。1~5章までともに見てきた私たち信者にも、彼らが何を体験したか、その理解が問われている。そこには3つのポイントがある。 

第1のポイントは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)である。このイエスの言葉の「父なる神が、人の子を認証された」ということを証ししたのは、洗礼者ヨハネである(1:32~34参照)。それは、神であっても人でもあるイエスに聖霊が降ったということであり、聖霊降臨を証ししている。したがって、ここで私たち信者が求めるように勧められている「唯一の神からの栄光」とは、イエスのように日常を聖霊と協働して生きることである。 

第2のポイントは、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:38~40)というイエスの証しである。ここには、生きている人と死んだ人とを救うご聖体の働きが語られている。ここで私たち信者が求めるように勧められている「唯一の神からの栄光」とは、ご聖体が働けるように、ご聖体を拝領することである。 

第3のポイントは、イエスが、「私は命のパンである」(ヨハ6:48)と言われ、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(6:53)と証しされたことである。ここにヨハネ福音記者が、「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである」(6:59)と但し書きをつけたのは、イエスがこれらの言葉を会堂で公に語っことを明らかにするためであった。ここで私たち信者が求めるように勧められている「唯一の神からの栄光」とは、このようにご自分の肉と血について会堂で公に宣言されたイエスに倣って、私たち信者もミサ典礼の中で、ご聖体がイエス・キリストであることを公に宣言することである。その仕方は、福音書の中に3つの仕方で示されている。 

1つ目は、イエスの言葉を聞いていた弟子たちの多くが離れ去った後、イエスが残った12人の弟子たちに、「あなたがたも去ろうとするのか」(ヨハ6:67)と問うた時である。シモン・ペトロは、次のように答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68~69)。イエスが教えることのなかったこれらの言葉がペトロの口から出たのは、ペトロが聖霊と協働したからである。シモン・ペトロは、聖霊によって答えたのだ。 

2つ目は、同じくヨハネ福音書で、イエスがマルタを導きながら、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハ11:25~26)と問うた時である。マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(11:27)と答えた。マルタは、イエスによって答えたのである。 

3つ目は、マタイ福音書で、イエスが弟子たちに、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うた時である。シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた。イエスは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(16:17)と言われた。シモン・ペトロは御父によって答えたのである。 

これらの3つの問答には、父と子と聖霊がそれぞれに関わっておられる。ここで注目するのは、イエスが導いたマルタの答えと、御父が現したシモン・ペトロの答えが同じであることだ。それは偶然ではなく、まさにイエスが、「私と父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたとおりである。そこで私たち信者は、「あなたはメシア、生ける神の子です」と「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」という言葉によって、ご聖体がイエス・キリストであることを公に宣言しなければならない。しかし、それは未だ現実になっていない。私はイエスが私たち教会に次のように言われている気がする。「私は蛇の頭を砕いた。あなたは砕かれた踵を再生しなさい。それは私が洗ったものだからだ。」 

Maria K. M.

 


 2026/08/24


262. ヨハネ福音書と新約の司祭職 命の木に至る道

神であるイエスは、当時の人々がその業を見ても信じないことを知っておられた。彼らはモーセに従うよりも、預言書と詩編の世界に生きていたからである。ゆえにイエスは、「あなたがたを訴えるのは、あなたがたが頼りにしているモーセなのだ」(ヨハ5:45)と言われた。 

モーセが神から与えられた戒めの中には、民が王を求めた場合に備えて、王がどのように選ばれるべきか、また民に選ばれて王となった者の振る舞いはどのようであるべきかについての戒めがある。中でも、「妻を多くめとって、心を惑わしてはならない。自分のために銀と金を大量に蓄えてはならない」(申17:17)という戒めは、当時の王たちには厳しいものであった。そしてそれに背いたために、民を神へ導くことのできなかった王たちの後悔の念が、詩編全編に織り込まれている。その嘆きをベースに捧げられる神への賛美や感謝の賛歌は、嘆願の叫びとして響き、その独特な味わいゆえに、その声に共感し、今も魅了される人々は多い。旧約の民は、そのような王が再び立って民を救うというフィクションの中で、モーセの律法や預言書を捉え、詩編を唱和していた。 

また、多くの妻をめとってその心を惑わし、自分のために銀と金を大量に蓄えた王たちの口の端から出る詩編の表現は、神と、父と子の関係が結べなかった民を、婚姻の日の味わいへといざなった。やがて民の中では、神と民を花婿(夫)と花嫁(妻)にたとえるようになっていた。その嗜好に惹かれ、そのフィクションの中でそれらを味わうと、その感覚が高度に霊的なものだと錯覚する。こうして知らぬ間に、神との関係に特別な対等感が育つと、神の似姿に創造された人に相応しい欲求は、もっと高度な欲求に姿を変えていく。それは、帰属欲求、承認欲求、自己実現欲求といったもので、それらは時に、隣人を支配し、コントロールする欲望として表出する。そこに絶え間ない争いが生じる。イエスが公生活に入る前に40日の断食をされた後、悪魔がイエスを誘惑しようとして詩編を引用したのは偶然ではない。詩編にはそのような向きがあるからだ。イエスはモーセの書、申命記で応えた(マタ4:1~11参照)。 

イエスは、御父のもとから、新約の司祭職をたずさえ、罪を赦し、律法を完成するために、人となって来られた。その公生活の初めに会堂で手渡されたイザヤの書を朗読された後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と言ってご自身をはっきりと示された。そして復活した後エマオへ向かう弟子たちに現れ、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」(24:27)と書かれている。このように、イエスは、“ご自分について証しするために”旧約聖書を使われた。長い歴史の中を通ってきた神の計画を明らかにし、完成させるためであった。そこでイエスは次のように言われた。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」(ヨハ5:39~40)。イエスは、ご自分が来た以上、もう旧約聖書にご自分を捜す必要がないと言っておられるのだ。 

イエスは、「あなたがたはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(ヨハ5:33)と言われ、正当な祭司職の家に生まれ、預言者として語った洗礼者ヨハネを、彼らが燃えて輝く灯のように思い、その光を楽しんだことを思い出させた。洗礼者ヨハネは、イエスが、世の罪を取り除く神の小羊であること、聖霊が降り、聖霊によって洗礼を授ける人であること、また神の子であるということを証しした(1:29~34参照)。彼は真理について証ししたのである。イエスは、「しかし、私には、ヨハネの証しにまさる証しがある」(5:36)と続けられた。「ヨハネの証しにまさる証し」とは、イエスが、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(14:6)と言われた真理の先にある、命についての証し、御父のもとに行く命の証しであった。 

イエスの言葉は、創世記で神が閉ざされた「命の木」に至る道である。それは、そこにある真理によって、人に神が吹き込まれた「命の息」(創2:7)と人をつなぎ、人を神の命に目覚めさせ、再び神の前で生きる者にする。人の霊の領域を復活させるのである。これらはすべて永遠の命に関わる神の国(天の国)の秘義であり、それは、新約聖書を調べなければ分からない。そこで、「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」(創3:24)と書かれた創世記の言葉は、新約聖書の構造に生かされている。今も「命の木に至る道」であるイエスの言葉を守る4つの福音書は、ケルビムにたとえることができる(黙4:6~8参照)。また、使徒言行録と各書簡集における教えは、「きらめく剣の炎」である。そして、旧約の人々の記憶を満たし虜にしていた詩編の働きは、ヨハネの黙示録に取って代わられた。 

ヨハネの黙示録は、新約聖書の各書がどのようにつながって独特の働きを見せるかを描き、人の意識の表で把握できない真理を、日々これを朗読し聞く信者の無意識に落とし込んで暗黙知にし、聖霊と協働する場面に備えさせる。新約聖書によってもたらされた新しい養成方法の全ては、イエスがそのみ名によって遣わされた聖霊と信者たちのために、命を懸けて用意していかれたものである。残念ながら私たち信者は、このような宝を未だ完全に使いこなしてはいない。それどころか、今もイエスを証しする旧約聖書の中にイエスの面影を捜し、詩編に全面的な信頼を寄せている。こうしてイエスがユダヤ人たちに語った次の言葉は、自分たちの記憶を、新約聖書の新しい養成に向けて最適化する努力をしようとしない私たちにも向けられている。 

「私は、人からの栄光は受けない。しかし、あなたがたの内には神への愛がないことを、私は知っている。私は父の名によって来たのに、あなたがたは私を受け入れない」(ヨハ5:41~43)。 

Maria K. M.

 


 2026/08/17


261. ヨハネ福音書と新約の司祭職 私は自分からは何もできない

「私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである」(ヨハ5:30)。ここには、ご聖体のイメージがある。イエスは、「私が命のパンである」(6:35)と言われる6章で、前回考察したテーマを繰り返しておられるだけではなく、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(6:38)と言われた。「御心を求めている」ところから、「御心を行うため」へと、話を先に進められたのである。そして、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである」(6:39)と明らかにされた。 

この言葉は、ヨハネ18章の「それは、『あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした』とイエスが言われた言葉が実現するためであった」(ヨハ18:9)へとつながっている。この時この場面で、使徒たちを一人も失ってはならなかった。聖体制定とそれを継続することを命じた御言葉によって、新約の司祭職を授け、王権を委ねた彼らが、聖霊と協働し、イエスの御業を引き継ぐご聖体を世に現し続け、司祭を産みだす教会を司牧し、世話をして仕えることになるからである(21:15~19参照)。こうして、彼らは生きている人に仕える。ご聖体は、生者も死者も、すべての霊を救っていくのである。御父が引き寄せてくださる力と一つになって、十字架上ですべての人を引き寄せるイエスの力が、ご聖体の内からあふれ出るからである。 

このように6章の「私が一人も失うことなく」という言葉は、18章の場面と連動し、格別に死者がイメージされている。今も、無知の内に死んで陰府で待つ人々は、生きている間に救いの道に招かれる人々よりも、はるかに多いと思われる。そこには死を受け入れずに死んだ者たちもいる。悪霊となってさまようこの人々の霊は、ゆえに死を求めて、生きている人々に取りつこうとする。彼らと共に死を再体験して救われたいのである。しかし悪霊に取りつかれた人は、自分に起こる尋常ではない葛藤に苦しむ。その人にも神が「命の息」を吹き込まれた霊の領域があるからである。 

その苦しみから人を救うために、イエスは弟子たちに、悪霊を追い出す権能をお授けになった。そして、神であっても人でもあったイエスご自身も、現世では悪霊を追い出すだけで、救うことはされなかった。人にはできないということをお示しになったのである。イエスは、人として死んで復活され、私たちに永遠の命を証しされた。しかしそれだけではない。こうしてご聖体という、第二の受肉を起こされ、悪霊となった人々の霊をも引き寄せ救うことを決めておられたのである。この事が起こる場が黙示録にあるハルマゲドンである(黙16:12~16、20:7~10参照)。イエスは、御父が与えてくださった人を、まさに一人も失うことなく、終わりの日に復活させる完全な神の計画を実行されようとしていた。 

そこで生きている人々に対して、「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:40)と言われた。御父は、生きている人々が、生きている間にイエスを受け入れ、その名を信じて永遠の命を授かったことを認識にしていくようにと願っておられるのである。ご聖体は、私たちが拝領し、御父の願いを実感するようにご自身をお与えになる。この実感こそが、派遣の祝福と共にミサ典礼が閉祭し、私たちが日常の中に向かいつつも、再びミサ典礼の場に、ご聖体のもとに戻るように私たちを引き寄せる大きな力である。 

私たちが日常の中に向かうのは、そこで聖霊が協働して生きようと待ち構えておられるからだ。聖霊は日常の中で私たちと協働することで、いわば第三の受肉の神秘を起こし、私たちに神の似姿が現れる。そしてイエスの福音を伝播させながら、私たちの霊の領域が肉体と切り離される時、私たちと共にいて、天のミサ典礼の場まで引き上げようとされるのである。使徒言行録に、「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使2:1~3)と書かれたように、イエスの名によって遣わされた聖霊は、私たち信者一人一人の上にとどまっておられる。 

イエスが証しされたように、「私がその人を終わりの日に復活させることだからである」という御父の御心を現実にできるかどうかは、私たちが、子を見て信じ、永遠の命を得る者であることを、いかに自覚し、自分の認識に落とし込めるかにかかっている。ゆえに信者は、自分の救いのためにご聖体を拝領することを強く望む者なのである。しかし私たちは、信者である自分の思いを知って、それを素直に言い表し、実現しようとしているだろうか。イエスは、当時の人々がその業を見ても信じないことを知っておられた。

 Maria K. M.


 2026/08/10


260. ヨハネ福音書と新約の司祭職 死と陰府


ヨハネ福音書5章では、イエスを迫害し、殺そうと思う者たちの内奥に、安息日についての無理解と、神を父と呼ぶことができなかった民の無念さが明らかにされていた。形骸化したモーセの律法に対する思いよりも、繁栄を極めたと伝えられる王たちの時代への憧憬と、いつかローマの従属から解放されて救われる日を願う民の思いを、詩編の朗読の声はつなぎとめていたに違いない。今や、ダビデやソロモン以上に偉大な王となる預言者や救い主が現れることを待ち望む彼らとともに、イエスも会堂に集って、詩編を朗読し、預言の書を開いていたのだろうか。しかしイエスは、新約の司祭職のために全く新しい教えと養成を持っていたのである。そこからすべてが新しくされた。 

前回は、「私の記念としてこのように行いなさい」という御言葉によって、イエスが使徒たちに聖体制定と同時に授けられた新約の司祭職が、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、ミサ典礼において、イエスが臨席された最期の食事の場面を現在化させることから、ミサ典礼は、信者たちがその食卓にあずかるためだけではなく、世界中の人々が囲む食卓に向かって捧げられているということを考察した。そしてそれは、十字架上で成し遂げたただ一度の死によって、人類のすべての罪を贖われたイエスが、陰府に降り、無知のために、死んでも苦しむ人々の霊を救われたその御業を、私たち信者がご聖体を拝領し続けることで、継続させるためであると考えた。そして、このことを伝えるペトロの手紙の箇所を取り上げ、確認した。 

マタイ福音書には、イエスが十字架上で亡くなった後、「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた」(マタ27:51~53)という描写がある。ヨハネ福音書5章でイエスは、それを裏付けるような教えを語っている。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える」(ヨハ5:21)と言われているからである。その対象者は、死んで墓に入っていた者である。生きている者には、すでにご自身の教えがあるからだ。そこで、「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」(5:24)と言われた。 

死んで墓に入った者については、次のように言われた。「よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう」(ヨハ5:25~29)。この言葉は次の黙示録の「第二の死」と深く関わっている。 

「また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(黙20:11~15)。 

ご聖体は、それを拝領する私たち信者を、神のひとり子と一つに結びつけるとともに、それを通して、教会に一致をもたらす。ご聖体はまさに信者個々人と教会を生かすいのちの糧である。しかし、それだけではなく、ご聖体が私たち信者に食べられることによって、そこに現存するキリストは、ふたたび陰府に降り、そこで苦しんで待つ死者の霊を救いに招くことができる。ご聖体を拝領する私たちには、そのための機会をキリストに供することができるのである。 

ヨハネ福音書5章のこのテーマの終わりにイエスは、「私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである」(ヨハ5:30)と言われている。次回はここから考察を進め、6章で起こったことをしっかり検証していきたい。「私は自分からは何もできない」という御言葉に、命のパンであるご聖体のイメージがあるからだ。 

Maria K. M.


 2026/08/03


259. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の食卓へ

イエスは最期の食事の席で使徒たちに、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって、聖体制定と同時に新約の司祭職を授けられた。そして、「私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる」(22:29~30)という御言葉によって、ご自身の王権を使徒たちに委ねられた。その王権は、天使がイエスの母に、「神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(1:32~33)と告げた王権である。この言葉は、それを委ねられた使徒たちによって、新約の司祭職が永遠に継承されることを保障している。 

聖霊は、このような新約の司祭職を信者たちが受け取ることができるように、彼らの感覚を、無意識の内に、イエスが準備されたミサ典礼へ向けるための暗黙知を必要としていた。そこでヨハネの黙示を用意されたのである。その訓練は、7つの預言(下記図参照)を繰り返し通過するループの中に日常的に入ることで、ミサ典礼に向かう上で最も大きな障害となる「人間の情報」を徹底的に区別するように組まれている。さらに、信者たちがミサ典礼を日常の軸に据え、そこに通う道を具体的な「イエスの道」として認識できるように、7つの幸いが導いていく。第1の幸い(黙1:3参照)が告げているように、黙示録の訓練は、感覚を通した刺激によって、無意識の内に、「イエスの道」を進む行動を促すための合図や命令を起こす、暗黙知となることができる。それは黙示録が、新約聖書の内容を示唆し、その正典としての完成と、ミサ典礼の完成を預言しているからである。 

旧約の民は、聖なる神との交わりの中に生き続けられるように、繰り返し犠牲を献げ、民のために執り成しをする祭司職を授かっていた。しかし、祭司職を委ねられた者たちの信頼性に不安を持った民は、神に王を求め、与えられた王にすべての期待をかけた。やがて王と民は、救い主を求める声を上げた。詩編は、王と民の声を無意識の内に一つにし、彼らが、未来の救い主へ希望を向け続けることで、神との交わりを保つための拠り所であった。ゆえに、すでに新約の司祭職を授かり、神の国に向けてミサ典礼を完成しようとしている現代の信者たちの訓練の書として用いる意味は全くない。旧約聖書は、信者の教養の一環として必要に応じて知らしめる必要はあるとしても、それを信者の記憶に刻みこむような養成をしてはならない(ルカ5:36~39参照)。 

「私の記念としてこのように行いなさい」という御言葉によって、イエスが使徒たちに聖体制定と同時に授けられた新約の司祭職は、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、イエスが臨席された最期の食事の場面を現在化させる。それは、ただ一度の死によって、人類のすべての罪を贖われたイエスが陰府に降り、罪の結果によって死んでも苦しむ人々の霊を救われたそのみ業を、継続させるためである(マタ27:51~53参照)。ペトロの手紙がそれを次のように伝えている。 

「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです」(一ペトロ3:18~20)。 

「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たち」として死んでいく人々は、今も大勢いる。「あなたがたを神のもとへ導くためです」とペトロが言っているように、私たち信者も決して例外ではない。ミサ典礼は、「私の国で食卓に着いて食事を共にし・・」とイエスが言われたように、本質的に食卓を囲んで集まる行為である。しかし、その日が来るまでは、私たち信者は、ご聖体を拝領することによって、キリストが捕らわれの霊たちのところへ行って宣教される機会を供することができるように、主の食卓を囲みながらも、主の十字架のもとに立ち続けるのである。 

本ブログでも考察したアッシジの聖フランシスコが出会ったサン・ダミアーノの十字架は、それらを語りつくしている。イエスの十字架の周りを囲む白いレースの縁取りのような模様は、イエスの足の下で途切れ、その先に続きがあることを伝えている。ミサ典礼が、教会に集う会衆だけのためではなく、世界中の人々が囲む食卓に向かって捧げられていることを暗示しているのである。そこには、私たちの福音を宣べ伝える熱意が足りないために、死んでも待っていなければならない人々もいるだろう。十字架上から遠くを見つめるイエスの眼差しには、次の御言葉が秘められている。 

「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」(ヨハ10:14~16)。 

Maria K. M.


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 2026/07/27


258. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音書5章

ヨハネ福音書は5章から、「神の置かれた敵意」として誕生されたイエスが(ルカ2:34~35参照)、「人間の情報」と本格的に対峙される様子を描いていく。ヨハネ福音書には、他の福音書に比べて圧倒的に「ユダヤ人」という言葉が多い。ヨハネ福音記者の同胞に対する熱い思いには、イエスを受け入れず、その名を信じようともしない彼らについて、無念の思いが強かったのではないだろうか。それは彼が、ヨハネ福音書に流れる新約の司祭職という伏流水が、創世記の物語にその源泉を持つ旧約の祭司職を完成し、神の計画を実現するものであったと悟っていたが故であった。ヨハネ福音書は、1章の冒頭から、創世記を想起させるかたちで、その思いを綴っている(ヨハ1:1~18参照)。 

創世記で神はエデンの園から人を追放し、命の木に至る道を閉ざした後、「人間の知識」を守るために「神の置かれた敵意」が人の内奥で働くに任せた。その一方で、ご自分の目にかなう人を見出し、使命を与え、人が神との関係をつなぎとめるように導いていかれた。こうして一つの民となっていった人々は、モーセの時代に与えられた神の名と祭司職と律法を守ってきた。ダビデとソロモンの時代の後、捕囚の苦難を経ても、彼らはそれらをどこまでも保持し続けてきたのである。第二神殿を建立し、イエス誕生後も続いていたその工事のように、そこには、神殿への民の一途な思いがあった。しかし、神である御父の御心を担った御子がイエスとして地上にその姿を現した時、彼らの思いは、すでに神の思いと一つではなかった。 

ヨハネ福音書5章には、初めにイエスが安息日にベトザタの池で病人を癒した出来事が書かれている。それをきっかけに、「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(ヨハ5:16)とある。イエスは彼らに、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(5:17)と答えられた。福音書は、「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(5:18)と書いて、彼らの気持ちが、「迫害し始めた」から「殺そうと付け狙うようになった」に変わったことを示し、その変わり目が、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされた」というところにあることに注目した。ここには、本ブログでこれまで何度も検証してきたように、構造的な問題が隠されている。 

当時のユダヤ人たちにとって、イエスが、神を自分の父であると言われたことが、大きなショックであったことを、これらの出来事は物語っている。神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかった歴史を(王上11:1~10参照)、彼らは承知していたのである。ヨハネ福音書は、「そこで、イエスは彼らに答えて言われた」(ヨハ5:19)と続けて、強い口調でイエスが御父と御子の関係を語られた言葉を、5章の最後まで書き通した。イエスがこれほどまでに証ししないではいられない問題を、彼らが抱えていたからである。 

ユダヤの人々は、幼いころから、詩編を耳で覚え、旧約聖書を暗記するように身に付ける環境にいた。その中で、すでにソロモンの時代から、神とイスラエルを花婿と花嫁、夫と妻になぞらえる発想が生まれ発展していた。後に雅歌を、神とイスラエルの愛として読む伝統も定着していく。神と親子の関係を築けなかった民の苦肉の策であったに違いない。しかし、神と民の関係に、花婿と花嫁、夫と妻という婚姻のイメージを当てはめることは、大きなリスクを伴っていた。そこには神と対等であるとの思いが、隠れて芽を出すからである。家父長制度のもとでも、婚姻の日は、花嫁は花婿と共に祝われ、等しい関係にあると感じることができる。そのように、男女の婚姻にたとえた神との関係理解は、神を礼拝しつつ、礼拝を司る者たちが、神へ向けるべき民の眼差しを、自分たちに向けさせようとする動機となる(マタ23:1~39参照)。自分が神と等しい者であるかのような錯覚に捉えられていくのである。 

このようにして、福音書に書かれた、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」というユダヤ人たちの気持ちには、二重の怒りが込められていたことがわかる。神と父と子の関係を結べず、神の子とされることのなかった彼らの現実を見せられた怒りと、神の民への愛を、花婿の花嫁への愛、夫の妻への愛にたとえる婚姻の神秘の中で、神と等しい者として神に愛されるというフィクションの世界を破られたという怒りである。それらは、イエスを殺そうと思うほど強い感情であった。彼らは、慣れ親しんだ詩編や、旧約聖書の文言から、婚姻神秘主義的な神学を産みだしていた。その結果、モーセから続く旧約の祭司職は、ダビデやソロモンの時代を経て、そのあり方を変えていき、イエスが公生活を始めた頃には、新約の司祭職を接続することができないものと化していたのである。 

同胞と同じように、詩編を唱え、旧約聖書を身に付けていたにもかかわらず、新約の司祭職を悟っていたヨハネ福音記者は、彼らに対する無念さを「ユダヤ人」という言葉に込めたのだと私は思っている。その思いは、アダムに示唆した祭司職の完成と(創3:19参照)、ダビデに与えた希望を実現すべく(サム下7:14参照)、新約の司祭職をもたらしたイエスのものでもあったのではないだろうか。それは確かに、ダビデの末裔として来られ、イスラエル人として同じ教育を受けたイエスの無念さでもあったに違いない。ヨハネは、ユダヤ人として自分が生まれ育った民がはまり込んでしまったこれらの問題が、イエスがもたらした新約の司祭職とはけして相容れないものであることを、初めに悟ったのである。それはまさに旧約脳と新約脳と言えるほどに、まったく異なるものとなっていたのであった。 

Maria K. M.


 2026/07/20


257. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の現実

人は、地を従え、あらゆる生き物を治め、霊と真理をもって神を礼拝するために創造された。神が聖別された日を神と共に永遠に祝い、その食卓を囲むのである。そのために、神は、人が「我々のかたち」を現すように、人に権力や富、権威が付与された肉体の自発性を授け(本ブログ№252参照)、この自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として、人を創造された。この常態において人は聖霊と協働することができ、それによって、神の似姿を現わすことができるのである。唯一の神のかたちを現すために独りで生まれ、独りで死んでいく肉体を持つ人にとって、人が三位一体の神の姿を現すために協働される聖霊は、人の存在の初めから、無二の隣人であり、人は、養成されれば、生涯、聖霊と協働して生きることができるのである。 

創世記で、「人」が独りであったとき、聖霊と協働して体験したことは、現代の私たち信者にも受け継がれている。「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」(創2:15)とある描写は、私たちが、聖霊と協働することで、自分の記憶を耕し守ることになることを想起させる。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(2:16~17)とは、「人間の情報」を区別せず取り込んで自分の「人間の知識」にしたら必ず死ぬことになるということである。「必ず死ぬ」とは、人本来の常態を失い、聖霊と協働するという最高の幸せに与ることができなくなることを意味している。 

「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)という記述は、まさに聖霊と協働する人の体験である。続けて、名を付けた生き物の中には、「自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」(2:20)という事実は、人に相応しい助け手として、同じように聖霊と協働するように養成された人との出会いがあることを物語っている。これらの理解が私たちになければ、「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか」(3:11)と、神から言われたアダムのように、私たちにも神への敵意が起こる可能性がある。なぜなら、「取って食べると必ず死ぬことになる」という言葉が、自分に実現しなかったということの真の意味を、悟ることができない者となっているからである。 

神である主は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)と言われ、「神への敵意」が起こる前に、「神が置かれた敵意」が働くようにされた。それは、それによって「神への敵意」を阻止することが、罪を食い止める強力な手段となるからである。「神への敵意」が「神が置かれた敵意」を乗り越えて隣人に向かっても、「神が置かれた敵意」の効果が、人を神に連れ戻すこともある。さらに、この御言葉は、御子が人となって地上に遣わされることを決定づけた。「頭を砕き」とは、悪魔やサタンと呼ばれるものが「人間の情報」であることを、イエスが、人が分かるように暴かれたことである。「かかとを砕く」とは、「人間の情報」によって、次のようにイエスの宣教の歩みが止められ、十字架上で救いを成就する方向に向けられたことである。 

「イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』」(ヨハ6:70)⇒「夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」(13:2)⇒「ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、『しようとしていることを、今すぐするがよい』と言われた」(13:27)。 

結果的にアダムの神への敵意は、隣人である妻に向けられた。彼は、彼女に自分で「エバ」と名を付けた。その名で呼ぶことによって、妻を自分の支配下に置くことになる。人は、隣人を支配することはできない。すべての被造物は、神に由来する自発性を持っている。それゆえその振る舞いには、神に従う自由がある。人は誰でも、権力や富、権威ある人としての肉体をもって、聖霊と協働することができる者として創られた。アダムは、そのような隣人の、神に従うための自発性を貶め、支配下に置いて、隣人と協働する真の隣人である聖霊を冒瀆したのである。 

「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」(創3:24)。イエスは、聖霊を冒瀆した人々を救い、命の木を現わすためにも、地上に遣わされたのである。 

Maria K. M.


 2026/07/13

256. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神が置かれた敵意

人は、複数になると、その間に偶発的に情報(「人間の情報」)が行きかう。それを自分と区別せず自分の知識(「人間の知識」)として取り込んでしまうと、そこから善か悪のイメージを受け取り、錯覚が起こる。善のイメージが受け取られた場合、人の肉体は他の動物と同じように単体であるにもかかわらず、誰かと一体になったという錯覚を持ち、大きな快感が生じる。神が「人」から男と女を創造された時、神が連れて来た「女」を見て「男」が言った言葉、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」(創2:23)にそれを見ることができる。創世記の初めの「人」が、聖霊と共に土を耕したり、動物に名を付けたりしたように、神である主は、人が聖霊と協働して神の似姿を現わすために、人に、無意識の内に聖霊と協働する体験を授けられるからである。 

人の生殖機能に置かれた自発性は、他の動物と同じように種を存続させ、全能の神の永遠性と真理である神の自由とを具現している。動物たちにとって生殖機能に置かれた自発性は、彼らの他者との関りやつながりを、種を存続させるという一点に集中させる。しかし、神のかたちに創造され、聖霊と協働するに相応しく行動するために、権力や富、権威が付与された人の生殖機能に置かれた自発性には、種の存続のみならず、権力や富、権威に向かう強い嗜好がある(本ブログ№252参照)。このような嗜好を帯びた自発性は、その人の「人間の知識」とつながっている。「人間の知識」が、「人間の情報」を取り込んでいる状態でこれらの嗜好が「人間の知識」に伝達されれば、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、同時に錯覚からフィクションへの移行を伴い、行為に至る。創世記の初めの「女」に起こった欲求は、「神のように善悪を知る者となること」(創3:5)であった。 

創世記1章では、創造主を「神」と呼び、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを示した(創1:1~2:3参照)。2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼び、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を示していた(2:4~2:22参照)。一方、創世記3章では、人が聖霊と協働できる状態の時、「神である主」と記載し、人ができない時、「神」と書くことによって、その時の人の状態や状況を明らかにしているように見える。そこで、「人」に対して、初め「神である主」が当てられ(3:9~10参照)、次には「神」が当てられていること(3:11~12参照)、「女」には、「神である主」が当てられていることに注目すると(3:13~15参照)、それを確認することができる。 

「人」は、おそらく、「女」と情報を共有するうちに、それを区別せず、自分の知識として取り込んでしまい、「私は裸なので、怖くなり、身を隠した」(創3:10)という体験の渦中にいた。やがて彼の、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(3:12)という言葉は、神への怖れが、敵意に変わったことを示している。「女」にも起こったように、彼の「人間の知識」に、人の生殖機能に置かれた自発性に付与された、権力や富、権威に向かう強い嗜好が伝達されたのである。この時、「人間の情報」を取り込んでいる状態の彼の「人間の知識」は、神の前にいるに相応しく、その人格を保つことができなかった。 

そこで、「神である主」は「人間の情報(「蛇」)」に言われた。「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)。ここで、「神が置かれた敵意」は、「人間の知識」にあって、「人間の情報」が侵入するのを阻む砦のようである。それは、人の霊の領域を「人間の情報」から守る。しかし人が、その砦を超えて「人間の情報」を取り込み、自分の「人間の知識」としてしまえば、苦しむことになる。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」と「神が置かれた敵意」との間に、矛盾が起こるからである。この戦いが激しくなり、その矛盾によって、自分の錯覚から生み出されたフィクションの世界が打ち破られようとするとき、人は、その造り主に敵意を向けることで、それを阻止しようとする。 

この造り主への敵意はやがて、現実的に解決を見るために、隣人への敵意に変質していく。隣人への敵意は、いわば聖霊に敵意を向けたも同然である。聖霊こそが、第一の隣人だからである。人は、「我々のかたち」を現すために、権力や富、権威を付与された肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。聖霊は人にとって、まさに無二の隣人である。時が満ちると、「神が置かれた敵意」は、イエス・キリストとして誕生した(ルカ2:34~35参照)。律法の専門家が、イエスにどの掟が最も重要かと問うた時、イエスは、次のようにお答えになった。 

「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」(マタ22:37~40)。「あなたの神である主」とは御父と御子である。自分のように愛すことのできる隣人とは、聖霊である。人が、聖霊を無二の隣人として自分のように愛そうとするとき、神の愛がすべての隣人に向かうのである。 

Maria K. M.


 2026/07/06

255. ヨハネ福音書と新約の司祭職 善悪の知識の木

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。イエスのこの言葉は、現代の私たち信者に、御父への完全な信頼を持って歴史を見直すようにと、強く迫ってくる。そこで私は、新しい視点から2年前に書いた「善悪の知識の木」に関わる結論を見直さなければならないことが分かった。 

私は、創世記3章で女が蛇に言った、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創3:2~3)という言葉から、その時、初めの二人が、「園の中央にある木の実」、すなわち「命の木」と「善悪の知識の木」から取って食べていなかったと考えた。しかし、創世記全体が、イエスがいつもしていたように、神の計画に関わる、いわばたとえとして、語られているという側面をしっかり捉えてみると、そうではなかった。その時、彼らは、「命の木」や「善悪の知識の木」とつながるという認識を持っていなかったのである。 

人は、「我々のかたち」を現す人の肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。それは、その人の「人間の知識」がすでに「御言葉(命の木)」とつながっている状態であり、創世記は、それを「食べる」という言葉で表したのである。そこで1章で現れた「神」は、2章では、「神である主」となって、「人」が聖霊と共に、エデンの園を耕し、守りながら、完全に神の似姿を現わすために、聖霊が人に働きかけられるようにされた。聖霊は、そのように働きながら「人」を養成し、「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)というところまで、「人」を成長させたのである。 

ここで「人」は、あらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に接触しても、それらに発現している情報に惑わされなかった。聖霊と協働していたからである。そこに至るまで情報に惑わされないこと、それこそが、神である主が、「命の木」とともに「善悪の知識の木」を生えさせた理由であった。被造物全体が発する情報は、それを受け取る人の状態や状況によって、同じ情報であっても、善とも悪ともなって捉えられ、「人間の情報」となって、更に拡散していく。それらの情報を、人が「善悪の知識の木」として観ることができれば、人は、自分に近づく情報を区別するようになる。「善悪の知識の木」は、人の霊の領域で、「人間の知識」が、すべての被造物の情報を区別し、それを取り込まないように建てられた警告塔の働きをしているのである。 

ある時イエスは、「善い先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ18:18)と尋ねた人に、「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」(18:19)と答えられた。善は常に「神おひとり」である。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」は、「善悪の知識」である。しかし、私たちは、善と悪を識別しようとしてしまう。そして、それ自体が、「人間の情報」を自分の「人間の知識」と区別しないで取り込んでしまった結果であることには、なかなか気づかない。情報は神から出たものではない。神の被造物ではないが、神のみ手の写しであるという特徴を持つすべての被造物から発現するものである。この影響が問題となるのは、唯一神の似姿に創造された人だけである。 

複数の人が関わる中で偶発的に発現し、拡散される「人間の情報」を自分の知識に取り込めば、「人間の知識」は、その情報とそこに紐づけされている様々な関係性に集中し、いわば乗っ取られてしまう。そうして、「御言葉(命の木)」を介して「神の自発性(命の息)」とつながることができなくなる。それは、聖霊と協働して現れる神の似姿を失ってしまうということである。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:17)という表現は、そのことを表しているのである。警告塔である「善悪の知識の木」は何もしない。問題は、「人間の知識」が自発性とつながり、行為に至ることにある。それは、私たち人が、自分の方から自分を知って対処するものだ。だからイエスははっきり言われるのである。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。 

Maria K. M. 

(お知らせ)インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 ➡ 「パトモスの風⑬」


 2026/06/29

254. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の情報

神である主は、人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。しかし私たちの「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクションは、仮想現実を造る。その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そうして信者でも、「善悪の知識の木」にすがり、それに憑依し、遂には行為に至る。イエスが、「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)と言われた言葉は、信者の誰にも当てはまるのである。

イエスが、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハ8:12)と言われた言葉から始まった、ファリサイ派の人々とユダヤ人たちとの問答の後(8:13~30参照)、ご自分を信じたユダヤ人たちに次のように言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(8:31~32)。「私の言葉にとどまる」とは、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、「御言葉(命の木)」を介してつながっている状態のことである。このようにつながって初めて、人は真理を知り、真理は人を自由にする。人が真の自由を感じるのは、神の自由をもたらす聖霊と協働する時である。その時、人は、三位一体の神の関係性に招き入れられ、無心となって神に集中し、神の自由に与るのである。

 しかし私たちの「人間の知識」が、「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクション、そこから造りだされる仮想現実は、人を神の恵みに与らせないどころか、最期には、「火に投げ入れられて焼かれてしまう」という結果に至らせる。「人間の知識」はなぜ「人間の情報」を取り込むのか。前回考察したように、動物も相応の知識を授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。動物たちにとって、他者との関りやつながりは、種を存続させるという一点に集中している。その目的のために同一種の個体間で情報が行きかい、神から相応に授かった知識が発達する。

人においては、前々回考察したように、第一の川ピションにたとえられた自発性を持つ生殖機能の働きには、子孫だけではなく、権力や富、権威を産みだす強い嗜好がある。その嗜好は、愛情、親密さ、快楽を求め、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「御言葉(命の木)」を介してつながっている「人間の知識」に突き付けられるのである。それに応えようとする「人間の知識」は大きな混乱を抱え、他者との関りやつながり、すなわち「人間の情報」を求める。そうこうするうちに「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。 

ヨハネ福音書には、「過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)とある。人の心の中にあるのは、「人間の情報」である。神であるイエスが、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたように、神の似姿に創造され、霊の領域を持つ人は、何が自分の心の中にあるかを知っている必要がある。このような信者は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じて神の子となる権能を与えられた状態を保持する可能性がある。「自分の心の中」とは、「人間の知識」の中と言うことができる。 

これらの考察の中で、私がいつも「人間の心」と言わず、「人間の知識」と言うのは、今回のように、「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」ということの原因が「人間の情報」からくるので、それに対応するのは「人間の知識」だと考えるからである。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」は、イエスの言葉を聞かない。初めイエスを信じた人々が、イエスが語った真理が自分たちの嗜好とぶつかったために、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなると、イエスを信じなくなった。私たち教会は、次のイエスの言葉を胸に刻まなくてはならない。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47) 

Maria K. M.


 2026/06/22


253. ヨハネ福音書と新約の司祭職 自発性と知識

前回考察したように、主なる神は人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。神が、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(1:26)と言われた「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が霊であり、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として人は完成した。神は人にこれらを備えただけではなく、神ご自身である三位一体の関係に人を招き入れることを望まれた。そこで創世記1章では、創造主を「神」と呼んで、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを強調したが、2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼んで、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を強調した。 

創世記の、「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた」(創2:9)と書かれた「見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木」は、私たち信者にとっては新約聖書である。これを「食べる」ということは、朗読して聞くということ、「あらゆる木」とあるのは、それがすべての人に対応していることを告げている。誰もが御言葉とつながるぶどうの枝となることができる。黙示録には、「それを取って食べなさい」(黙10:9)と命じた天使の言葉に従った筆者は、「そこで私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった」(10:10)と書かれている。 

新約聖書は、旧約聖書に比べてはるかに小さいから、ただ読んで聞くには易しいが、人の内奥に到達した生きた御言葉は、真理によって人を清め、人の身には苦い薬のように感じるのである。しかし、そのことが返って信者たち一人一人を聖霊に向かわせ、「そこを耕し、守る」(創2:15)創世記の初めの「人」と同じ養成に与らせることができる。「そこ」とは、初めの「人」と同じく、信者自身の記憶である。黙示録の筆者は、その後、再び預言することを命じられている。彼は、預言の書の世界で天使に同伴されていたが、私たちは創世記の初めの「人」と同じように聖霊と協働する。そうして私たちは福音を宣教するのである。創世記は、初めの「人」が、聖霊と協働する様子を次のように書いている。 

「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)。神である主によって、唯一の「人」として創られ、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっていた初めの「人」は、聖霊と協働していたために、生き物に名をつけた時、「それがすべて生き物の名となった」のである。私たち信者も初めの「人」と同じく、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっている時、高い親和性をもってイエスの名によって遣わされた聖霊と協働することができる。 

前回考察したように、創世記に、「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」(創2:10)と書かれたエデンの園は、人の記憶である。記憶の領域は、「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)とイエスが言われたように、聖霊が働く場である。人は、聖霊の働きによって流れ出て、園(記憶)を潤す川にたとえられた知識を授かっている。そして、そこから分かれて四つの川となったその第一のもの、「産めよ、増えよ」(創1:28)と命じた神の言葉によって与えられた生殖機能に自発性が置かれている。生殖機能は種の存続のために、個体の情報のすべてを子孫に残す使命があるからである。 

動物にも知識は授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。一方、霊の領域で「神の自発性(命の息)」とつながる「人間の知識」は、生殖機能に置かれた肉体の自発性ともつながりながら、聖霊と協働して一連の業を成すのである。神である主が、「人」を男と女に分けられ、「女」を人のところへ連れて来られた時、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創2:23)と言った「男」の言葉には、その様子が現れている。彼らが授かった生殖機能は(2:24参照)、この時正常に機能していた(2:25参照)。この状況で、二人に重大な問題が発生したのは、複数になった人の間に発現した「人間の情報」からであった。 

しかし、「人間の情報」が発現したこと、それ自体は問題ではなかった。問題は、「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって、錯覚とフィクションが起こることだ。これらは仮想現実を造り、その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そして遂には、この危険を回避するために、神である主が「命の木」と共に人の記憶の中央に生えさせた「善悪の知識の木」にすがり、拠り所としてしまうのである。イエスは、新約の司祭職を授かった弟子たちに、次のように厳しく諭している。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)。 

Maria K. M.


 2026/06/15

252. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の知識

神は、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」(創1:26)と言われた。人が初め独りの人として創造されたのは、神が三位一体で唯一の神だからである。「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として、人は創造された。前回考察した、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)とイエスが言われた言葉が示すように、人に「我々の姿」を現わすとは、人に神の霊を授けることである。そして人は、真理の霊である聖霊と共に、神を礼拝するのである。 

創世記は、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。神である主は、東の方のエデンに園を設け、形づくった人をそこに置かれた」(創2:7~8)と書いた。「エデンの園」は、次のように続けたその描写から、人の記憶の領域を表していると考えられる。「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた。エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。その第一のものの名はピションと言い、金を産出するハビラの全域を巡る川であった。その地の金は良質で、そこではまた、ブドラク香やカーネリアンも産出された・・・第四の川はユーフラテスであった」(2:9~14)。 

神が園に生えさせた「木」の描写は、神が人の鼻に吹き込まれた「神の自発性(命の息)」の領域を指し、「川」の描写は、「産めよ、増えよ」と命じた神の言葉から成った生殖機能の働きによる肉体の自発性の領域である。「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し」とある川は、これら二つの自発性に挟まれた「人間の知識」を指している。そこから分かれた四つの川の内、第一の川ピションは、自発性をもたらす生殖機能の働きを指す。そこで産出する良質な金は子孫を、また、黄金に匹敵する貴重な交易品だったと考えられているブドラク香は、権力や富を、「出エジプト記」で祭司アロンが身につける胸当てやエフォドを飾る宝石の一つとして登場し、「ヨハネの黙示録」でもエルサレムの城壁の土台石の一つとして描かれているカーネリアンは、権威を表している。自発性をもたらす生殖機能の働きは、「人間の知識」に、これらのイメージを強力に植え付ける。 

そこで、「土の塵」(創2:7)で人の内に霊の領域を形づくった神である主は、ご自身が吹き入れた人相応の「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「命の木」を介してつながるようにしたのである。そこに「命の木」が置かれたのは、言葉によって成る「人間の知識」が、人相応の「神の自発性(命の息)」とつながるために、仲介者として、言葉が必要であったからである。それは御言葉である。「人間の知識」は、御言葉とつながって、一方でつながっている生殖機能の働きによる肉体の自発性の強力なイメージを、正しく受け取ることができる。「人間の知識」は、自ら「命の木」を求め、それを介して「神の自発性(命の息)」とつながることができるのである。こうして、生殖機能の働きによる肉体の自発性は制御され、人は、神の似姿に創造された人として、聖霊と協働することができる。 

そしてイエスが、ご自身をぶどうの木にたとえて、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハ15:4~5)と言われたのは、人がこのように創られたことをご存じだったからである。 

聖パウロが、テモテに次のように書いている。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです」(一テモテ2:1~5)。 

「神の自発性(命の息)」が「命の木」を介して「人間の知識」とつながったそのイメージは、まるで、父と子と聖霊のように見える。このように聖霊の位置に「人間の知識」が置かれることで、人は、現実に、聖霊と一つになって行為を成すことができる。そこで、「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」(創2:15)とあるように、人は、「そこを耕し、守る」という具体的な仕事を通して、聖霊と一つになって行為を成すように養成されたのである。こうして、人相応の神の霊を授けられた人が、聖霊と共に働く姿を見て、神である主は、「人」に、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:16~17)と命じられた。人を男と女に分ける計画を進めようとされていたのである。 

Maria K. M.


 2026/06/08


251. ヨハネ福音書と新約の司祭職 二つの自発性

ヨハネ福音書は、新約の司祭職の核心を伝えるために、5章からイエスが「人間の情報」と本格的に対峙する様子を描いていく。そこで、その前に、これまで考察してきた「人間の情報」について振り返ってから、先に行きたいと思う。 

まず、上の絵をよく見ると、イエスの右には、内奥に悪い計画を秘めながらも、イエスに親しみを込めて接吻するイスカリオテのユダがいる。左には、善意に駆られてイエスを守ろうとして、大祭司の僕に剣で切りかかろうとしているペトロがいる。ここで彼が剣を持っていたのは、過越しの食事の後、オリーブ山に祈るために出かけるにあたって、イエスと弟子たちのやり取りから、彼は、剣を持っていくのだと受け取ったからである(ルカ22:35~38参照)。その周りには、上官の言葉に従順し、任務を忠実に実行するよう訓練された兵隊たちが、イエスを取り押さえようとしている。ここには、さまざまな「人間の情報」を、自分の知識として取り込んだ人々が、それぞれの徳や倫理に従ってイエスを取り囲んでいる。その中で御父のみ旨を成し遂げようとするイエスだけが、ただじっと前を見て立っている。 

このイエスと、他の人々との違いは、その自発性にある。全被造物は、存在そのものであり、「私はある」と言われる神が、「あれ」と命じた御言葉によって創造された。それに応えて存在する被造物は、存在のための自発性を授かっている。神が被造物の内に現したこの自発性によって、全被造物は、全能の神である永遠性と真理である神の自由とを具現し、神を讃えるのである。 

被造物の中で、命ある生き物は、種によって存続する自発性で神の「あれ」に応える。さらに動物は、「産めよ、増えよ」(創1:22,28参照)と神が命じた御言葉によって、動物相応の自発性を授けられた。これらの自発性によって動物は種の命を存続させ、各個体は、限りある命の時を生きることで神に賛美を捧げている。このように、これらすべての命ある生き物にとって、子孫を残し、種を存続させることは全生涯をかけた使命である。そこで、「産めよ、増えよ」という御言葉から現れる動物の自発性は、その個体を種の存続に向けて強烈に動かしている。動物の生命維持のプログラムは、生殖機能の働きによって管理されているといっても過言ではないのである。 

生き物は、種の存続を最適化するために、その記憶にそれぞれ分相応の知識を授かっている。自発性は知識とつながることで行為に至る。「産めよ、増えよ」と命じる神の言葉にその自発性を持つ動物においては、その知識が生殖機能の働きに従属する。それを本能や性欲という言葉で代替するのは、あまりに狭義な捉え方である。生き物はその種を維持するために、複数になると個体ごとの知識を共有することから、「情報」が発現する。その情報にどのように最適化できるかということが、その種にとって存続のための重大要因となると、その生き物相応に戦略がめぐらされるようになる。そこに、自然淘汰が起こるのである。 

生き物が複数になることによって発現する情報は、神の被造物ではなく、また、神がそう命じたものでもない。しかし、三位一体の神の関係をもって森羅万物を創造した方の在り方を映しているのである。生き物は、同種の個体間に発現する情報によって知識が進化することで、世界に適応し存続し続けることが可能になる。神はそれらも含めて、ご自身の創造をご覧になり、それを良しとされた。これらの情報の中で「人間の情報」は、きわめて急速に、そして高度に進化する。神は、神のかたちに創造した人が「我々の姿」(創1:26)を現わすことを前提に、人相応の知識を与えられたからである。それぞれの人の自発性が、子孫のために情報を駆使して最適化に進めば爆発的な力を発揮する。このことを予期しておられた神は、人の内に「我々の姿」を現すとき、初めに人を一人の人として造ったのである。 

イエスが、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)と言われたように、人に「我々の姿」を現わすとは、人に神の霊を授けることである。そこで創世記2章では、三位一体の神の関係をもって森羅万物を創造する方を「神」と呼んでいる1章と異なり、4節から、「神である主」と言い換えている。それは、御父と御子を示している。人に霊を授け、三位一体の神の内に人を招き入れるために、御父と御子が、人と、人に関わる聖霊とに対峙されるという関係性を取られたのである。そして、「神である主」は、「命の息」を人の鼻に吹き入れた。「命の息」は、人が聖霊と協働するために、聖霊の息を通して人相応にその人の内に御父が現した「神の自発性」である。 

このように人は、知識を挟んで二つの自発性を持つようになった。一つは、「産めよ、増えよ」と命じる神の言葉から成る肉体の自発性。そして、霊である神の姿を現すために鼻に吹き込まれた神の自発性である。神は、人相応の知識が神の自発性とスムーズにつながり、人が聖霊と協働して生き、永遠の命という神の現実に与るように、人を養成された。イエスも弟子たちを同じ養成に与らせた。そして、使徒たちの頭となるペトロには特に厳しく、「人間の情報」を自分と区別することを指導してきたのである。上の絵にあるように、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした」(ヨハ18:10)。ルカ福音書には、「イエスは、『もうそれでやめなさい』と言い、その耳に触れて癒やされた」(ルカ22:51)とある。 

ここでイエスは、神の自発性とつながった人の姿を、最後に身をもってペトロに見せたのである。 

Maria K. M.


(お知らせ)

インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。

 ➡ 「パトモスの風⑫」

 

 


 2026/06/01

250. ヨハネ福音書と新約の司祭職 振り返りと第二のしるし

「ヨハネ福音書と新約の司祭職」というテーマで始めた考察は、4章のイエスとサマリアの女との対話の場面になって、新約の司祭職に関わる非常に凝縮された内容が伝えられていたために、それと関連した事柄に多くの時間を費やした。ここに至るまでを振り返ると、ヨハネ福音書は、1章の冒頭から創世記を想起させるような文脈で始めて、天地創造以来、旧い契約の間に神と人の間に起こったことを、読者が思い出すようにさせている。神が人を創造した原点に、天地万物の創造を完成した神が、安息され、祝福して聖別された第七の日を、人々と共に祝うことを望み、人々が神を「霊と真理をもって」(ヨハ4:24)礼拝するようになるまで養成する神の計画があったことにつなげるためである。そこで神は、旧約の祭司職を継ぐ正当な出自を持つ洗礼者ヨハネが、最後の預言者として登場する時を待っていた。 

洗礼者ヨハネは、神の子イエス・キリストが世に公然と現れ、聖霊によって世の光となって、新約の司祭職をもたらすことを預言し続けた。読者は、洗礼者ヨハネの言葉から、聖霊が人に降ること、水の洗礼、聖霊による洗礼について知ることができた。ここで、共観福音書に書かれたように、漁をしていてイエスから召された初めの弟子たちの中には、洗礼者ヨハネの弟子としてすでに養成されていた者たちがいたという意外な事実が示されていた。そして、2章で、御血と御体について示唆されると、イエスは3章で、聖霊の働きについて知らせた。それは、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハ3:15)と言われたイエスの言葉を、ご自身が十字架上で成し遂げられたその状態が、持続可能になるために、聖霊が働かれるからである。 

この世で、神であり人でもあったイエスによって、聖霊の働きが見えるようになったように、神は、聖霊の働きに人の協力を望まれた。イエスは、そのために召された新しい契約の民に授ける新約の司祭職を、御父のもとからたずさえて来られた。格別に信者の男性の記憶に、新約の司祭職が置かれるのは、聖霊がそれを自由に引き出し、女性から生まれるすべての人の命に仕えさせるためである。3章の終わりにある洗礼者ヨハネの最後の預言には、次のように、新約の司祭職を授かった司祭の記憶から新約の司祭職(花嫁)を引き出し迎える聖霊(花婿)の介添え人として、聖霊の口、手足となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の姿が見える。無心となった司祭は、聖霊の声を聞いて大いに喜び、「あの方は必ず栄え、私は衰える」と言った洗礼者ヨハネの言葉を悟っているに違いない。

「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、私は衰える」(ヨハ3:27~30)。 

ヨハネ福音書4章は最後に、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、第二のしるし」(ヨハ4:54)について言及して終わる。このしるしが行われたのは、イエスが、死にかかっていた息子をいやしてくださるように頼んだ王の役人の願いをかなえる場面である(4:43~54参照)。このしるしについては、本ブログ№208で、ヘブライ人への手紙をもとに考察したので、それを参考にしたい。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40)。 

王の役人は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(ヨハ4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言った。彼は、望んでいる事柄を確信しており、イエスが子供を癒すというまだ見えない事実を確認しようとしたのである。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と、子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。そして、「彼もその家族もこぞって信じた」(4:53)とある。彼らは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」旧約の信仰のモデルであった。しかし彼らは、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れなかった。 

「約束されたもの」とは、ヘブライ人への手紙の筆者が続けて、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」と書いた「更にまさったもの」、新約の司祭職である。ガリラヤのカナの婚宴で、ぶどう酒がなくなったことを告げるイエスの母の願いに応えて、水をぶどう酒に変えたイエスの第一のしるしは、ご聖体を暗示している(2:1~11参照)。そこには、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)と書かれている。このとき弟子たちは、ただイエスに従って来ていた。それは、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」旧約の信仰を超えていたのである。 

Maria K. M.


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