イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/01/06


177. 預言された者 その2

ヨハネ福音書の主の復活の場面には、7つのエピソードが描かれている。前々回、175で初めの2つのエピソードを考察し、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を、1000年以上たって、聖痕を受けた聖フランシスコが、身をもって実現したという結論を得た。フランシスコを捉えたサン・ダミアーノの十字架像には、フランシスコの登場が預言されていた(本ブログ№174参照)。彼は、難解とされていたヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けた者として、その時代に現れるべく呼ばれたのだ。聖霊は、フランシスコが生きている間も、また彼の死後も、彼の書き物や伝記から浮かび上がってくる真理によって当時の教会を鼓舞した。それは今も続いている。このような理解に立って、ヨハネ福音書の復活の場面を続けて考察していく。 

マグダラのマリアは、イエスの十字架のそばに立ち、彼の最期に立ち会い、その血と水を受けて、新しい契約の証人、また、誕生した教会の最初の四人の一人となった。彼女の召命については、これまで何度も考察してきた。そして、彼女が、復活したイエスに初めに出会い、それがイエスとは気付かず、図らずもイエスに向かって、イエスのご遺体を「引き取る」と宣言したことは、彼女の召命を証ししていると確信した。しかし、この場面でイエスが「マリア」と声をかけ、振り向いた彼女に、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)と言った言葉の意味が見えてこなかった。それがここにきて、サン・ダミアーノの十字架像と、聖痕を受けたフランシスコの召命についての考察によって明らかになってきた。 

イエスの声に振り向いたマグダラのマリアが思わず「先生」と言ったように、また、イエスご自身も「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」(ヨハ13:13)と断言したように、イエスはその人生を救い主として生きたのではなく、ましてや司祭として生きたのでもなかった。だから当時の人々は、イエスを預言者だと思っていたのだ。このイエスに多くの弟子たちが従っていた。その中には婦人たちもいたのである。 

彼女たちは、自分の持ち物を出し合ってイエスの一行に奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。これらの女性たちは、復活したイエスから「イエスの召命」を受けたマグダラのマリアを筆頭に、イエスの前でイエスが誰であるかを告白したマルタ(ヨハ11:17~27参照)や、イエスとの問答から命の水と新しい礼拝のテーマを引き出したサマリアの女(ヨハ4:1~30参照)のように、イエスに導かれながら彼から具体的に対話を引き出し、自発的に神の言葉を求め、その実りを自身の言動に結び付けていく女性たちだった。こうして男女の弟子たちが対等に「イエスの召命」を継承することができるようになっていた。一方で、当時の人々が、イエスを預言者だと思っていた間も、イエスは、私たちと共にいる神の子であり、救い主であり、彼の短い人生の終わりにその姿を現す司祭であった。イエスのこれらの隠れた特徴は、「マリアの召命」によって明らかになる。 

ヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けたフランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、「イエスの召命」を身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることになった。ゆえに彼は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言ったイエスの言葉の意味を悟っていたに違いない。「イエスの召命」に呼ばれたにもかかわらず、彼は教会の勧めに従って助祭職を受けたからだ。教会への愛のためにキリスト者の男性としての使命を受け入れたのだ。この言葉には、キリストの体となるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒は、ご聖体として司祭の手によって上げられるまで、触れてはならないという戒めが込められていた。マグダラのマリアが女性だったからである。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/12/30


176. 手紙

私は、聖ヨハネ使徒福音記者の祝日に、このブログを読んでくださる一人の友人に手紙を書いて出した。読み返すと、少し長いがブログにも投稿しようと思うものがあった。初めと終わりの挨拶を除くと、次のとおりである。また、挿絵は彼女の作である。 

わたしのブログは、聖フランシスコから大きな助けをいただくようになりました。もともとわたしは、聖フランシスコに興味がなく、サン・ダミアーノの十字架像も注意して見たこともなかったものですから、まさか、そこに描かれた図柄が、ヨハネ福音書と黙示録に関わっているとは夢にも思っていませんでした。神のみ手に運ばれていろいろと出会いがあってここへ導かれました。大きなお恵みをいただいたと感謝しています。このお恵みをなんとかして生かし、伝えようと決心しています。どうかお祈りください。 

神は、唯一、「わたしはある」(ヨハ8:58)と言える方で、ヨハネの手紙が次のように伝えているように、また、聖フランシスコも書いているように、「神は愛」です。この真理を夢中になって述べ伝える証人になりましょう。 

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(一ヨハ4:7~8)、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(4:16)。 

「神の愛」に留まるために、わたしたち信者は、ご聖体が示す神の無情報に注目し、あらゆる情報から貧しくなって、「聖霊と協働する時」に集中できるように努力が必要です。「イエス」の名によって遣わされた聖霊とよく協働するためには、イエス・キリストの世界観を保持していることが必須です。それを注入する力が、ヨハネの黙示録を朗読し、聞く訓練にあります。黙示録の言葉を文字通り受け取り、実行する者は、神の洗いを受け入れる小さい者です。 

わたしは、聖フランシスコが黙示録の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)という箇所を読んで、子供のように素直にこの言葉を実行したと思います。彼の書き物を読むと、彼が、ご聖体と「人間の情報」、すなわち善悪の知識に向かったことが分かるからです(本ブログ№169№170参照)。それは、無情報としてのみ人が捉えることのできる偉大な神の「わたしはある」を知って、神の自発性と神の知識によって創造された自分、すなわち情報の塊である自分自身を理解するためです。黙示録のこの箇所は、黙示録を朗読し、その声を聞いて、自分の記憶に入るままにさせる訓練を日々続けることで、「中に記されたことを守る人たち」になることができることを保証しています。忙しいとき、自分に難しさがあるとき、一日にたった一行しかできなかったとしても、また、何かの事情でもっとたくさんできるときも、その声は、流れる水のように自分の記憶に入り、神の洗いは続きます。 

神の洗いを受け入れる小さい者は、ご聖体の前でいつも神の無情報を見つけます。それは、その人がご聖体に集中すると、たとえ一瞬でも、自分の内と外の「人間の情報」から貧しくなるからです。そして、ご聖体を拝領するとき、日々神の洗いを受け入れる小さい者には、真に貧しい者となる瞬間が訪れます。そこで、わたしは、いつもお話ししているように、ご聖体を拝領する時、ご聖体がわたしたちに次の二つのことを尋ねていると思うのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)と、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)という問いです。 

わたしたちは、その答えを知っています。マリアとヨセフが天使によって、生まれる子がイエスと名付けられることを知っていたように、わたしたちは、新約聖書によってそれらの答えを知っています。マリアとヨセフが聖霊とマリアの協働によって授かった命は、完全な人として人間の肉を取った神でした。その名はイエスです。一方で、わたしたちが聖霊と司祭の協働によって授かる命は、パンとぶどう酒がキリストの肉となった神です。その名は「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)です。イエスは、この名を現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)とはっきりと証ししました。 

そして、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という問いは、イエスがベタニアでラザロを復活させる前に、マルタに問うたものです。それは、イエスが命のパンであることを証しした箇所で語ったすべてのことを信じるかという問いです(ヨハ6:22~59参照)。マルタの次の答えは、彼女がそれらすべてを理解できずとも、信じたことを証ししています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハ11:27)。 

ずいぶん長くなってしまい、また終わりには、これまで何度も取り上げたテーマに行き着いていますが、あなたにも真剣に考えてもらいたいからです。世界中のカトリック信者は、ミサの中で司祭が奉挙するご聖体を前に、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えて、ご聖体を拝領しに出ていきますが、それは信者にとって相応しいこととして満足できるのでしょうか。 

イエスがご自身から出向いてきても、その謙遜ゆえにけして自分の家に彼を迎え入れることがなかった百人隊長の信仰を、それでもイエスは、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言って褒めました。それは、彼に従ってくる群衆を前にしていたからです。しかし、最期の食事の前に、ペトロの足を洗おうとするイエスに対して「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハ13:8)と言ったペトロの謙遜を、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という言葉によって、イエスは、厳しく退けました。神の謙遜を前にして、人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになります。実際に百人隊長の謙遜は、彼の僕や家族がイエスに出会う機会を奪うことになったのです。 

現代のわたしたちにとって、ご聖体が「神の子、キリスト」であることを告白すること、声に出して告白することが必要ではないでしょうか。信者の内奥には、ご聖体に向かって、「あなたは神の子、キリストです」と告白したいという望みがあるのです。どうか、考えてみてください。 

Maria K. M.






 2024/12/23


175. 預言された者 その1

前回考察したように、サン・ダミアーノの十字架像に聖フランシスコが預言されていたのであれば、その理由がヨハネ福音書の中に隠されているはずだ。そして、この十字架像のイエスがご聖体を表しているならば、それは復活したイエスを表しているのだから、ここに描かれた場面は、イエスの復活の場面に関わっている。その最初の場面は、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません』」(ヨハ20:1~2)である。 

マグダラのマリアと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、その二日前にイエスの母とクロパの妻とともに十字架のそばに立ち、イエスのわき腹から流れ出た血と水を浴びて、新しい契約の締結と教会誕生の証人となっていた(ヨハ19:25~35参照)。マグダラのマリアが知らせに走る場面で、ヨハネ福音記者が、まずシモン・ペトロの名を挙げたのは、その次の場面で、ペトロより速く走って、先に墓に着いた「もう一人の弟子」が、中に入らずペトロを待っていたのと同じ理由である。ヨハネ福音記者には、天の父とイエスから、ペトロが教会の頭として選ばれたという意識があったのだ(マタ16:17~19参照)。そして、その出来事とともに、このときからイエスが打ち明け始め、何度も語ったご自身の復活について、使徒たちが覚えていないわけはなかった。 

イエスが蘇らせたラザロのケースを思い出せば、墓にイエスの体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いが残っているのは、さすがに奇妙だと感じただろう。また、地震や天使、白い長い衣や輝く衣を着た人の出現を書いた他の福音書と異なり、ただ空になった墓を見ただけでは、「もう一人の弟子」も遺体が取り去られたと考えるよりなかった。「墓から取り去られました」と言ったマグダラのマリアの言葉を信じたのだ。しかし彼は、ペトロに意見を尋ねることはできなかった。木曜の夜、捕らえられたイエスを三回否んだペトロの体験を鑑みれば、それは当然の思いである。サン・ダミアーノの十字架像の下方、イエスの左膝下の横に描かれた雄鶏は、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ13:37)と言ったペトロを、イエスがみ言葉によって守ったしるしである(13:38参照)。 

ただ、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(20:9)ということは確かであった。それはイエスが、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)と言っていたからだ。ペトロと「もう一人の弟子」は、イエスの遺体が取り去られたことについて他の使徒たちと相談するために「家に帰って行った」(ヨハ20:10)。彼らは墓に番兵を置いた祭司長たちを恐れていたのである(マタ27:62~6628:11~15参照)。 

一方、マグダラのマリアは一人残り、墓の外で泣いていた。そこに復活したイエスが現れた。このとき、園丁だと思った彼女には、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(ヨハ20:15)と言うだけの気力と熱い望みがあった。「わたしが、あの方を引き取ります」という望みは、彼女固有の召命を表していた。そして、彼女が引き取ると言ったイエスの遺体には、4つの釘の跡と、わき腹の傷があったのである。 

サン・ダミアーノの十字架像の左端に小さく首から上だけ描かれた男、預言された者、第三のヨハネであるフランシスコは、眼を見開いて十字架上のイエスを凝視している。後に聖痕を受けたフランシスコは、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を、身をもって実現した。フランシスコは、マグダラのマリアと同じ召命に呼ばれていた。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/12/16


174. 三人のヨハネ

サン・ダミアーノの十字架像には、特徴的な三人の男が描かれている。上部に描かれた封印のついた巻物を持つ黙示録の著者ヨハネ、中央の十字架像の右側にイエスの母とともに描かれた使徒ヨハネ、そして、十字架像の左端、百人隊長の後ろに小さく首から上だけ描かれている男である。これら三名の男たちは、他の人物にはない特徴ある額のかたちで描かれている。 

封印のついた巻物を持つ黙示録の著者ヨハネの描写は、黙示録に注意を向けさせるためであった(本ブログ№161参照)。イエスの母とともに描かれた使徒ヨハネの描写には、司祭職と司祭が描かれている(本ブログ№166参照)。それでは、百人隊長の後ろにいる第三の男は誰で、彼のテーマは何であろうか。 

まず、そこに描かれている百人隊長は、キリスト教を受け入れたローマ帝国を表している。ローマ帝国に根付いたキリスト教は、西ローマ帝国の滅亡からローマを守った。800年後、キリスト者となることが当たり前の場所と時代にフランシスコは生まれた。当時、ギリシア哲学、特にアリストテレスの教えがカトリック教会に影響を与えつつあった。 

一方、フランシスコ自身は、学問的な影響をあまり受けることなく、教会の教えに対する素直な信仰と簡素な生活を重視していた。サン・ダミアーノの十字架像から、ヨハネ福音書と黙示録を授かったフランシスコを、聖霊が導いて真理をことごとく悟らせようとしていたからだ。サン・ダミアーノの十字架像は、フランシスコが誕生し、やがてそれを見に来ることを預言して彼を待っていた。第三の男は、彼もまたヨハネの名を持つ、本名ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ、すなわち聖フランシスコである。この男の後ろには、彼に従う人々の頭部らしきものが描かれている。 

サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写は、神の国の到来を告げたイエスの血による新しい契約の締結とともに誕生したイエスの教会が、その使命を達成した場面に見える。入信することでキリストの救いの業を継承する信者は、完成したミサ典礼の中で、ご聖体を囲んで、司祭と、会衆という立場を取り、さらに、神の独り子を授かった聖家族、マリア、ヨセフ、イエスにあやかる3つの召命を持っている。 

フランシスコにとっての課題は、十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、まず、「イエスの召命」を、身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることにあった。しかし彼は、教会の勧めに従って助祭職を受け入れた。教会を愛していたからだ。教会の召命は聖家族に根ざしている。フランシスコの視点はおのずとご降誕の馬小屋に向かった。 

「飼い葉桶の上で荘厳なミサがあげられ、フランシスコは助祭として、聖福音を朗読した。それから、周囲に立っている人々に向かって、貧しい王の誕生に関して説教を行ったが、その方の名を呼ぶときには、やさしい愛をこめて、ベトレヘムのみ子、と呼ぶのであった」(『ボナヴェントゥラによるアッシジの聖フランシスコ大伝記』)。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/12/09


173. 小さな巻物

サン・ダミアーノの十字架像の前で、聖フランシスコは真理を受け取った。一つは、ヨハネ福音書から、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)というイエスの言葉を悟り、共観福音書をはじめとした新約聖書を、ヨハネ福音記者の視点で読むことであった(本ブログ№169参照)。もう一つは、黙示録を朗読し、それを聞くことで、イエス・キリストの世界観を暗黙知として彼の記憶に蓄積していくことだ。黙示録を読んだフランシスコは、そこに書かれたことを素直に実行したにちがいない(黙1:3参照)。それは、啓示を新約聖書から直接受け取ることを助ける。黙示録には、新約聖書が伝える啓示と預言の内容が織り込まれているからである(下図「ヨハネの黙示録の預言的構成」参照)。そこで彼は、いつも「命である」ご聖体に向かっており、司祭職を尊び、聖書に関して博識であった。そして、十字架像に描かれたご聖体のイエスと、その右と左に分かれて描かれた人々、すなわち教会の召命が、頭から離れなかったに違いない(本ブログ№166参照)。 

以下は、ヨハネ福音記者の視点で新約聖書を読むことの一例である。十字架上のイエスが息を引き取る直前の言葉を各福音書から拾い、時系列に並べると、そこに筋の通った物語が出現する。この物語は、三共観福音書に書かれたイエスの最期の食卓の聖体制定の場面を、それを書かなかったヨハネ福音書の十字架のそばで起こった事柄とつなげ、ご聖体と司祭職の行方、神の国の到来と新しい契約の締結、そして、イエスの教会の誕生を証しする。 

イエスは十字架上で最期を迎えた時、新しい契約のために御父がその当事者たちを引き寄せるのを待っていた。御父が引き寄せなければ誰もイエスのもとへ来ることはできないからだ。彼は嘆願の叫び声をあげた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46、マコ15:34)。この叫びは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46) という祈りになった。 

遂に、十字架のそばに御父が引き寄せた人々が集まった。イエスの母、クロパの妻マリア、マグダラのマリア、そして使徒ヨハネである。ここでイエスは、神の子イエスと共に彼の司祭職も受け取った母マリア(本ブログ№167参照)と使徒を、親子の絆で結んだ。それは、前晩にイエスから「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じられた言葉を実現するために、使徒たちが司祭職解けない絆で結ばれた保証であった。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハ19:27)とあるとおり、使徒は司祭職を受け取ったのである。 

この事実は、黙示録に、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女は蛇から逃れ、そこで一年と二年と半年の間、養われることになっていた」(黙12:14)と書かれたことと合致する。「女」は司祭職である。「鷲」はヨハネ福音書を指している。「荒れ野」とは、イエスの母と解けない絆で結ばれた使徒たちの記憶だ。こうして、使徒たちの記憶に隠された司祭職は、「人間の情報」(「蛇」)から逃れ、相応しい時まで養われることになっていたのである。 

「この後、イエスはすべてのことが今や成し遂げられたのを知り」(ヨハ19:28)、「渇く」と言って酸いぶどう酒を受けた。それは、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言ったイエスが、「神の国」が到来したことを告げたのだ。そして、「成し遂げられた」(ヨハ19:30)と言い、「息を引き取られた」(マタ27:50、マコ15:37、ルカ23:46、ヨハ19:30)。その後、イエスのわき腹から流れ出た血と水は、御父が引き寄せた人々の上に降りかかり、「わたしの血による新しい契約」(ルカ22:20)が締結されたことを証しし、同時にイエスの「教会」を生み出した(ヨハ19:34~35参照)。 

このように、フランシスコがサン・ダミアーノの十字架像から受け取ったヨハネ福音書と黙示録の真理は、新約聖書の中で御言葉が生きていることを表している。彼は、黙示録の著者ヨハネがしたように(黙10:10参照)、十字架像の上端に描かれた小さい巻物を小羊の手から受け取って、食べてしまったのだ。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/12/02


172.

前回、聖フランシスコの小品集をもとに、人の意志について考察した。創世記の記述に照らすと、神は、ご自分に似せて人を創造するために、人に意志を与えた。人の意志は、神が吹き入れた「命の息」である人相応の「神の自発性」と、神が「命の木」として生え出でさせた「神の知識」が結びついて発現し、それは、神の似姿に創造された人の自由意志になるはずであった。「神の自発性」である「命の息」が、「自由」の源泉だからである。しかし人は、「命の木」からは取って食べず、かえって禁じられていた「善悪の知識の木」から取って食べたため、「神の自発性」と「人の知識」を結び付けて意志を発現することとなった。「人の知識」は、受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」によって進化する。このため、人の意志は善悪の知識の縛りを受けて、「神の自発性」の自由を発揮することができない。こういう訳で、人には、神がご自分に似せて人を創造するために望んだ自由意志が発現しないのである。 

イエス・キリストは、「神の自発性」と「神の知識」が一つになって発現している完全な自由意志を持つ神が人となった方である。イエスの到来は、旧い契約のもとで、人相応の「神の自発性」に「人の知識」を結んで意志を発現して生きていた人々に、神が望んだ自由意志を、人が発現することができることを証しした。しかしながら、人相応であっても、「神の自発性」に、それとは全く不釣り合いな「人の知識」を結び付けて意志を発現している多くの人々、ときに死と背中合わせになるような矛盾を抱えて生きる多くの人々は、イエスの勧めに抗い、しまいには憎んでイエスを殺そうとするようにまでなった。神であっても完全に人でもあったイエスは、その制約の中で、弟子たちと後に降臨する聖霊のために、神の計画を成し遂げていった。 

「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている」(ヨハ13:18)と言ったイエスは、ご自分の弟子たちが、聖霊降臨後に、聖霊と協働するために必要なすべてを準備した。人は聖霊と協働することによって初めて自由な意志を手にすることができるからである。イエスは、まず、その記憶に残るように弟子たちの知識に感覚を通して御言葉を挿入し続けた。聖霊に触れられた時それを思い出すためである。聖霊に触れられた感覚は、「神の無情報」、すなわち、ご聖体からパンとぶどう酒の情報を除いたものと接触する感覚である。信者は、聖体拝領において、「神の無情報」に触れられた感覚を体験する。 

神から授かった自発性の自由が、「意志」において発揮されるために、ふさわしい知識を人の脳の中に直接もたらすことができるのは、物理的な体をもたない聖霊がその人と協働する時である。ゆえにイエスは、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。聖霊は、私たちの抱えている矛盾を、私たちの内奥から私たち自身に知らせ、私たちが陥る自身への裁きの弁護者となってくださる。 

イエスは、ご自分が選んだ弟子たちが、弁護者である聖霊を受け入れるようになるまで、神の啓示と「人間の情報」を区別することを訓練した。その訓練を未来のキリスト者たちのために再現するのが、ヨハネの黙示録である。黙示録を声に出して読み、その声を聴く訓練は、信者が、聖霊の働きと「人間の情報」を区別することを感覚的につかむことを可能にするだけではない。新約聖書が伝える啓示と預言の内容を織り込んだ黙示録は、信者が、この世に現れたイエス・キリストの世界観を無意識的に、暗黙知として得ることを可能にする。人の意識の中だけでは、神であるイエス・キリストの世界観を収めることができないからだ(下記図参照)。黙示録は、聖霊と出会うすべての場面で、聖霊が働く「神の現実」に自らを最適化することができるように信者を準備する。 

聖フランシスコは、ヨハネの黙示録を読み込んでいたことが、彼の書き物からうかがい知ることができる。しかし、多くの人々は、彼の言動の内に、サン・ダミアーノの十字架像から彼が授かったヨハネ福音書と黙示録の真理があることに思い至らない。フランシスコが神のみ手に運ばれるようになったからである。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/11/25


171. 自分の意志

『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の第2のテーマ、「我意の悪」は、次のとおりである。 

「神は人に仰せになりました。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木から決して食べてはならない』(創2:16~17参照)。人は、従順に背かない限り、罪を犯すことはなかったので、楽園のすべての木から食べることができました。実に、次のような人こそ、善の知識の木から食べているのです。すなわち、自分の意志を己のものとし、自分の中で神が語ったり、行ったりされる善について誇る人です。このようにして、悪魔のそそのかしと、掟の違反とによって、悪の知識の木の実になります。それで、罰を受けなければならないのです」(『アシジの聖フランシスコの小品集』の第一章「訓戒の言葉」、テーマ2「我意の悪」、p31参照)。 

神は、ご自分に似せて人を創造するために、人に意志を与えた。「命の息」を吹き入れ、園の中央に「命の木」を生え出でさせたのだ。「人は、従順に背かない限り、罪を犯すことはなかったので、楽園のすべての木から食べることができました」とフランシスコが書いた通りである。しかし、人と人の間にすでに「情報」が発現しており、人は神の命令とは異なる認識をしていた。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない」(創3:3)と捉えていたのだ。それで、「命の木」から取って食べなかったために、「命の息」と「命の木」は結ばれることがなく、人は神が与えた意志を自分のものにすることができなかった。かえって、「善悪の知識の木」から取って食べたことによって、「人間の情報」によって進化する人の知識を「命の息」と結んで「自分の意志」を得たのである。その知識は確かにその人のものであるが、自発性は神のものである。 

一方、聖霊は、協働しようと信者に常に働きかけている。その力に触れた信者の中には、「自分の中で神が語ったり、行ったりされる善について誇る人」が出てくる。「自分の意志を己のものと」しているからである。このような人の実りは、信者であっても「悪の知識の木の実」になる。それで、罰を受けることになる。しかし、すべての救い主である神は、罪とも罰とも無関係である。社会倫理や規則など、すなわち人の知識がその人を罰するのである。 

神は、ご自身に似せて創造した人の「自分の意志」の自由を保証している。しかしそれは、神が人に自由意志を授けたということではない。神が人に授けたのは、人相応の「神の自発性」である。それは、「命の息」(創2:7)であった。これを神から吹き入れられたことによって、また、この自発性が「命の木」と結ばれることによって、人は神の似姿として生きるようになるのである。自由は神の自発性にある。「意志」は神の与えた自発性と知識の、いわば化合物のようなものだ。そこで、「意志」において神から授かった自発性の自由が発揮されるためには、それにふさわしい知識と結ばれなければならない。それは、神の啓示以外にはないのである。 

フランシスコは人の知識が善悪であることを知っていた。それは、人と人の間に発現する「人間の情報」が、受け取る人によって善にも悪にもなるのを見たからである。この「人間の情報」を、神から与えられた自発性と結んでも、善悪の縛りを受けて、自由な意志となることはない。神の啓示は神の知識であり、イエス・キリストの御言葉であり、真理である。イエスが「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:31~32)と言ったとおりである。 

信者がイエスの言葉にとどまるために、信者を導いて真理をことごとく悟らせてくださる「真理の霊」(ヨハ16:13)である聖霊は、いつも信者と共にいる。ゆえに、信者が聖霊と協働する時にこそ、そこに自由意志が発現すると言える。前回の考察で、フランシスコがそうであったように、神の啓示と「人間の情報」を区別すること、すなわち聖霊の働きと「人間の情報」を区別することを知っていることは、その前提条件である。そのためにヨハネの黙示録が新約聖書にある。 

つづく 

Maria K. M.

 


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