イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/02/10


182. 預言された者 その6

ヨハネ福音書の主の復活の場面の最後のエピソードは、次のように始まっている。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」(ヨハ21:20)。そこで、まず、「あの夕食のとき」の「イエスの愛しておられた弟子」について思い出す必要がある。 

ヨハネ福音書の最期の食事の席で、イエスは、ペトロの足を洗うとき、「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」(ヨハ13:10)と言った。ペトロは近くでその声を聞いていたはずである。そしてイエスは、使徒たちの足を洗った後、「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」(13:18)と言い、「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」(13:19)と前置きしてから、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」13:21)と断言した。 

この緊迫した流れの中で、弟子たちは、誰について言っているのか察しかねて、ペトロが、イエスのすぐ隣にいた「イエスの愛しておられた弟子」に、誰について言っているのかと尋ねるように合図したのだ。「その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた」(13:25~26)とある。その後の物語の流れを見ると、このイエスの答えは、胸に寄りかかっていた弟子だけに聞こえたのではないかと思う。他の使徒たちは、イエスがユダに浸したパン切れを与え、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(13:27)と言ったことにすぐ注意を向けた。だから、「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった」(13:28)と書かれている。 

ユダが出て行った後、残った彼らは、何事もなかったように、イエスとの語らいに戻った。先に「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と言ったイエスの言葉を聞いていたペトロでさえ、もう関心を失くしてしまったようだ。その原因は、「イエスの愛しておられた弟子」が、イエスの胸もとに寄りかかったままで、平和の内にイエスに尋ねたことにある。彼は、イエスが使徒たちの足を洗う姿に、御父の熱情とともに、母の思いをもって示した神の愛を見て信じたのだ。彼は、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(14:10)というイエスの言葉をすでに体験していた。御父がイエスの内におられることを信じ、神であるイエスの「子」となっていたのである。 

「イエスの愛しておられた弟子」とは、神であるイエスの「子」となる者である。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(1:12~13)と書かれたとおりである。その後イエスは、使徒たちに向かって「子たちよ」(13:33)と語りかけた。そして復活後、イエスはもう一度「子たちよ」と呼びかけている。それはまさに、復活したイエスが漁をしている彼らに「子たちよ、何か食べる物があるか」(21:5)と問うた時であった。 

聖フランシスコは、このように「イエスの愛しておられた弟子」が神であるイエスの「子」であったこと、さらに黙示録に「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙21:7)とあること、そして、「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタ23:9)と言ったイエスの言葉を鑑みて、修道生活に母と子というビジョンを持ったのではないか。ここから、彼がどれほど新約聖書を知っていたかが伺えるのである。サン・ダミアーノの十字架像は、ヨハネ福音書と黙示録の訓練を身に着けることがそれを可能にすることを暗示している。 

:『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)第十章「兄弟レオへの手紙」、第二十三章「隠遁所のために与えられた規則」参照。 

つづく

Maria K. M.


 2025/02/03

181. 預言された者 その5

『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の第20のテーマ「よい修道者とむなしい修道者」では、次のように書いている。「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ、自分のすべての楽しみと喜びを見いだし、それらによって人々を満足と喜びのうちに神の愛へ導く修道者は幸いです。暇つぶしのむなしい言葉を喜び、それによって人々を笑いへ導く修道者は不幸です。」ここには、サン・ダミアーノの十字架像をとおしてフランシスコが受け取ったヨハネの福音書と黙示録の極意がある。彼はまさしく、「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ」という言葉をヨハネ福音書から身に着け、「幸い」と「不幸」の感覚、そして、それを自分自身の中で他者を見るかのように見分ける力、メタ認知力を黙示録の訓練から身に着けていたのだ。それこそが、「イエスの愛しておられた弟子」の姿である。彼はこのポジション、「イエスの召命」に留まりたかったと思う。 

ヨハネ福音書の主の復活の場面に描かれた7つのエピソードの最後の3つは、まさに「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ」ある「神の愛」について明らかにしている。前回考察したように、イエスが、御父の熱情とともに、母の思いをもって神の愛を示したのは、イエスの喜びが「彼らの内に満ち溢れるようになるため」(ヨハ17:13)であった。人々をそこに導くこと、すなわち「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ、自分のすべての楽しみと喜びを見いだし、それらによって人々を満足と喜びのうちに神の愛へ導く」ことは、すべてのキリスト者の務めである。キリスト者は、キリストの弟子、キリストの名を背負った修道者だからだ。 

その可否は、新しい契約の司祭職にかかっていた。新約聖書を読むと、御父の熱情とそれを負った御子の思いが、新しい契約の司祭職を目指していたことが伝わってくる。神は、初めの男性に、「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで」(創3:19)と言った時から、聖霊が降臨し、新しい契約の司祭が聖霊と協働してご聖体を生み出すその時を待ち構えていたのである。この神の計画は、私たちの間にある「神の国」が、キリスト者によって証しされ、全世界に認知されるまで、今も止むことがない。それが、すべてのものを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と神が言った時点に到達する時である。ミサ典礼が完成したなら、それが「神の国」であったと私たちキリスト者が実感するだろう。ご聖体を生み出すために聖霊と協働する男性、使徒とその後継者たちは、イエスの母マリアから受け継いだ司祭職を存続させて(ヨハ19:26~27参照)、イエスが示した「神の愛」を未来のキリスト者に保証し続けるのである。 

5つ目のエピソードでは、大漁の後、使徒たちが魚のかかった網を引いて、舟で戻って陸に上がって見ると、炭火がおこしてあった。パンもあった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(ヨハ21:12)と声をかけた。そして、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(21:13)。イエスは、やがて使徒たちの言葉によってイエスを信じる人々に、使徒たちが成すべき手本を見せたのである。ここにこそ、男性である使徒がイエスの母マリアから受け継いだ司祭職の本質がある(ルカ22:27参照)。 

6つ目のエピソードで、イエスは、ペトロの体験をとおして「神の愛」を伝えようとした。復活した日の夕方、イエスは使徒たちの前に現れて、主の平和を与え、彼らを派遣するために、彼らに罪を赦す権能を授けた(ヨハ20:19~23参照)。これによって彼らは、イエスを見捨てて逃げたことや、ペトロがイエスを三度否んだことから癒されていた。この状態が、「神の愛」を伝えることができる時である。 

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた」(ヨハ21:15)と書かれている。かつてイエスは、使徒たちの前で「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と答えたペトロに、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と明かし、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(16:18~19)と約束した。イエスの眼差しは、今再び御父の熱情と母の思いをもって使徒ペトロに注がれた。「この人たち以上に」という条件に、ペトロは応えられるはずであった。 

「ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」(ヨハ21:15)。「わたしの小羊」と言えるのは、御父である。このときペトロに愛を問うたのは御父の御心であった。イエスは続けて愛を問うて、「わたしの羊の世話をしなさい」(21:16)と命じた。これは母の思いを持った御子の御心である。三度目に同じように問うて、「わたしの羊を飼いなさい」(21:17)と命じて続けたイエスの言葉には、これから起こることを告げる聖霊の働きがあった(16:13参照)。著者は、聖霊が降臨した後でその言葉の意味を知ったのである(21:19参照)。三位一体の神の愛を知ることは、人が神の一致の内に入る体験である(17:21~26参照)。そして、イエスは、ペトロに「私に従いなさい」(21:19)と言った。「神の愛」を体験したペトロに再びキリスト者としての道を示したのだ。 

つづく

Maria K. M.


 2025/01/27


180. 御父の熱情と新しい男と女

前回考察したように、御父の熱情は、新しい民、キリスト者の男性の上に注がれていた。それは、神が、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創1:26)と言って始めた御業が、創世記1章にすでに書かれた時点、すべてのものを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と言った時点に到達するためである。 

創世記において、神が自ら土の塵で形づくった初めの「人」は、「第一の人」であった。次に神は、この初めの「人」のあばら骨の一部から女性を創造した。彼女は「第二の人」であり、神の創造の助け手として人の命を生み出す女性となった。ゆえに女性は、体内に人の命となる多くの卵子を持ち、その記憶は、女性に他者の命に開かれた本性をもたらす。この本性は、神と共にあり、神であり、万物を成し、その内に命を持つ「言」(ヨハ1:1~4参照)、第二のペルソナである御言葉との親和性が高い。女性が、初めに言葉を発し、「人間の情報」(蛇)とのやり取りが始まったことからもそれが分かる(3:1~6参照)。 

そして、神は、「第一の人」からあばら骨の一部を抜き取った後、その跡を肉でふさいで「第三の人」、男性を創造した。男性は、女性を見て自身の肉体的不足を知ることとなった(創2:23参照)。その不足の記憶は、男性にそれを満たすために他者に向かう本性をもたらす。神は、男性がこの本性を挙げて神の第三のペルソナである聖霊に向かうようになるために、民を選び、預言者を立て、いくつもの契約を結びながら熱情を注いで導いた。そしてついに、御子を遣わしたのである。ヨハネ福音書の17:6~19のイエスの祈りは、御父の熱情を背負い、これを全うした御子の思いである。そこに映された深い神の愛は、逝こうとしている母が、残していく子を思って祈る姿をイメージさせる。 

時が満ちて神は、ナザレのマリアの協力を得て、神の第二のペルソナをイエス・キリストとして世に遣わした。こうして、空きになっていた「第一の人」のポストは、人々と共にいる神のものとなった。旧約聖書には、女性が性交によらず子を生むことがすでに預言されていた(イザ7:14参照)。それは、新約聖書において、ナザレのマリアによって実現した。1978年イギリスで最初の体外受精による子供が誕生して以来、すでに多くの女性が性交によらず子を生んでいる。イエスの誕生によって起こった出来事は、未来の私たちの時代についての預言になった(黙19:10参照)。このように預言が実現していく過程は、人の歴史に神の現実が関わっていることを実証している。 

以上のことから、神が人を男と女に創造したのは、人が聖霊によって三位一体の神の似姿になるためであったということが分かる。ゆえに、イエス・キリストは、選んだ使徒たちを、ご聖体を生み出す新約の司祭職へと導いたのであった。司祭職を受けた使徒たちは、イエスがご自身の十字架上の死によって生み出した教会の土台となった(黙21:14参照)。サン・ダミアーノの十字架像に描かれた教会は、確かに、新しい男と女に創造された人々によって構成されている。そこには御父の熱情が聖霊を通して吹き込んでいる。 

Maria K. M.


 2025/01/20


179. 預言された者 その4

アッシジの聖フランシスコは、「イエスの召命」を持っていたのに、助祭職を引き受けた。そして、聖痕を受けた。それは、彼がキリスト者の男性だったからだ。このことについて、復活したイエスがマグダラのマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)と命じた言葉から考察する。

 「わたしの兄弟たちのところ」とは、シモン・ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」(20:2)と書かれたヨハネのいた家、すなわちマグダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを見て、知らせに走って行った家である。それは、その前の木曜日に「過越の小羊を屠るべき除酵祭」(ルカ22:7)の準備のために、イエスがペトロとヨハネとを使いに出した先の家である。その時イエスは二人に、「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」(22:10~12)と言った。ペトロとヨハネは、このイエスの言葉どおりに体験した。イエスが「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋」がある家、その家に彼らは泊っていたのである。 

水がめを運んでいる男に出会い、その人が入る家までついて行き、家の主人に何かを願うという場面を、聖霊の降臨した後、彼らは日常的に経験することになる。水がめを運んでいる男は聖霊であり、その人が入る家とは、イエスが「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋」がある家、それは、ミサ典礼が行われる場である。家の主人は御父である。御父に司祭が願うことは、この世で彼らが求める最高のもの、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という願いである。ペトロとヨハネが過ぎ越しの食事を準備したその家で、イエスはご聖体を制定した。聖霊と御父も同席していた。イエスと共に食卓を囲んだ使徒たちはその目撃者、証人であり、その業を継ぐ者であった。彼らによって、ともに食卓を囲むすべての信者の未来がそこにあった。神が我々と共に食卓を囲んでおられるのだ。 

そこで、復活したイエスが、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」という、ご自身と使徒たちの関係に距離を取るような言い方をわざわざしたのは、彼らの目を御父に向けさせるためであった。神は、イエスを世に遣わすまで、歴史の中で、いくつもの旧い契約を通してご自身が選んだ民を導き、共に歩んできた。イエスが弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うた時、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えたシモン・ペトロに、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と言った。御父の熱情は、この時すでに新しい民「キリスト者」の男性の上に注がれていたのだ。 

サン・ダミアーノの十字架像は、視覚に訴えることで、ヨハネ福音書の同じ場面の意味を悟らせる。イエスの左に描かれた二人の女性、「イエスの召命」を持つマグダラのマリアと「ヨセフの召命」を持つクロパの妻マリアの背後には、暗に、それらの召命を持つ男性たちがいる。しかし、その姿は描かれていない。それは、彼らがキリスト者の男性であり、条件が整えば、教会の必要に応えて、すぐにも「マリアの召命」を受け取ること、すなわち司祭職を受け取る準備があるはずだからだ。 

聖フランシスコは、「イエスの召命」を持っていたにもかかわらず、教会の必要に応えて助祭職を受けた。フランシスコが聖痕を受けたのは、このような彼に御父が報いたのであった。 

つづく

Maria K. M.


 2025/01/13


178. 預言された者 その3

聖フランシスコの小品集に残された彼の記憶、そして彼についての伝記は、そこに現わされた真理によって、私たちが信仰において前進するよう強く促している。フランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像で、眼を見開いて十字架上のイエスを凝視している男として預言されていた(本ブログ№174参照) 。彼が聖痕を受け、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を身をもって実現したことと、助祭職を受けていたことは、教会の召命を知る重大な手がかりになった。 

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)とイエスがマグダラのマリアに言ったのは、彼女が女性だったからである。ヨハネ福音記者がこの場面を挿入したのは適切だった。イエス・キリストの教えは男女の弟子たちが対等に受け取り、「イエスの召命」を生きることができるものであったので、女性も男性と同様に司祭職を受けることになるという錯覚が生じる可能性があったからだ。 

イエスの十字架のそばに立ち、イエスがご自分の母と愛された弟子を親子の絆で結んだのに立ち会ったマグダラのマリアは、十字架上のイエスの言葉によって男性である使徒が、司祭職と分かたれない絆で結ばれたことの証人となった。また、イエスの復活の場面では、復活したイエスに、イエスの遺体を引き取ると宣言して、彼女に「イエスの召命」があることを証しした。ここでイエスが、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言った言葉は、彼女に続いて「イエスの召命」に呼ばれることになる女性たちが、司祭職への錯覚を抱くことがないように、イエスにすがりつく手を放し、まだ父のもとへ上っていないキリストの体への執着を捨て、聖霊に向かって一歩を踏み出すように諭すためであった。 

イエスは、続けて「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)とマグダラのマリアに命じている。彼女は迷うことなく「弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(20:18)。それは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちに、イエスが訪れる心の準備をさせた。 

その日の夕方、家の戸に鍵をかけていたのに、イエスが来て真ん中に立った。そして、「あなたがたに平和があるように」と二度も言ったのは、彼らを宣教に遣わす前に罪を許す権能を与えるためであった。マタイ福音書に、「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と書かれている。使徒たちは、ペトロを筆頭にイエスを決して見捨てないとの証しを立てていたのだ。しかし、イエスの受難を目の当たりにした弟子たちは皆逃げ去り、ペトロは、イエスを「知らない」と言って三度否んだ。彼らがそれぞれに、まず自分自身を赦さないなら、彼らはイエスを証しすることができない。宣教することができないのだ。これがヨハネ福音書の主の復活の場面に描かれた7つのエピソードの3つ目のエピソードである。 

4つ目のエピソードは、復活したイエスが現れたことを信じなかった使徒トマスに、イエスが現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ20:27)と言った場面だ。この言葉は、マグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と諭した言葉とは対照的である。彼が司祭職と結ばれた使徒の一人だったからである。 

続けてイエスがトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言ったように、キリストの体になるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒に触れることになる司祭は、「見ないのに信じる人」の幸いを持っているのである。ヨハネ福音記者は、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と解説している。ご聖体を挙げる司祭自身と、彼と共に祭壇を囲む信徒たちが、ご聖体を「神の子メシアである」と信じて告白し、イエスの名により命を受けることになると言っているのである。 

つづく 

Maria K. M.


 2025/01/06


177. 預言された者 その2

ヨハネ福音書の主の復活の場面には、7つのエピソードが描かれている。前々回、175で初めの2つのエピソードを考察し、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を、1000年以上たって、聖痕を受けた聖フランシスコが、身をもって実現したという結論を得た。フランシスコを捉えたサン・ダミアーノの十字架像には、フランシスコの登場が預言されていた(本ブログ№174参照)。彼は、難解とされていたヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けた者として、その時代に現れるべく呼ばれたのだ。聖霊は、フランシスコが生きている間も、また彼の死後も、彼の書き物や伝記から浮かび上がってくる真理によって当時の教会を鼓舞した。それは今も続いている。このような理解に立って、ヨハネ福音書の復活の場面を続けて考察していく。 

マグダラのマリアは、イエスの十字架のそばに立ち、彼の最期に立ち会い、その血と水を受けて、新しい契約の証人、また、誕生した教会の最初の四人の一人となった。彼女の召命については、これまで何度も考察してきた。そして、彼女が、復活したイエスに初めに出会い、それがイエスとは気付かず、図らずもイエスに向かって、イエスのご遺体を「引き取る」と宣言したことは、彼女の召命を証ししていると確信した。しかし、この場面でイエスが「マリア」と声をかけ、振り向いた彼女に、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)と言った言葉の意味が見えてこなかった。それがここにきて、サン・ダミアーノの十字架像と、聖痕を受けたフランシスコの召命についての考察によって明らかになってきた。 

イエスの声に振り向いたマグダラのマリアが思わず「先生」と言ったように、また、イエスご自身も「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」(ヨハ13:13)と断言したように、イエスはその人生を救い主として生きたのではなく、ましてや司祭として生きたのでもなかった。だから当時の人々は、イエスを預言者だと思っていたのだ。このイエスに多くの弟子たちが従っていた。その中には婦人たちもいたのである。 

彼女たちは、自分の持ち物を出し合ってイエスの一行に奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。これらの女性たちは、復活したイエスから「イエスの召命」を受けたマグダラのマリアを筆頭に、イエスの前でイエスが誰であるかを告白したマルタ(ヨハ11:17~27参照)や、イエスとの問答から命の水と新しい礼拝のテーマを引き出したサマリアの女(ヨハ4:1~30参照)のように、イエスに導かれながら彼から具体的に対話を引き出し、自発的に神の言葉を求め、その実りを自身の言動に結び付けていく女性たちだった。こうして男女の弟子たちが対等に「イエスの召命」を継承することができるようになっていた。一方で、当時の人々が、イエスを預言者だと思っていた間も、イエスは、私たちと共にいる神の子であり、救い主であり、彼の短い人生の終わりにその姿を現す司祭であった。イエスのこれらの隠れた特徴は、「マリアの召命」によって明らかになる。 

ヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けたフランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、「イエスの召命」を身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることになった。ゆえに彼は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言ったイエスの言葉の意味を悟っていたに違いない。「イエスの召命」に呼ばれたにもかかわらず、彼は教会の勧めに従って助祭職を受けたからだ。教会への愛のためにキリスト者の男性としての使命を受け入れたのだ。この言葉には、キリストの体となるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒は、ご聖体として司祭の手によって上げられるまで、触れてはならないという戒めが込められていた。マグダラのマリアが女性だったからである。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/12/30


176. 手紙

私は、聖ヨハネ使徒福音記者の祝日に、このブログを読んでくださる一人の友人に手紙を書いて出した。読み返すと、少し長いがブログにも投稿しようと思うものがあった。初めと終わりの挨拶を除くと、次のとおりである。また、挿絵は彼女の作である。 

わたしのブログは、聖フランシスコから大きな助けをいただくようになりました。もともとわたしは、聖フランシスコに興味がなく、サン・ダミアーノの十字架像も注意して見たこともなかったものですから、まさか、そこに描かれた図柄が、ヨハネ福音書と黙示録に関わっているとは夢にも思っていませんでした。神のみ手に運ばれていろいろと出会いがあってここへ導かれました。大きなお恵みをいただいたと感謝しています。このお恵みをなんとかして生かし、伝えようと決心しています。どうかお祈りください。 

神は、唯一、「わたしはある」(ヨハ8:58)と言える方で、ヨハネの手紙が次のように伝えているように、また、聖フランシスコも書いているように、「神は愛」です。この真理を夢中になって述べ伝える証人になりましょう。 

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(一ヨハ4:7~8)、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(4:16)。 

「神の愛」に留まるために、わたしたち信者は、ご聖体が示す神の無情報に注目し、あらゆる情報から貧しくなって、「聖霊と協働する時」に集中できるように努力が必要です。「イエス」の名によって遣わされた聖霊とよく協働するためには、イエス・キリストの世界観を保持していることが必須です。それを注入する力が、ヨハネの黙示録を朗読し、聞く訓練にあります。黙示録の言葉を文字通り受け取り、実行する者は、神の洗いを受け入れる小さい者です。 

わたしは、聖フランシスコが黙示録の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)という箇所を読んで、子供のように素直にこの言葉を実行したと思います。彼の書き物を読むと、彼が、ご聖体と「人間の情報」、すなわち善悪の知識に向かったことが分かるからです(本ブログ№169№170参照)。それは、無情報としてのみ人が捉えることのできる偉大な神の「わたしはある」を知って、神の自発性と神の知識によって創造された自分、すなわち情報の塊である自分自身を理解するためです。黙示録のこの箇所は、黙示録を朗読し、その声を聞いて、自分の記憶に入るままにさせる訓練を日々続けることで、「中に記されたことを守る人たち」になることができることを保証しています。忙しいとき、自分に難しさがあるとき、一日にたった一行しかできなかったとしても、また、何かの事情でもっとたくさんできるときも、その声は、流れる水のように自分の記憶に入り、神の洗いは続きます。 

神の洗いを受け入れる小さい者は、ご聖体の前でいつも神の無情報を見つけます。それは、その人がご聖体に集中すると、たとえ一瞬でも、自分の内と外の「人間の情報」から貧しくなるからです。そして、ご聖体を拝領するとき、日々神の洗いを受け入れる小さい者には、真に貧しい者となる瞬間が訪れます。そこで、わたしは、いつもお話ししているように、ご聖体を拝領する時、ご聖体がわたしたちに次の二つのことを尋ねていると思うのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)と、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)という問いです。 

わたしたちは、その答えを知っています。マリアとヨセフが天使によって、生まれる子がイエスと名付けられることを知っていたように、わたしたちは、新約聖書によってそれらの答えを知っています。マリアとヨセフが聖霊とマリアの協働によって授かった命は、完全な人として人間の肉を取った神でした。その名はイエスです。一方で、わたしたちが聖霊と司祭の協働によって授かる命は、パンとぶどう酒がキリストの肉となった神です。その名は「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)です。イエスは、この名を現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)とはっきりと証ししました。 

そして、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という問いは、イエスがベタニアでラザロを復活させる前に、マルタに問うたものです。それは、イエスが命のパンであることを証しした箇所で語ったすべてのことを信じるかという問いです(ヨハ6:22~59参照)。マルタの次の答えは、彼女がそれらすべてを理解できずとも、信じたことを証ししています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハ11:27)。 

ずいぶん長くなってしまい、また終わりには、これまで何度も取り上げたテーマに行き着いていますが、あなたにも真剣に考えてもらいたいからです。世界中のカトリック信者は、ミサの中で司祭が奉挙するご聖体を前に、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えて、ご聖体を拝領しに出ていきますが、それは信者にとって相応しいこととして満足できるのでしょうか。 

イエスがご自身から出向いてきても、その謙遜ゆえにけして自分の家に彼を迎え入れることがなかった百人隊長の信仰を、それでもイエスは、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言って褒めました。それは、彼に従ってくる群衆を前にしていたからです。しかし、最期の食事の前に、ペトロの足を洗おうとするイエスに対して「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハ13:8)と言ったペトロの謙遜を、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という言葉によって、イエスは、厳しく退けました。神の謙遜を前にして、人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになります。実際に百人隊長の謙遜は、彼の僕や家族がイエスに出会う機会を奪うことになったのです。 

現代のわたしたちにとって、ご聖体が「神の子、キリスト」であることを告白すること、声に出して告白することが必要ではないでしょうか。信者の内奥には、ご聖体に向かって、「あなたは神の子、キリストです」と告白したいという望みがあるのです。どうか、考えてみてください。 

Maria K. M.






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