イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/02/13


78. 二つの命と男性の召命

前回考察したように、創世記で神が女に言った、「あなたは夫を求め、夫はあなたを治める」(創世記3:16)という言葉を、男性側に返し、掘り下げて考察することは、神が、男性に治めることを求めた生殖、すなわち命への責任を解き明かし、男性の召命を発見することになる。

神が、水と空の生き物を創造し、それらを祝福して、「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ」(創世記1:22)と命じた言葉と、人を男と女に創造し、彼らを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記1:28)と命じた言葉の違いは明瞭だ。神が彼らに、「地に満ちて、これを従わせよ」と言った言葉から、人口が地上に満ちたとき、受胎調整をする能力を、神が人には授けていたということを読み取ることができる。人が、止めどもなく増加を続け、飢餓によって絶滅してはならないからだ。後にこの能力は、神から「あなたは夫を求め」と宣言された女性にではなく、「夫はあなたを治める」という言葉によって、男性の体のメカニズムとして授けられていたことが分かる。

人以外の動物の雄は、雌の発情によって従属的に生殖行動を行う。人の場合これと異なり、男性は、女性の発情に左右されず支配的に行動する。すなわち男性は、主体的に受胎調節ができるのだ。だから、男性には、堕胎される命が生まれるのを食い止めるために、妊娠を防ぐことが可能だ。男性は思春期を迎えると、精巣の中で精子の元になる細胞の細胞分裂が開始され、精子が造られ始め、新しい精子ができると、古い精子は体内に吸収されるサイクルを持つ。それとは異なり、女性の卵子は、彼女が胎児であったとき、その数が確定し、誕生した後、彼女の体内で新たにつくられることはない。また、卵子が成熟し排卵するサイクルによって起こる月経を、女性は自らコントロールできない。神は、女性の性欲の根源を、ここに置いたために、女性の体のメカニズムには受胎調節能力がない。性欲は男性の方が勝ると一般的に言われていることだが、神は、受胎調整能力を男性に託したのだ。

聖書において、神が最後に「地に満ちよ」と言われたのは、全地が滅び去る洪水からノアの家族を救ったときだ。このとき神は、命への責任の召命が、男性にあることを明確にした。聖書には次のように書かれている。「神はノアとその息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ』」(創世記9:1)。イエスが12使徒をすべて男性から選んだ背景には、このような神の計画があった。使徒である男性だけを招いた最期の食卓で、聖体の秘跡を制定したのは、聖霊によって神の現存するキリストの聖体の誕生に、聖霊と協働させるためであった。神の計画は、初めからそうであったように、人の命の担い手である女性と、神の現存の担い手である聖霊の協働者として男性を選んだ。ゆえに教会は、名を呼ばれるべき二つの命(本ブログ№77参照)、人の命と聖体の命を守る使命を持つ男性たちのために、最善の教育プログラムを生み出さなければならない。

Maria K. M.


 2023/02/06


77. 苦悶の大聖堂・二つの命

婚姻神秘主義という言葉を知ったのは、ファーガス・カー著「二十世紀のカトリック神学」と出会った時で、私は大きな感銘を受けた。旧約から引き継いだ婚姻のイメージが、教会の教えにパン種のように仕込まれていて、2千年かけて神学になっていったとは思いもよらず、驚きをもっている。教会は、まさに聖書を、アダムとエバの家族が登場する最初のページから、花嫁と小羊の婚宴が現れる最後のページまで、キリストを花婿に、教会を花嫁に結び付けて解釈してきたのだ。人の創造した社会の基盤として置かれた婚姻制度には、不滅的な印象があったのだろう。教会はこのイメージをアナロジーだと言いつつも、実際に表現として取り込み、信者教育に反映させていった。しかし、男女の性的結合を前提とする、花婿と花嫁、夫と妻という表現を使うとき、父と母という言葉が二義的な意味合いを持ってしまう。その神学は、神と人をダイレクトに親子の絆で結ぼうとした神の計画からそれていった。

さらに、家父長制度に直結する婚姻制度のイメージを取り込んだ教会は、権力と権威の温床から脱却できなかった。そして、婚姻のイメージに慣らされ、性的虐待問題を起こす司祭やイゼベルのような信徒(本ブログ№76参照)を生み続け、「大水の上に座っている大淫婦」(黙示録17:1)を形成している。その結果、21世紀の教会は、過去から積み上げてきた過ちのために、大きな代償を求められている。

今も、我々の教会と社会の中で、自分の名を聞くことなく消えていく命があることもその一例だ。それはよく似た状況にさらされている二つの命、ご聖体と堕胎される命である。自身では何もできない、あまりにか弱い命だ。ご聖体は、聖体祭儀の中に生まれても、「メシア、生ける神の子」(マタイ16:16)というご自身の名を、拝領する司祭、信徒の口から聞くことがない。司祭、信徒は、ご聖体を前にして、その名を宣言すれば、婚姻のイメージが払拭され、司祭は花婿であるキリストに似た者ではなく、信徒はキリストの花嫁ではないという現実が明らかになってしまうからだ。そこには身分も格差もない、過ぎ越しの食卓に招かれたイエスの兄弟姉妹、母が現れる。それは、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」(黙示録19:9と言う天使の言葉に、「神の真実の言葉」(同)で答えたからだ。

同じように、堕胎される命は、母の子宮の中に生まれても、自身の名が呼ばれるのを聞くことはない。堕胎の前には妊娠がある。妊娠には必ずその女性と性的関係を結んだ男性がいる。堕胎される命にとって、この男性がその命の前に姿を現すことが救いの一歩である。彼らと同じ男性であるカトリック教会の教役者たちは、彼らに向かって語りかけ、対話しなければならない。彼らの言葉に耳を傾け、「あなた(女)は夫を求め、夫はあなたを治める」(創世記3:16)という神の言葉によって、神が男性に治めることを求めた性と、命への責任を解き明かし、男性の尊厳と使命の真理をともに見出し、教育につなげていかなくてはならない。

Maria K. M.


2023/01/30

76. イゼベル

黙示録の2章と3章は七つの教会の天使に宛てた手紙になっている。これを読むと、これらの手紙が、イエスとその世界観を共にした弟子たちの体験を、次世代に共有させる目的で書かれたことが分かる(本ブログ№75参照)。これらの手紙は「天使」宛てであるが、この「天使」は、司祭を暗示している。その理由は、「あなた」と「あなたがた」を書き分けて、司祭と信徒のいる教会共同体をイメージさせていること、また、各手紙に書かれている「勝利を得る者」に約束していることの内容が、手紙の順を追って神学的に高度になっており、これらの手紙が一続きとして、司祭の成長のモデルを表していると見ることができるからである

天使にたとえられた司祭は、自身の不足や弱さを抱えながらも、任された教会共同体のために、「悪しき者たち」、「自ら使徒と称して実はそうでない者たち」、「バラムの教えを奉ずる者」、「ニコライ派の教えを奉ずる者たち」、また、「サタンの集会に属している者たち」と対峙している。さらに、彼の住む場所には「サタンの王座」があると言われている。手紙を受け取る司祭はこのように難しい状況の中に置かれている。しかし、最も重大な問題は、ティアティラの教会宛の第4の手紙に登場するイゼベルという女の存在である。各手紙の初めに紹介される手紙の依頼主を、この第4の手紙だけが、「神の子」だと明かしていることからも、この問題の深刻さが伝わってくる。それは次の通りだ。「あなたに言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルと言う女をなすがままにさせている。この女は、自ら預言者と称して、私の僕たちを教え、また惑わして、淫らなことを行わせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(黙示録2:20)。

教会共同体の中で、司祭の身近にいる女性信徒の中には、自分が司祭の特別な信頼を得て、その口や手足となって教会に奉仕しているという錯覚を持つ者がいる。ここで司祭が、共同体に対して、その女性との私的なつながりを見せることに躊躇がなければ、二人の上に列王記のアハブとイゼベルのような婚姻のイメージが見え隠れするようになる。そして、彼女が、司祭の権威を後ろ盾に持ったというフィクションの世界に入ったとき、上記のような問題が引き起こされる。司祭が自身の管理能力を自負していても、神からは、「なすがままにさせている」と見える。この二人を目にして苦しむ教会共同体の信徒たちがいるからだ。

「神の子」はこの信徒たちを、次のように言って励ましている。「ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。ただ、私が来るときまで、今持っているものを固く守りなさい」(黙示録2:24~25)。「今持っているもの」とは、この預言の言葉を朗読し、これを聞く訓練を続け、イエス・キリストの世界観を保持することである。黙示録は言う。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1:3)、「見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである」(黙示録22:7)。

【参考】1. 黙示録2:10,13,23,24 2. 黙示録2:7,11,17,283:5,12,21

Maria K. M.


 2023/01/23


75. ソロモンの覗き窓

これまで、ヨハネ福音書の中で、ベタニアのマリア(本ブログ№71,№72参照)とマルタ(本ブログ№73参照)、姦通の女(本ブログ№74参照)を見てきた。ベタニアのマリアと姦通の女は、イエスから対話が引き出されていないこと、また、祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々と連ねて登場していることから(ヨハネ8:3,11:45~47参照)、イエスとは異なる古い契約の世界観の女性たちとして描かれている。

一方、イエスの前でイエスが誰であるかを告白したマルタは、イエスが水をぶどう酒に変える場面のイエスの母(ヨハネ2:1~11参照)、イエスとの問答から命の水と新しい礼拝のテーマを引き出したサマリアの女(ヨハネ4:1~30参照)、復活したイエスから女性固有の召命を受けたマグダラのマリア(本ブログ№35№70参照)とともに、イエスに導かれながら彼から具体的に対話を引き出し、自発的に神の言葉を求め、その実りを自身の言動に結び付けていく女性たちであった。彼らは、イエスとその世界観を共有した新しいタイプの人々で、ヨハネがその手紙の中で、「あなたがたの内には、御子から注がれた油がとどまっているので、誰からも教えを受ける必要はありません」(1ヨハネ2:27)と書いた人々だ。

しかし、この勧めの後、ヨハネは、自分たちの体験がこのままでは次世代に共有されないことに気付いた。イエスを見ないで信じる弟子たちが、御子の内にとどまるためには、イエス・キリストの世界観が必須だったのだ(本ブログ№36参照)。そこで、聖霊はヨハネを促し、黙示録が完成した。この預言の言葉を朗読し、これを聞く訓練を続けることで、人の記憶の中にイエス・キリストの世界観を出現させ、これを保たせることができる。時が迫っていたのだ(黙示録1:3参照)。

しかるに教会は、信者を導くにあたって、キリストと教会の関係に伝統的な婚姻のイメージを持ちこんだ。この教えのもとはソロモンの著と言われる「雅歌」にある。婚姻のイメージを官能的に表現する「雅歌」は、まるで神と親子の絆を結べなかったソロモンの、フィクションの世界を覗き見る窓のようだ。その世界観をベースにして信者を導けば、やがて彼らは、そうとは知らずに、自身の愛の炎の中に引き寄せられ、その愛の火に心を燃やせば燃やすほど、ますます自身の愛に引き寄せられるようになる。その状態で他者に向き、利己的な行為に及んでも、自己が他者に置き換わっただけの彼らには、それに気づく術がない。彼らにとって愛する者と愛される者は一体になっているのだ。この錯覚の中で、彼らは、弱い立場の他者への強要、虐待、脅迫を容易に行うことができる。しかし、その代償はあまりに大きい。「ソロモンよ、あなたには銀一千/収穫物の番人には銀二百」(雅歌8:12)と書かれたとおりだ。

Maria K. M.


 2023/01/16

74. 苦悶の大聖堂

ヨハネ福音書の中には、これまで考察したベタニアのマリア(本ブログ№71,№72参照)のような女性がもう一人いる。姦淫の現場で捕らえられた女性だ(ヨハネ8:1~11参照)。この出来事は、安息日に病人を癒したイエスが(ヨハネ5:1~18参照)、モーセの律法を盾にご自分を弁護したこと、また、ご自分を証ししようとしたこととつながっている(ヨハネ7:14~39参照)。それを聞いた祭司長たちとファリサイ派の人々は下役たちを遣わしたが、イエスを捕らえることができなかった(ヨハネ7:32~53参照)。そこで、今度は、律法学者やファリサイ派の人々が、イエスが民衆に教え始めたその時を狙って、この女性を連れてきてイエスに問うた。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:5)。しかし彼らは、イエスの予想外の反応に狼狽し、その場から一人、二人と去り、最後にはイエスとこの女性だけが残った。このとき、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」(ヨハネ8:10)と問うイエスに対し、彼女が落ち着いており、自分が助かったことの驚きも感情も表明していないことから、この女性は彼らと申し合わせていたと思われる。だからイエスは、「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)と言ったのだ。そして、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」と続けたのは、律法学者やファリサイ派の人々のそばにいて、彼らの陰謀に加担してはならないという勧告だ。

この後(ヨハネ8:12~20参照)、イエスは、このファリサイ派の人々に、「あなたがたは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は独りではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである」(ヨハネ8:15~16)と言った。次に、イエスを信じないユダヤ人たちには(ヨハネ8:21~30参照)、「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう」(ヨハネ8:28)と諭した。そして、イエスを信じたユダヤ人たちにも(ヨハネ8:31~59参照)、「私が自分に栄光を帰するなら、私の栄光は空しい。私に栄光を与えてくださるのは私の父であって、あなたがたはこの方について、『我々の神だ』と言っている」(ヨハネ8:54)と説明した。

イエスがこれほどまでに父である神の名を伝え、ご自身が誰かを宣教し続けたのは、「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)というみ言葉のためであった。イエスは、その宣教の初めから天の父について話してきた(ヨハネ2:16参照)。彼は、論争をいとわず、常に真理を真摯に懸命に語った。苦悶するような激しいやりとりの只中でも、天の父の名とご自身が誰であるかを知らせ続けた。しかし、このイエスの意志を引き継いだ教会は、婚姻のイメージによって、自らそのかかとを砕いた(創世記3:15参照)。

Maria K. M.


 2023/01/09


73. 滅びに至る門 その3

ヨハネ福音書の中で、ユダと同列に並べられたベタニアのマリアについては、ルカ福音書ではイエスの足元に座って話を聞いていたこと以外は何の情報もない(ルカ10:38~42参照)。一方、マルタは、ヨハネ福音書と同様に、ここでもイエスを迎えている。そこで今回はマルタについて考察する。

マルタがいろいろともてなしのために忙しくしていたのは、イエスの話を聞いていた人々が他にも大勢いたからだ。そこでマルタは、イエスのそばまで行って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10:40)。このようにマルタがイエスに率直に言えたことは、すでに二人の間に信頼関係ができていたことを示している。また、これに答えたイエスが、「マルタ、マルタ」と彼女の名を2度続けて呼びかけているところから、イエスがマルタに特別な親しさを持っていたことが伺える。そして、「あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10:41~42)と言うイエスの勧めから、マルタは、自分に良いほうを選んだ姉妹の自発性を尊重し、奉仕を強制しないという教えを汲み取った。このことは、ラザロの復活の場面で、イエスが来られたと聞いて、マルタが一人で迎えに出たことに表れている。家で座っていることにしたマリアを煩わせなかったのだ。

イエスの教えは、まず他者の自発性を尊重することが、自分の自発性を開放する力になるというものだ。それがイエスとの対話を引き出す。それは、人の自発性が「神が吹き入れた息」(創世記2:7参照)であって、これが神の言葉を求めるからだ。この教えは、ミサを目指して生きる信者が、日常的に出会う人々と関る中で、ミサへたどり着くための大切な心得でもある。信者はミサに、み言葉とご聖体を迎えに行く。だから信者も、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)と問うイエスに、マルタのように、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(ヨハネ11:27)と答えることができる。

今、信者は、ご聖体のイエスに向かって答えるのだ。この言葉を公に唱えるのはミサの中だ。信者は、ミサの中で、ご聖体のイエスに向かって、その信仰を表明する権利がある。マルタのように、ご聖体のイエスと率直に関わり、信頼関係をつくり、特別な親しさを持つ必要があるからだ。しかし、教会は、世界の信者が、マルタの体験を共有する機会を与えて来なかった。だから今も、ご聖体のイエスに向かって信仰を告白することなく生涯を終える多くの司祭、信徒たちがいる。「滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い」(マタイ7:13)と書かれた通りだ。

Maria K. M.


 2023/01/02


72. 滅びに至る門 その2

これまで考察してきたように、教会が現在のような惨状に至った道は、人の真の親である神を、婚姻のイメージを持って眺める多くの人々によってつくられてきた。この道を検証するために、前回に続いてヨハネ福音書のベタニアのマリアに焦点を当てる。まず聖書理解の中から、反省の材料を見つけていくためだ。

ヨハネ福音書は、ラザロの復活の物語の冒頭で、「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」(ヨハネ11:1~2)と、マリアの未来の行為を予告している。これは、4つの福音書が、イスカリオテのユダの悲劇を事前に予告しているのと同じ手法だと考えられる。マリアをユダと同列に置くためだ(本ブログ№71参照)。そうであれば、後の節で「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11:5)と書いたとき、マリアの名を伏せたのは偶然ではない。

イエスが、ベタニアに着いてすぐ村に入らなかったのは、捕えられる危険があったからだ。兄弟ラザロのことでマルタとマリアを慰めようとして来ていた大勢のユダヤ人の中には、大祭司やファリサイ派の人々からの回し者として遣わされ、イエスの言葉尻を捕らえようと待ち構える者もいたに違いない。彼らは、ラザロの病気の事で助けを求めていた姉妹に、イエスがどう弁明するかを聞きたかったのだ。後で書かれたように、彼らは、マリアのところに来ていた。だから、ヨハネ福音記者は、わざわざ、「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家で座っていた」(ヨハネ11,20)と記載した。この人々は、ラザロが葬られて4日もたっていたので、イエスは家に来ると思いこんでいたのだ。そこへマルタが戻って、マリアに、「先生がいらして、あなたをお呼びです」(ヨハネ11,28)と耳打ちしたので、不意を突かれた彼女は、「すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」(ヨハネ11:29)。彼女と共にいた人々は、事情をつかめず、墓に泣きに行くと思った。

マリアはイエスを見るなり足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:32)と言った。イエスは、彼女の言葉に答えなかった。イエスを出迎えてすぐ、同じ言葉を言ったマルタと異なり、マリアのこの言葉と振る舞いは、ついてきたユダヤ人たちとともにあったからだ。イエスの弁明を期待して彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見たイエスは、憤りを覚え、心を騒がせて言われた。「どこに葬ったのか」(ヨハネ11:34)。イエスはラザロを復活させることを決心し、天の父に向かって祈るために涙を流した7。イエスにとってこれらすべての出来事は、弟子たちが信じるようになるためであった8

【参考】1. 本ブログ58,59,61~65,69  2. マタイ10:4,マルコ3:19,ルカ6:16,ヨハネ6:71 3. ヨハネ11:19 4. ルカ20:20 5. ヨハネ11:45~46 6. ヨハネ11:21~27 7. ヨハネ11:35, ヘブライ5:7 8. ヨハネ11:14~15

Maria K. M.


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