イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/01/05


229. ヨハネ福音書と新約の司祭職 風は思いのままに吹く

イエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、使徒たちの記憶に置かれた。新約の司祭職は、ミサ典礼の中で、それを継承した男性である司祭の記憶から引き出され、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになる。そして、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という御父に願う司祭の声によって、祭壇の上にご聖体が誕生する。司祭は、無心の内に、自分の内から出るその声を聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると喜びで満たされる。そして、司祭が言うイエスの聖体制定の言葉は、生きた御言葉となって会衆に届き、信者たちは、司祭と共に次のイエスの言葉を体感する。 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハ3:8)。 

私たちは、ミサ典礼の中に働かれる聖霊の姿を見る。「風は思いのままに吹く」とあるように、聖霊は司祭の記憶から思いのままに新約の司祭職を引き出す。「どこから来て、どこへ行くか」という表現は、「過去と未来」を表している。新約の司祭職を引き出された司祭が、自分の内から出るその声を聖霊の声として耳を傾け、集中していると、過去も未来も思わず、ただ、祭壇の前で無心に聖霊と協働するのみである。このように聖霊と協働する司祭の姿を見、司祭の内から出るその声を聖霊の声として聞く会衆は、喜びで満たされる。「霊から生まれた者も皆そのとおりである」とは、この事である。司祭と会衆を包むこの喜びの内にご聖体が生まれる。 

ヨハネ福音書でイエスは、捕らえられる前に、御父に向かって祈った。その中でイエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17:3)と言って、永遠の命が何かを明かした。御父と御子を「知ること」、それは御父と御子と交わることである。永遠の命とは、御父と御子が現存しておられるご聖体を拝領することを示唆しているのである。 

そしてイエスは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハ17:21)と祈り、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(17:22~23)と祈られた。これらの祈りはご聖体によって実現する。ご聖体は、拝領する信者たちを完全に一つにする。ゆえに、イエスが信者たちに与えた「あなたがくださった栄光」とは、新約の司祭職である。 

聖霊はご聖体と共におられる。御父と御子は共にご聖体に現存される。そして、イエスが私たちのために、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(ヨハ17:24)と御父に祈られたのは、まさに私たちにミサ典礼を授けていただくためであった。 

ここまで見たように、ヨハネ福音書1~3章には、御父と御子と聖霊である三位一体の神、メシア、洗礼、堅信、司祭職を授ける叙階の秘跡、神の子、ご聖体の秘跡と聖霊の働きについてのイメージが現われていた。4章では、イエスが、サマリアの女との対話を用いて、ご聖体とはどのような方であるのかを現し、証ししている。この対話の間、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」(ヨハ4:8)とある。そこに弟子たちが不在だったのは、男性であった彼らが、ご聖体について語るイエスを見て直観的に理解できず、疑いを持つことを避けるためであった。 

創世記から始まる旧約聖書の長い物語は、神が目指す新約の司祭職を与えるにふさわしくアダムを、すなわち神が選んだ民の男性を養成し、成長させる歴史であった。男性に“完成されたもの”を授け、聖霊と協働させるためである。神があるようにと望まれた人の命を育む胎は、創造の時に完成していた。それを授かった女性には、自身の中に“完成されたもの”を持っているという感覚が本能的にある。実際、女性の胎は、全く他者の命のためにある。このような器官を持たない男性の弟子たちには、直観的に理解できない流れが、イエスとサマリアの女との対話に起こるのである。 

Maria K. M.


 2025/12/29


228. ヨハネ福音書と新約の司祭職 聖霊の花嫁

「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(ヨハ1:33~34)と言った洗礼者ヨハネの言葉の中には、洗礼、堅信、叙階のイメージを通して、やがてイエスが使徒たちに授ける新約の司祭職が現れていた。しかし洗礼者ヨハネは、「お遣わしになった方」の言葉ではなく、「この方こそ神の子である」と証ししている。彼には、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉を捉えられなかったに違いない。彼は自分の記憶にない言葉を引き出すことができなかったが、彼の直観は、聖霊が降ってとどまったイエスが神の子だと捉えた。 

この事情を、前回考察したマタイ福音書で、イエスが、天の父が現されたことを証しした使徒ペトロの言葉と照らしてみると、もっとはっきりする。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた。洗礼者ヨハネも、初めてイエスを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)と言って、イエスが「メシア」であることを示唆した。そして、イエスが神の子であると証しした。洗礼者ヨハネはイエスを正しく捉えていた。彼は、「聖霊によって洗礼を授ける人である」という「天から与えられた」言葉が、イエスを証ししたのではなく、イエスが御父のもとから担って来たもの、新約の司祭職であったことが、このとき分からなかったのだ。 

ヨハネ福音書4章の初めには、「――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――」(ヨハ4:2)という但し書きが添えられている。それは、新約の司祭職をもたらした神であるイエスが、人に洗礼を授けることはないということを、明確に告げている。洗礼を授けていたのは、イエスの弟子たちであった。直観がきく漁師であった彼らは、イエスのなさったしるしを間近に見てイエスを信じ、共にいることでイエスを受け入れていたのである。やがてイエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、彼らの記憶に置かれることになる。 

こうして、イエスによって使徒たちの記憶の中に置かれた新約の司祭職は、聖霊降臨後、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、ミサ典礼の祭壇の上にご聖体を生む。その祭壇は、聖霊と新約の司祭職において婚姻的意味を持つ。そこで使徒たちは、洗礼者ヨハネが、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)と言った預言を、祭壇の前で自分のものとして味わうことになる。彼らの記憶から新約の司祭職が引き出され、彼らの記憶は衰え、彼らは無心となって聖霊と協働する人になる。彼らは、無心の内に、自分の内から出るその声を、御言葉に命を吹き入れる聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜び、その喜びで満たされる。 

黙示録に登場する「花嫁」は、まさにこのことを示唆している。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」(黙19:7)とある「花嫁」は、イエスが地上にもたらし、ミサ典礼の祭壇上で聖霊と結ばれる新約の司祭職である。なぜなら、黙示録の小羊は、「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(5:6)と描写されているように、イエスの名によって遣わされた聖霊だからである。 

続けて、「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙19:8)とあるのは、新約の司祭職の言葉と業に命を吹き入れる聖霊の声に耳を傾け、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。そこで、黙示録には、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれている。 

新約聖書の中で、「これらは、神の真実の言葉である」という言葉が該当するのは、イエスがもたらした新約の司祭職を現すために、神が洗礼者ヨハネに授けた、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と、天の父が、イエスを証しするために、使徒ペトロに現わされた、「あなたはメシア、生ける神の子です」である。これらの言葉は、常にご聖体に向かっている。ご聖体は、まず、神の子の資格を与えられた信者が、神との真の合一体験を持って、神の子となる道を準備するためにおられる。そして、イエスが死んで陰府に降って死者を救ったように、また、イエスが人として生きておられる間は、追い出す以外に何もなされなかった悪霊を救うために、ご聖体は信者に食べられて、再び死ぬことを繰り返されるのである。 

新約の司祭職を授かった男性が御父に願い、「私はある」と言われる神がご聖体としてお生まれになり、信者たちに食べられて死なれる。それは、ただ神があるようにと望み、女性から生まれる人の命に仕えるためである。イエスが、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マコ10:45)と言われたとおりである。

Maria K. M.


 2025/12/22

227. ヨハネ福音書と新約の司祭職 天から与えられなければ

本ブログ№224~226で考察したように、ヨハネ福音書1章は、初めに、神と御言葉と命=光というキーワードを使って、御父と御子と聖霊である三位一体の神を描写している。そして、洗礼者ヨハネの証しと預言を通して、「神の小羊」、「水の洗礼」、「霊が降る」、「聖霊によって洗礼を授ける人」といった表現に、メシア、洗礼、堅信、司祭職を授ける叙階の秘跡の姿が見えた。また、2章では、カナの婚礼で御血のイメージが、エルサレムの神殿のエピソードで御体のイメージが反映されており、ご聖体の秘跡が姿を見せた。ヨハネ福音書は、このように初めの章から、新約の司祭職を中心テーマとして描いていた。3章では、同じテーマをイエスご自身の言葉で語っている。 

イエスは、ニコデモとの対話の中で、洗礼と堅信と神の国について話され(ヨハ3:5参照)、「わたしたち」(3:11)という言葉によって御自分が三位一体の神であることを示した。また、モーセが荒れ野で上げた青銅の蛇を仰いだ人々が命を得たという故事を引いて、十字架に上げられるイエスご自身のイメージを示し、司祭の手によって上げられるキリストの体を示唆した(3:14~15参照)。続いて述べられた永遠の命と世の救いについてのメッセージも、イエスご自身とご聖体の両方に関わっている。その後再び洗礼者ヨハネが登場し、新約の司祭職について預言した(3:22~36/本ブログ№222参照)。 

このとき洗礼者ヨハネは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」(ヨハ3:27~28)と言った。これによって読者は、イエスが洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けるために来た時の場面を思い出す。読者も彼の弟子たちと共にそこに居合わせていたのだ。その時洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」(1:33)と言った。彼は天から言葉を与えられ、神の子を証しする機会を受けたのである(1:34参照)。 

このように、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」という洗礼者ヨハネの言葉は、彼自身の体験からのものである。「天」とは神のことである。新約聖書の中には、もう一人神から直に言葉を与えられた者がいる。使徒ペトロである。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた時、イエスが、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と証ししているからだ。 

使徒ペトロは、洗礼者ヨハネのように天から言葉を与えられた。そして、続くイエスの次の言葉を受けたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。ヨハネ福音書によれば、イエスは初対面で、彼をペトロと呼ぶことを決めた(ヨハ1:42参照)。イエスは初めから彼をその時のために選んでいたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と初めに言ったイエスの言葉には、その思いが込められている。 

イエスの選びが実現する時が来た。ペトロに天の父が現した言葉が与えられ、彼はそれを口にした。そして、イエスの言葉を受けた。イエスが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言った「この岩」は、「あなたはメシア、生ける神の子です」という、天の父が使徒ペトロに現した言葉であった。イエス・キリストが誰であるかを宣言するこの言葉が、「陰府の力もこれに対抗できない」イエスの教会の隅の親石である。それは一方で、ペトロが手紙の中で書いているように、「つまずきの石、妨げの岩」(一ペト2:8)ともなる。イエスが昇天し、聖霊が降臨した後、この言葉を受けるイエス・キリストがご聖体だからである。 

私は、使徒ペトロが授かった「天の国の鍵」で、地上と天上のミサがつながっている間に、世界中の信者が、ご聖体がメシア、神の子であることを公言する日が来ることを強く願っている。 

Maria K. M.


 2025/12/15

226. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ニコデモ

ヨハネ福音書は、初めに三位一体の神のイメージをもって、イエスが神であることをはっきりと伝えた。前回考察したように、洗礼者ヨハネの言葉と、カナの婚礼でイエスの母のために行った最初のしるし、エルサレムの神殿でのエピソードの内に、私たちの教会が教える4つの秘跡、洗礼、堅信、叙階、聖体がその姿を現していたことを確認した。イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えるための道が、新約聖書の中にできているのだ(ヨハ1:12参照)。そして、2章の最後に次のような解説を入れ、3章のエピソードへとつなげている。 

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)。 

イエスが彼らを信用されなかったのは、しるしを見てイエスの名を信じても、イエスを受け入れないからである。そこで3章では、イエスとニコデモの対話から、「何が人間の心の中にあるか」を見せている。この中でイエスは、御自分が三位一体の神であること(ヨハ3:11参照)、人の真の必要を満たす神の仕方が、洗礼、堅信、聖体の秘跡にあることを示していく。そしてニコデモに、彼が闇から出て、光の方に来ていることを気づかせようとする。3章の最後には、洗礼者ヨハネが再び登場し、そのエピソードの内に、新約の司祭職が預言されている(ヨハ3:22~36/本ブログ№222参照)。これらの出来事によって、1~2章のテーマを固めたのである。 

ニコデモはイエスに会うと、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハ3:2)と言った。「わたしども」という表現に、彼が無意識に自分の共同体を背負っていることが分かる。そこでイエスは、彼の「神が共におられる」という言葉を捉えて、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と返した。 

イエスの言葉にニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハ3:4)と問うた。彼は、次にイエスが指摘しているように、イエスが言った「新たに生まれなければ」という言葉に驚いて、「神の国」という言葉に注意が向かなかった。それは、彼が口にした「神が共におられる」という言葉が虚しいものであったことを示している。彼の環境ではラビと見なされる人に対しての常套句になっていたのかもしれない。しかし彼は、自分が属している環境に疑問を持っていて、解決しなければならない気持ちを背負っていた。それは現代の私たちにも通じる。 

そこで、イエスは、再び、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハ3:5)と言われ、洗礼と堅信の恵みを暗示した。そして、続けて次のように言って、聖霊の働きを証しした。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:6~8)。ここで重要なことは、「その音を聞く」ということである。 

しかし、イエスのこれらの言葉に認識が追い付かないニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」(ヨハ3:9)と言うよりなかった。彼は、自分を包む闇が重いことに気付かずにいる。彼はユダヤ人の議員でファリサイ派に属する者であったが、その共同体の価値観と体質に彼はマッチしていなかったのだ(7:45~52参照)。このような重荷のために、彼が本来持っている個性や能力、また獲得した知識などからくる自己認識は委縮していた。イエスは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言って、彼が目を覚まし、自分の状態に気づき、自発的に行動するように励ました。彼は、今、神と共にいるのである。 

イエスは続けて語り、ご聖体についての暗示から、「永遠の命」にまで言及した(ヨハ3:14~15参照)。今、私たちは、それを知っており、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と言ったイエスの言葉が、後の、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)という言葉につながっていくことが分かっている。 

ニコデモには、これらの話が分からなかったとしても、聞いた御言葉は記憶に入った。それが神の仕方である。霊が告げることを聞く耳を神は求めている。ニコデモは、自分から光の方に来た。ゆえに、最後にイエスが言った次の言葉は、ニコデモの心に届いた。彼がその後登場する場面を見ると、彼が次第に自由になり、霊が告げることを聞く耳のある者となっていく姿が見える。御言葉は、彼が、自分の所属する共同体が重荷であることに気付き(ヨハ7:45~52参照)、決断を支える自発性が御言葉と結びついて、真の自己実現に至るようにと(19:38~42参照)、静かに、力強く働きかけていったのである。 

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハ3:19~21)。 

Maria K. M.


 2025/12/08



225. ヨハネ福音書と新約の司祭職 イエスの母


新約の司祭職の視点からヨハネ福音書を読むと、様々なことに気付かされる。前回考察したように、ヨハネ福音書の1章は、初めに三位一体の神のイメージを伝えている。後に、「わたしと父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたイエスの上に聖霊が降ってとどまったように、また、イエスご自身が、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(8:58)と言われたように、イエスは、三位一体の神である。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)ということが実現したのは、イエスが神であったからだ。

洗礼者ヨハネの証言の中には、「水で洗礼を授ける」、「“霊”が降って、ある人にとどまる」、「聖霊によって洗礼を授ける人」という言葉が現れている(ヨハ1:33参照)。そこに、私たちの教会が教える3つの秘跡、洗礼、堅信、叙階の秘跡の姿が確認できる。洗礼と堅信は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じる人々に神の子となる資格を与えるための道である(1:12参照)。それは、父と子と聖霊の名によって授けられる秘跡であり、そのために、「聖霊によって洗礼を授ける人」が存在する。それは神であるイエスが、やがて使徒たちに授けるために、地上にもたらした新約の司祭職である。

洗礼者ヨハネは、イエスに聖霊が降るのを見て、イエスが神の子であることを確信すると、自分の弟子たちにイエスに従うよう促した(ヨハ1:35~37参照)。イエスに関する師の体験を、そばで見聞きしていた洗礼者ヨハネの弟子たちは、すぐイエスに従うことができた。その一人であったアンデレが、兄弟シモンをイエスのところに連れて行ったとき、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする』と言われた」(1:42)とある。イエスは、シモンと初対面のこの時、「わたしの教会」(マタ16:18)の土台となる使徒の頭を選んだ。ヨハネ福音書は、新約の司祭職にとって、曖昧になってはならない重要な場面が、いつどこで起こったかをしっかりと書いて残した。

その後、イエスはフィリポとナタナエルも弟子に加えられた(ヨハ1:43~51参照)。フィリポは、「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身」(1:44)とあり、ナタナエルは、「ガリラヤのカナ出身」(21:2)であった。ガリラヤのカナは、続く2章の初めにある「イエスの最初のしるし」(2:11)が行われた場所である。このように新約の司祭職に呼ばれた男性は、神の運びの手中に置かれ、イエス・キリストの生涯に関連付けられていく。そして、彼らに特別に準備されたイエスとの関係は、イエスの母との交わりに向けられていく。彼女こそが、天使のお告げに応えて、初めてイエスを受け入れ、イエスの名を信じた人であった。

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(ヨハ2:1~2)と始まる2章では、イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母の対応に目が留まる。イエスの御業のために召し使いたちに命じた彼女の願いは、イエスの名によって遣わされた聖霊が降臨した後も続いている。イエスの母は、新約の司祭職を授かった使徒たちとその後継者たちと今も共にいて、聖霊に聞き従う彼らに同じ言葉で願い、励ます。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と。

カナの婚礼の場面で、イエスは水をぶどう酒に変える最初のしるしを行った。このエピソードは、イエスが最期の食卓で、ぶどう酒の入った杯を取って、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言われた聖体制定の場面とイメージが重なる。そして、ヨハネ福音書は、カナの婚礼に続けて神殿から商人を追い出す場面を描き(ヨハ2:13~22参照)、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(2:21)という解説を挿入した。これらのことから、2章にはご聖体の秘跡が現れていると見ることができる。

新約の司祭職は、神と人の命に関わる職務である。「私はある」と言われる神は、新約の司祭職を授かった男性からご聖体として生まれ出て、神があるようにと願い、女性から生まれる人の命に仕えることを望まれた。それは、イエスを受け入れ、イエスの名を信じ、洗礼によって神の子となる資格を与えられた信者が、ご聖体に育まれて神の子となるためである。

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。➡ 「パトモスの風⑥」





 2025/12/01


224. ヨハネ福音書と新約の司祭職、その始まり

ヨハネ福音書の1章の始まりの描写は、イエスが「わたしと父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われた言葉を念頭に置いて読むと、この描写が、三位一体である神を表現していることに気付く。公生活に入ったイエスについて、ヨハネ福音書が、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と書いた通りだ。イエスが男性としてこの世に現れたのは、聖霊と協働する新約の司祭職を受け取る男性が、神である聖霊を認識する人として完成することが必須だったからである。(1:16~18参照)。 

新約の司祭職を授かった者は、男性でありながら、御聖体が生まれるためにイエスの母のように聖霊の力に覆われる。彼らは御聖体の誕生をイエスの名によって御父に願い、与えられ、喜びで満たされる者たちになるのである(ヨハ16:20~24参照)。この司祭職の使命は、胎児を身ごもる女性が人の命に関わるのと同じように、ご聖体の命に関わる使命である。神があるようにと望まれ、女性から生まれ出る、人の命ために、「私はある」と言われる神が、新約の司祭職を授かった男性から生まれ出て、御聖体として人の命に仕えることを望まれたのである。 

新約の司祭職を受ける信者の男性にとって、イエスが「わたしと父とは一つである」と言われたことを理解して聖霊を見ることができることは必須条件である。しかしそれは、すべての信者が持つべき感覚であり、意識的に獲得する必要がある。御父からイエスの名によって遣わされた聖霊は、御言葉である御子を通じて私たちに触れる。祭壇を前にして、触れられるだけではなく、常に聖霊とつながっている新約の司祭職を、私たち信者は理解し、認める必要がある。まさにそれは、私たち信者の命をご聖体とつなぐ「へその緒」なのである。 

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言われた。「道」は御父の御心である。イエスが「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示される」(5:20)と言われたように、御父への道は御言葉であるイエスが背負っておられる。「真理」はイエスご自身である。イエスが語られる言葉は真理である。「命」は聖霊が真理を教え導く悟りにある。御父が人の命があるようにと望まれる時、御言葉は人に命があるようにと語り掛け、その御言葉を聖霊が悟らせると、人の命が始まる。すべて命はこのようにして生まれる。 

聖霊は、御父から出て、イエス・キリストを通して世に現れた。そこで、イエスは、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言われたのである。父がイエスの名によってお遣わしになる聖霊が、イエスが話されたことをことごとく思い起こさせることができるように、御言葉であるイエスは、人となられ、人々の間に住み、全力で語られたのである。 

ヨハネ福音書は次のように始まる。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハ1:1~5)。前半の「初めに言があった」から「言によらずに成ったものは何一つなかった」の部分は、「わたしと父とは一つである」を表現している。 

「言の内に命があった」とは、洗礼者ヨハネが証ししたように、神であっても人となったイエスが、水による洗礼を受け、聖霊が降ったという事実を表している。こうしてイエスは、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」(ヨハ5:26)と言った言葉が、人の上に実現することを示したのである。ここには、真理を悟らせる聖霊がおられることを、御言葉と業によって、人が信じるようになる仕組みがある。聖霊は人間を照らす光である。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある「暗闇」とは、人間の情報と知識である。 

創世記の2章の初めに、「天地万物は完成された」(創2:1)と書いてある。そしてその日、神は安息なさった(2:2参照)。そこで、1章の出だしに「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:1~2)とある描写は、神が天地を創造された後、万物の創造(1:3~31参照)に向かう前に、一呼吸置かれた様子を描いているようだ。そのように見ると、この出だしは、天地を創造するという神(御父)の御心を、御言葉(御子)が成しとげられた後、聖霊が働いておられる姿を描いている。 

「神の霊が水の面を動いていた」とあるのは、御父のみ旨を成した御子の御言葉が、聖霊によって悟りに変換されているところである。「深淵」は、神の知識の深い淵だ。ルカ福音書には、「悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」(ルカ8:31)とある。黙示録には、「底なしの淵に通じる穴を開く鍵」(黙9:1)の話もある。「深淵」が神の知識の深い淵であれば、それは、人間の情報や知識にとっては墓場であるに違いない。 

このように、旧約聖書にも三位一体の神の姿がイメージされている。ヨハネ福音書は、1章6節から洗礼者ヨハネが登場する。彼は最後の預言者として主に先立って行き、聖霊を証しし、新約の司祭職を預言した。創世記も、1章3節から具体的な創造に向かう。 

Maria K. M.


 2025/11/24

223. 3羽の鷲と新約の司祭職

「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)で始まるヨハネの黙示録は、その独特の構成によって、その意図がはっきり示されている。7つの預言で構成されている黙示録は、大きく二つの部分に分かれており、前半(第1から第3の預言、1~11章)は、新約聖書の成立に向かう預言、後半(第4から第7の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。黙示録には、3羽の鷲が登場する。最初は、4つの福音書に見立てた四つの生き物の描写に登場する、鷲のような「第四の生き物」であり、それはヨハネ福音書を表していた(4:7参照)。 

次に、7つの封印が次々と開かれるが、これらは新約聖書の7つの書を表している(公同書簡は除かれている・・黙10:4参照)。黙示録を示唆する最後の封印が開かれると、7人の天使が次々に7つのラッパを吹く場面が展開する。それらは再び新約聖書の7つの書に見立てられる。ヨハネ福音書に見立てられた4つ目のラッパが吹かれると、「また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた」(8:13)とある。二番目の鷲の登場である。 

その後12章で、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)というしるしとして、「新約の司祭職」が現れた。共観福音書の聖体制定の場面で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言って、御聖体と表裏一体を成し、使徒たちと切り離すことのできないものとしてイエスが制定した「新約の司祭職」である。続けて、「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた」(黙12:2)と描写された。この「女」は、「新約の司祭職」を受け取った使徒たちであり、「子」はキリストの体である。迫害者たちはその秘密に迫ろうとするが及ばない(12:3~4参照)。ご聖体は神のもとへ隠され、「新約の司祭職」は、使徒たちの記憶に隠されたからである(12:5~6参照)。 

彼らに向かって迫害の手はさらに伸びる。しかし、「彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(黙12:11)。使徒たちの記憶が失われないうちに、それを具体的に残す必要があった。福音書である。黙示録は、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである」(12:14)と書いている。ここで最後の鷲が登場したのは、「新約の司祭職」が、ヨハネ福音書に隠されたことを暗示するためであった。 

ヨハネ福音書は、「新約の司祭職」をテーマとしている。しかし、この福音書を手にした者が、それとすぐ気づかぬように、ヨハネ福音書は「使徒」という言葉を使わず、聖体制定の場面を描かなかった。その一方で、イエスが十字架上でご自身の母と使徒を親子の絆で結ぶ場面を描くことで(ヨハ19:26~27参照)、「新約の司祭職」を公にした。「新約の司祭職」を授かった使徒たちは、聖霊に満たされ、男性でありながら、御聖体が生まれるための母となる。彼らは御聖体の誕生をイエスの名によって御父に願い、与えられ、喜びで満たされる者たちであった(16:20~24参照)。 

前回、ヨハネ福音書の中で、洗礼者ヨハネが、「新約の司祭職」を「花嫁」にたとえて預言したことを見た。今回、黙示録も、ヨハネ福音書のテーマが「新約の司祭職」であることを示唆していることが分かった。次回は、このことを念頭に、ヨハネ福音書を見直してみたい。 

Maria K. M.


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