イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/12/26

71. 滅びに至る門 その1

イエスがベタニアで香油を注がれる場面は、ルカ以外の3つの福音書全部が記載している。マタイとマルコ福音書の女性たちは、イエスの頭に香油を注ぎかけて終わる(マタイ26,7、マルコ14,3参照)。一方、ヨハネ福音書のマリアは、この2人と違う特別な行為をした。彼女は、香油を「イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った」(ヨハネ12,3)のだ。この行為によってマリアは、イエスの足に塗ったナルドの香油の香りを自分の髪にも移した。

当時、祭司長たちとファリサイ派の人々は、最高法院を召集して話し合い、イエスを殺そうと決めていた(ヨハネ11:53参照)。 マリアは、彼女のところに来ていたユダヤ人からそれを聞いて(ヨハネ11:45~47参照)、この夕食が、彼女にとって、イエスとの最後の時になるかもしれないと覚悟した可能性がある。彼女は、イエスが、足に塗られたナルドの香油の香りを慕って、同じ香りのする彼女の髪を求めて来るかもしれないというフィクションの中で(雅歌1:12参照)、自分を「キリストの花嫁」にしたのだろうか。

家は香油の香りでいっぱいになった。そのとき、イスカリオテのユダがマリアに向かって、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12,5)と言った。それに対してイエスが「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだ」(ヨハネ12,7)とたしなめた。しかし、この言葉が、金入れを預かっていてその中身をごまかしていたユダに向けられた言葉だったとしても、マリアに対するイエスの対応は、他の福音書の場面に比べてあまりに冷淡だ。マタイとマルコの福音書の中でイエスは、高価な香油を注いだことを非難した者たちに、まず、「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」(マタイ26,10、マルコ14,6)ととりなしている。そして、頭に香油を注いだ女性の動機を、「この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた」(マタイ26,12)、「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(マルコ14,8)と語り、さらに、「よく言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マタイ26,13、マルコ14,9)とまで言っている。

こうしてみると、ヨハネ福音書のこの場面の記述には、もう一つ特徴的なことがある。3つの福音書の中でヨハネ福音記者だけが、ベタニアで香油を注いだ女性をマリア、その行為を非難した者をイスカリオテのユダと特定していることだ。ここには、ベタニアのマリアを、イエスを裏切ったイスカリオテのユダと同列に置くという意図があったのではないか。それは、ヨハネ福音記者がこの場面の前の章の冒頭で、「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」(ヨハネ11:2)と書いたことにヒントがある。

Maria K. M.

2022/12/19


70. 狭い門から入りなさい

新約聖書には、神の計画を引き取った3人の記事がある。マリアと胎内の子イエスを引き取ったヨセフ、十字架のそばでイエスの母を引き取った使徒ヨハネ、復活したイエスの前で、イエスの遺体を引き取ると宣言したマグダラのマリアである。そして、イエスの十字架のそばには、使徒ヨハネとマグダラのマリア、すでに亡くなっていたヨセフに代わってクロパの妻マリアが呼ばれていた。これらの人々が、天の父がペトロに現した言葉の上にイエスが建てると言った「私の教会」(マタイ16:18)を具現している。十字架上のイエスのわき腹から流れ出た血と水を浴びた3人は、神と人との間に結ばれた新しい契約の証人である。そこでこの3人は、それぞれの異なる役割に呼ばれ、その召命を表す名を帯びている。

クロパの妻は、イエスの「私の教会」の中で、マリアとともにイエスを守り育てたヨセフの役割を継ぐために、ヨセフの名を帯びている。イエスの遺体を引き取ると宣言したマグダラのマリアは、地上で両親に仕え、また、ヨセフの死後も母に仕えていた人間イエスの役割を継ぐために、イエスの名を帯びている。そこで、この名の持つイメージから、女性の中には自分に司祭の召命があると感じる者がいるが、それは間違いだ。司祭の召命は次のようにイエスの母を引き取った使徒ヨハネにある。使徒ヨハネは、み言葉を証しする聖霊と協働することになる司祭として、初めに聖霊が降りいと高き方の力に包まれたイエスの母マリアの役割を継ぐためにその名を帯びている。十字架上でイエスは、母と使徒を親子の絆で結んでその証とした。イエスが、過ぎ越しの食事の準備の時、ペトロとヨハネの二人を共に遣わしたことから(ルカ22:8参照)、イエスの母マリアの役割が、ペトロとともに担うものであったことが分かる。聖霊が降臨すると、ペトロとヨハネはいつも共に祈り、活動していた(使徒言行録3:1~4:318:14~25参照)。

イエスが、「命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない」(マタイ7:14)と言ったこれらの召命の道は、ある人々には難解に見えるかもしれない。それでもイエスは「狭い門から入りなさい」(マタイ7:13)と語りかけている。21世紀の今日の人々を見ると、性差よりも個人差の方がより際立って目に付くようになった。それは、誰の脳にも共に存在している男性性と女性性が、よくバランスを取るようになったからだという。この気づきに慣れていけば、上記のキリスト者の召命のロジックは、さほど難しくない。教会が、前回まで考察したような大惨事に至った道は、人の真の親である神を、婚姻のイメージを持って眺める多くの人々によってつくられてきた。それは、イエスの次の言葉を証しすることになった。「滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い」(マタイ7:13)。

Maria K. M.


 

 2022/12/12

69. 神学

アヤソフィア(イスタンブール)
前回考察した、20167月のモレロ司教とレポン氏によるアラス神父との面談記録の中で、神父は、叙階式と初ミサの時を回想しながら、「現実とつながりが断たれた本当の自分ではない自分がいました。けれどもその後、神学を学ぶことで立ち直ることができました。神学は、私が直面していた問いに答えてくれたのです。」と語っている。奇しくも、同年128日付で、ローマ聖職者省から司祭養成基本要綱「司祭召命のたまもの」が出された。2002年の米国における報道以来立て続けに発覚した司祭による性的虐待問題への対応が、その背景にあると思われる。しかしながら、ここで、次の表現が注書きに引用されて置かれていることから、あれほどの大惨事を目の当たりにし続けていながら、教会は、今もこれらの表現に問題があると思い至っていないということがわかる。「教会の意志は、司祭の独身の究極の根拠を、司祭を教会の頭であり花婿であるイエス・キリストに似た者とする聖なる叙階とのつながりの中に見出します。教会はイエス・キリストの花嫁として、頭であり花婿であるキリストから全身全霊を込めて愛されたように、司祭からも愛されることを望んでいます。」(『現代の司祭養成』29)。

これまで見てきたように、婚姻のイメージを使った表現は、司祭の対人関係において、性愛的なバイアスがかかる危険をはらんでいる(本ブログ№64参照)。アラス神父のように、初めから問題を抱えた司祭にとっては、火に油を注ぐような表現だと言える。これらの表現が司祭養成の根幹にあることによって、司祭たちは、信徒たちを、司祭から愛されることを望んでいる教会そのものだと見るようになる。だからアラス神父は、たった今素晴らしい説教をしたばかりなのに、そのすぐ後、香部屋でダニエルを虐待することができた。同時に、ミサにおいて信徒たちが司祭とともに唱える、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」という言葉と(本ブログ№68参照)、彼の前で唇を開き、舌の上にご聖体を乗せてもらう信徒の姿は(本ブログ№67参照)、いやがうえにも彼の支配欲を満足させ、彼を「司祭からも愛されることを望んで」いる教会に、すなわち少年信徒たちに向かって駆り立てる要素になり得た。アラス神父が叙階式の後、学ぶことで立ち直ることができたという神学は、彼の猥褻な行為を、このように正当化していったと考えられる。

彼は、76歳になって、「どうして神は私を止めてくれなかったのか」という疑問を発したが、彼を止めてくれなかったのは、神ではなく神学だったのだ。だから彼は、「これだけの罪を犯した原因が、自分には決して分からないという事実を、受け入れなければならないのだと思います」と無責任に言うことができた。神を天の父と呼ぶ教会が、21世紀になっても、上記のように婚姻のイメージで表現する神学を改めないなら、司祭に誠実であってほしいと望むあらゆる立場に置かれた多くの犠牲者たちに、真実を示すことはないだろう。

Maria K. M.


 2022/12/05


68. 光あれ!

カトリック教会の司祭から子供のころ性的虐待の被害にあったダニエル・ピッテ氏の手記の最後には、その教区のモレロ司教と執筆協力者のレポン氏が、本手記の出版前年に、加害者のアラス神父に面談した記録が載せられている。このとき76歳になっていたアラス神父の年齢をみると、前回考察したように、彼自身が、聖体拝領において、司祭の前で跪いて唇を開き、舌を出して拝領する人であったし、叙階された後は、このような人々に聖体を授ける司祭の一人であったろう。このような重大な犯罪が長きに渡って隠蔽され得たのは、大きな権力と権威が結びついた結果であり、上記の聖体拝領の仕方を続けてきたことは、司祭をこのような権威に依存させ、支配欲を満足させる行為に向かわせる危険をはらんでいた(本ブログ№67参照)。加えて、ミサのたびごとに、聖体拝領の前には、司祭は会衆と共に百人隊長由来の言葉を唱えてきたにちがいない(マタイ8:8参照)。

本ブログ№66で考察したように、百人隊長の人間的な謙遜は、これらの欲望から遠ざけるより、支配欲をかき立てる方に向く可能性がある。彼が語った部下の兵隊とのやり取りのたとえから分かるように(マタイ8:9参照)、彼の謙遜は、人間の権威の下にいる者が、その権威への服従によって発現したものだ。だから彼は、特別な権威の下にいるイエスが命じれば、子(僕)は癒されるということを、自動的に信じることができた。そして、イエスが言った「あなたが信じたとおりになるように」(マタイ8:13)という言葉が実現した。しかし、彼が、子(僕)が癒されても、感謝して神を賛美するためにイエスのもとに戻って来なかったのは、誰もがイエスを神であると思っていなかったように、彼にとってもそれは思いもよらないことだったからだ。彼は当時の人々と同じく、イエスをエリヤやエレミヤのような権威ある預言者の一人だと考えていたにちがいない(ヨハネ16:13~14参照)。この百人隊長由来の言葉を、信者がミサの度にご聖体を前にして唱え続けていれば、やがて無意識のうちに、“イエスが神だとは思いもよらないこと”に陥ってしまい、ご聖体がイエスご自身だと信じる根拠を失ってしまう危険がある。

上記の面談記録にあるように、聖務が禁じられ、典礼や祭事に未練はないと言うアラス神父は、「神とはいったい誰なのか」、「神よ、私は何をしてしまったのか」、「自分が何者であるか」、「どうして神は私を止めてくれなかったのか」などの疑問を発し、その答えを悟れずにいた。百人隊長と同じく“イエスが神であるとは思いもよらないこと”を突破できずにいたのだ。これを突破したのは、天の父がペトロに現した言葉である(マタイ6:13~20参照)。ご聖体を前にして、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」と司祭が唱え、司祭と会衆がともに唱える言葉は、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)というペトロの信仰告白である。「世の罪を取り除く神の小羊」はメシアである生ける神の子を示唆している。だから、「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」(黙示録19:9参照)なのである。ゆえに、ペトロの信仰告白は「神の真実の言葉である」(黙示録19:9)。

Maria K. M.


 2022/11/28

67. 聖体拝領

最近になって、跪いて聖体拝領をする人々を見る機会をもった。修道司祭がたてるミサだから会の方針かもしれない。聖堂の壁際の通路の先には跪き台が設けられた。司祭の前で唇を開き舌の上にご聖体を乗せてもらいたい信徒は、そこに行って跪き拝領する。手で受ける人々は、今まで通り中央通路に並び、立って拝領する。こうして分けられたことで、これまで思いもよらなかったことに気付いた。 

信徒が唇を開き舌の上でご聖体を拝領する理由は、キリストの体であるご聖体の一粒も地に落ちてはならないから、また、ご聖体を食べずに持ち帰る不敬な者もいるからであり、司祭はこれらの責任を負っていると聞いている。しかし、次のイエスの言葉は、これらの心配が無用であることを証ししている。「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れることはない」(マタイ10:28~31)。 

さらに、前回考察したように、ご聖体の前で「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と、すべての拝領者が宣言するようになれば、正しく拝領する責任は拝領者自身にある。たとえ子どもであっても、教会が認めた拝領者は、神の前で責任ある振舞いを求められるのは当然であり、そのように養成されねばならない(本ブログ№37参照)。このように整備されれば、もはや唇を開き舌の上で聖体拝領をする必要はない。むしろ危険は、自分の前で跪いて唇を開き、舌を出す人々を、ミサの度ごとに目の当たりにする司祭自身にある。これらの人々を立って見おろす司祭は、「キリストの代理者である聖なる牧者」(第2バチカン公会議教会憲章37節)としての“司祭職”の権威が、自分自身にあると錯覚する危険にさらされる。 

また、唇は人体のデリケートな器官の一つである。それにもかかわらず、司祭の指が、拝領者の唇に触れる可能性がある聖体拝領の仕方は、早々にやめるべきだ。さらに、聖体拝領をする信徒の中には、衣服の胸を大きく開けた女性たちや、生き生きとした唇を無邪気に開く若者や子どもたちもいる。これらの現実は、ある司祭たちにとって、大きな危険をはらんでいる。本ブログ№6162で紹介したダニエル・ピッテ氏は、その手記の中で、「私の言葉は、時として不快なものになるかもしれません」と前置きしながら、次のように書いた。「(その司祭は)大きくなった“もの”を自分の下着から引っ張り出し、強引に私の口に押し付けました。あっという間の出来事でした。まるで夢でも見ているかのようでした。彼の“もの”からは、生温かい液体があふれ出てきました。それでお終いでした。」教会は、このような膨大な数の被害者たちを前にして、教会全域から危険の種をすべて取り去ることで、誠意を示す義務がある。 

Maria K. M.



 2022/11/21


66. 真の謙遜

これまで考察してきたように、第2バチカン公会議文書中に見出す教会理解における「キリストの花嫁」の表現は、人の真の親であろうとする神の望みからそれている。教会を「キリストの花嫁」にたとえれば、私たちの天の父は、教会にとってまるで義理の父であるかのようだ。この影響は、典礼憲章にも入り込んだ(典礼憲章7節、84節、85節参照)。そして、ローマ典礼様式のミサで、聖体拝領直前に、司祭が会衆とともに唱える言葉に現れた。

この言葉は、イエスが子(僕)の病を気遣う百人隊長に、ご自身から、「私が行って癒やしてあげよう」と申し出たにもかかわらず、その申し出を謙遜に断った百人隊長の言葉から取ったものである(マタイ8:5~13参照)。百人隊長のこの謙遜な態度から、彼が、人の真の親である神を知らなかったことが分かる。人の思いのすべてを知っていたイエスは、謙遜であるがゆえにイエスの申し出を断わる彼のたとえ話を聞いて、彼にはこの場面に相応しい信仰があるとみなした。しかしこの百人隊長の言葉は、神を天の父と呼ぶ信者には相応しくない。イエスが、最期の夕食の席で、跪いて弟子たちの足を洗い、神の謙遜の極みを見せて教えたからである。

ここでペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハネ13:8)と答えた。神の謙遜を前にして、人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになる。実際に百人隊長の謙遜は、彼の子(僕)や家族がイエスに出会う機会を奪うことになった。さらに、信者が、ご聖体を拝領することを望んでいるにもかかわらず、百人隊長の謙遜に倣って、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えるなら、そこには自ずと矛盾が生じる。

ある時イエスは、弟子たちに尋ねた。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)。これに続けたイエスの言葉は、御父を敬う御子の喜びで満ちている。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(マタイ16:17)。天の父が現し、イエスによって幸いとされたペトロのこの言葉は、神の小羊の食卓に招かれた幸いな人が唱える真実の言葉になる(黙示録19:9参照)。これこそが、ご聖体を前にして信者が唱える言葉だ。

ご聖体のイエスは、今も信者に問うている。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」信者が答えて「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うとき、天の父が現したこの言葉を受け取って、イエスは彼ら一人一人に言う。「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。

Maria K. M.


 2022/11/14


65.「花嫁」と認知のゆがみ

2バチカン公会議諸文書における教会理解の基礎に置かれた婚姻のイメージは、黙示録からも取られている。これまで考察したように、黙示録は、その訓練と聖霊の養成を通じて、訓練者をミサに向かわせる。イエスの最期の食卓を、“今”に引き寄せ、再び「私の記念」(ルカ22:19)を現実にするミサは、神である御父と、人となった御子との間で交わされた「新しい契約」(ルカ22:20)のしるしが継続される場である。この場で教会は、イエスの「私の教会」(マタイ16:18)として、彼の最期の食卓に同席していた使徒たちとともに、この「新しい契約」の証人になる。黙示録の「花嫁」が、一つの例外を除いて、ミサが開祭する19章以降に登場するのはこのためだ。そこで、黙示録における「花嫁」は、この「新しい契約」とそのしるしを意味する。このことは、次のように洗礼者ヨハネが用いた「花嫁」にも当てはまる。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、私は衰える」(ヨハネ3:29~30)。自身を「花婿の介添え人」にたとえた洗礼者ヨハネは、この時、同じヨハネ福音書の2章にあるカナの婚宴の場面の「世話役」をイメージしていた。そこで行われたイエスの最初のしるしのニュースは、洗礼者ヨハネの耳にも届いていたに違いないからだ。世話役が花婿を呼んで言った次の言葉は、まさに洗礼者ヨハネの言葉の意図するところであった。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」(ヨハネ2:10)。洗礼者ヨハネは「良いぶどう酒」を、「新しい契約」だと悟った。そこで彼は「あの方は必ず栄え、私は衰える」と続けた。自身を古い契約の側に置いたのだ。一方、イエス・キリストによって神を父と呼びながら、教会は、ソロモンによって神と親子の絆を結べなかった民が、神と民の関係を花婿と花嫁、夫と妻にたとえ、夫婦の契りを神との絆にイメージした表現を引き継いだ(本ブログ№59参照)。ソロモンの著とされる知恵の書には、「私は若い頃から知恵を愛し、探し求めてきた。知恵を私の花嫁にしようと願い、その美しさに恋する者となった」(知恵の書8:2)と書かれている。彼にとって花嫁は知恵を意味した。そして、彼は「知恵を伴侶として迎えようと決めた」(知恵の書8:9)。ソロモンは、夢の中で彼に現れ、「願い事があれば、言いなさい。かなえてあげよう」(列王記上3:5)と言われた主の言葉こそが、真の知恵であると認識しなかった。そして、多くの外国の女を愛して離れず、主の言葉に背き、彼女たちの神々に付き従った(列王記上11:1~10参照)。ソロモンは、人祖アダムのように、女性が持つ母性の神秘に惹かれ(創世記3:20参照)、男性である自分には持ちえない母の知恵を求めたのだ(雅歌3:4,116:98:1,2,5、知恵の書7:12参照)。このように、神の知恵と人の知恵を混同したソロモンには、認知のゆがみが起こった。雅歌には、その最終章に銀による取引が記されている(雅歌8:11~12参照)。獣の名の刻印を受けたのだ(本ブログ№46参照)。

Maria K. M.


 2022/11/07

64. パウロと認知のゆがみ その2

続けて第2バチカン公会議文章の次の表現を考察する。「司祭は、自分にゆだねられた務め、すなわち信者を一人の夫と婚約させ、つまり純潔な処女としてキリストにささげ、こうして、神によって制定され、将来完全に明らかになる、教会と唯一の花婿キリストとの神秘的な結婚を思い起こさせる・・・」(『司祭の役務と生活に関する教令』16節)。この文は、パウロのコリントの教会への第二の手紙の中で書かれた「私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたのです」(二コリント11:2)から取られている。ここでパウロが述べたこの言葉は、パウロが「偽使徒」と呼ぶ者たちを警戒して、コリントの共同体を諭すために用いたたとえである(二コリント11:1~15参照)。このパウロの心配の裏には、エルサレムへの募金の約束を果たさせたいという思いがあった。パウロは明らかにこの問題に夢中になって取り組んでいたのである。まず、パウロのこの特異な状況を考慮する必要がある。また、ここで、「純潔な処女として一人の夫と婚約させた」という奇異な表現は、当時の家父長的思想に基づいており、現代においては全く意味が通らない。このような表現を、20世紀後半の最も権威ある教会文書にそのまま取り入れ、キリストと教会の関係に婚姻のイメージを持ちこんだことは、あまりに安易な選択であった。婚姻は、花婿と花嫁にとって性的合一に向かうことが本質である。これをキリストと教会の関係にたとえて、教会の教えに取り込むならば、肝心な局面で性愛的なバイアスがかかることは避けられない。司祭の性的虐待について、司教や同僚の司祭は事実を知ってもその重大さを軽視し、断固とした対応を取らなかったことがこれを証ししている。さらに、各文書の次のような表現を見ると、司祭と信者の関係において、上記の家父長的思想を現代も引きずっていることがわかる。「司祭は、洗礼と教えをもって霊的に生んだ信者たちを、キリストにおける父として心にかけなければならない」(『教会憲章』28節)、「・・キリスト信者自身は、自分たちの司祭に対して恩義があることを自覚し、自らの牧者であり父である司祭に、子としての愛をもって従わなければならない」(『司祭の役務と生活に関する教令』9節)、「・・こうして司祭は、キリストにある父性をより豊かに受けるによりふさわしい者となる」(同16節)。キリスト者に「主の祈り」を授けたイエスは、「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」(マタイ23:9)と戒めた。キリストとしての預言を成就するために男性として生まれたとしても、イエスは地上に神の母性を担ってきた(本ブログ№29№43参照)。このイエスが、唯一ご自分を「花婿」にたとえたとき、弟子たちを「婚礼の客」にたとえた(マタイ9:15参照)。そして、「婚礼の客」である弟子たちが誰であるかを、イエスははっきりと特定した(マタイ1249~50参照)。カナの婚宴の場面では、イエスご自身が、母、兄弟、弟子たちと共に婚礼の客としてそこにいた(ヨハネ2:1~12参照)。ここでイエスが行った、水を上等のぶどう酒に変えたというしるしは、マリアとイエスが、まさに母と子の関係のゆえに実現した。

Maria K. M.


 2022/10/31

63. パウロと認知のゆがみ

ここ何回か、現代のカトリック教会が、教会自身や司祭についてどのように理解してきたのかについて、「認知のゆがみ」という切り口で考察してきた。これは、現在、全世界で進められているシノドスの道の取り組みをある程度意識したものである。また、今年は第2バチカン公会議開会60周年である。そこで今回は、公会議文書にさかのぼる形で、これまでの考察を続けてみたい。まず、本ブログ№59でも紹介した、教会憲章の「キリストは、教会を自分の花嫁として愛し、妻を自分のからだとして愛する夫の模範となった」(教会憲章第7節)という表現を取り上げる。この表現は、使徒パウロのエフェソの教会への手紙(5:25~28)から取られている。ここでパウロは、夫と妻に対する勧告という形を取りながら、キリストと教会の関係を、妻と夫の関係になぞらえて説明しているうちに、ロジックに破綻を来してしまったことに気づいた(エフェソ5:22~33参照)。「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)と言った時、「父母」という言葉が彼の琴線に触れたのだ。そこで彼は、「この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」(エフェソ5:32~33)と言って、唐突に話しを切り上げてしまう。そして、早々に子どもたちと父親の関係に話題を移した(エフェソ6:1~4参照)。ところが、教会憲章の表現は、妻と夫の関係をそのままキリストと教会の関係に当てはめてしまった。認知のゆがみが起こったのだ。妻と夫の関係は、生まれてくる子を介して、母と父の関係になる。これとは異なり、キリストと教会の関係は、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(マタイ1249~50)というイエスの言葉によって、誰の仲介もなしに母と子の関係になる。「天におられる私の父の御心を行う人は誰でも」とは、キリストの周りに集う人々であると同時に、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)と言ったイエス自身に他ならない。キリストは教会の兄弟、姉妹、母である。そこで、ミサに集うキリスト者の共同体は、母なる司祭と、その子として、兄弟、姉妹なる信徒で構成される。司祭は、み言葉によってパンと葡萄酒がキリストの体と血になるために聖霊と協働し、イエスの名によってこれを願い求める母になる。信徒は、この母を通してみ言葉を聞き、信仰をもってキリストの体を受け取って食べる子になる。ゆえに、最期の夕食の席で、聖体を制定し、これから十字架上で教会を生み出そうとしているイエスは、同じ職務を全うすることになる使徒たちに次のように言った。「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15:7~8)。

Maria K. M.


 2022/10/24


62. 認知のゆがみ

前回、子供時代に、ある司祭から受けた性的虐待について綴った、ダニエル・ピッテ氏の手記について書いた。彼は9歳の時に初めて司祭から性的虐待を受け、それが4年間続いた。彼は20年後に、被害者が自分だけではなかったことを知り、告発を決意する。子供を被害者とする性犯罪に関する研究は、特に欧米で進んでおり、これら性犯罪者には特徴的な性的認知の歪みがあることが明らかになっている。性的認知の歪みとは、性犯罪を促進する特有の考え方、態度、思い込みのことで、その内容は、被害者への性的加害行動の容認、その問題性や被害の重大さの軽視、その責任を被害者の言動や自分の心理状態に帰属させる傾向だということである。上記の手記のあとがきに、本書の執筆協力者が、出版の前年に加害者の神父に面談した記録が載っている。ここで神父が語っていることを読むと、性犯罪者の性的認知の歪みの特徴が見られることに驚かされる。本書のケースを含め、ほとんどの場合に、司教や同僚の司祭は虐待の事実を知ってもその重大さを軽視し、断固とした対応を取らなかったことを見ると、この認知の歪みが聖職者の間である程度共有されていたと言わざるを得ない。このように考えると、認知の歪みが生じた原因は、加害者の個人的な問題だけでなく、司祭としての養成にあると考えるべきであろう。今年、ある女子修道会の終生誓願式に参列した人は、そこで祝いの言葉を述べる司祭が、「司祭はキリストの代理者で、あなたがたはキリストの花嫁なのだから、私の花嫁でもあるのです」と言った言葉に驚き、倫理的な違和感を持ったと語った。1994年に教皇庁聖職者省から出された「司祭の役務と生活に関する指針」を読む機会があったが、このとき、これらの問題が、司祭が次のような表現で養成されているところから来ることに気づいた。「教会はあがないのしるしおよび道具となるよう、夫であるキリストから招かれた体であり妻である」、「司祭も司教に似て、教会と向かい合って立つ配偶者の次元にあずかる。『信者の各地方集団において、司祭は自分が信頼と寛大な心をもって結ばれている司教をある意味で現存させ』るので、妻(教会)に忠実でなければならないし、夫であるキリストの生き写しとして、キリストが教会に与えるさまざまな形のたまものを生かさなければならない」、「共同体が・・キリストの花嫁、教会になるためである。牧者としての司祭生活のこのような夫的な側面によって・・共同体を導くようになる」。このように、キリストと教会の関係に婚姻のイメージを持ち込み、司祭に、妻である教会の中に組み込まれていると同時に、教会に向かい合う夫という、相反する二つの役割を求めることは、彼のアイデンティティに混乱を生じさせ、性的認知の歪みを引き起こす可能性を否定できない。イエスがご自分を「花婿」にたとえたのは、唯一、断食についての問答の場面だけである(マタイ9:15参照)。そこで、弟子たちを婚礼の客にたとえたイエスのアイディアを生きたものとするためには、新しいぶどう酒を入れる新しい革袋が必要になる(マタイ9:17参照)。

Maria K. M.


 2022/10/17


61.「私はある」

アメリカ合衆国の新聞、ボストン・グローブ紙による20021月の報道に端を発したカトリック教会のスキャンダルは、瞬く間に長年の覆いを取り除き世界中に広がった。その炎は20年以上経った今も収まる気配がない。黙示録18章は、まるで21世紀の教会のこの現状を預言していたかのようだ。「彼女が驕り高ぶり、贅沢をほしいままにしていたのと同じだけの苦しみと悲しみを与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『私は、女王の位にありやもめではないから決して悲しい目に遭いはしない。』それゆえ、一日の内に、さまざまな災いが、死と悲しみと飢えが、彼女を襲う。そして、彼女は火で焼き尽くされる。彼女を裁く神は、力ある主だからである」(黙示録18:7~8)。以前から、聖職者による性的虐待事件の流れには、歴史の深い所から来る霊性的な問題を感じていた。やがて私はヨハネの黙示の訓練と出会い、これを実践しながら、「この書の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである」(黙示録22:10)という天使の言葉に勇気づけられ、やみくもにこのブログを書き始めた。その過程で、思いがけないことに、この書が、現代社会が抱える問題の根源を見ていることに気付いた。2017年に出版され、フランシスコ教皇が序文を書いたダニエル・ピッテ氏の手記を読むと、彼が司祭から性的虐待を受けていた1968年ごろ、彼の住む地域では、教会と国家が一つに結び付いていて、教会は絶大な権力を持ち、人々は教会の決めたルールに従って生活していたと書かれている。これら壮大な悲劇が長きに渡って隠蔽され得たのは、確かに大きな権力と権威が結びついていたからに違いない。しかし、問題はこれだけではない。これらの問題には、認知のゆがみが潜んでいるように思う。ヨハネ福音書にはイエスとイエスを信じたユダヤ人たちの問答がある(ヨハネ8:31~47参照)。ここで、真理をもって語りかけるイエスを前にして、彼らがアブラハムと神という二つの対象を同時に父だと認識していることが明らかにされる。それに加えて彼らは、神を父だと言いながら、神を配偶者として眺める霊性をも持っていた。教会は、この霊性を伝統として引き継いできた。神に向かって、天におられるわたしたちの父よと呼びかけ、その一方で、真の親である神として教会を産み出したキリストが、その教会を自分の花嫁として愛すると言っているのだ(本ブログ№59参照)。ここに起こる矛盾と倫理的な違和感は、長年の間には、無意識の内にもストレスになり、やがて認知のゆがみを起こす危険をはらんでいる。上記のイエスと彼を信じたユダヤ人との問答は次のように終わった。「イエスは言われた。『よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、「私はある。」』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」(ヨハネ8:58~59)。

Maria K. M.

【お知らせ】№59にある「無情報の神」との表記は「神の無情報」の誤りです。訂正いたしました。


 2022/10/10


60. エルサレム その2

イエスは弟子たちに、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ12:31)と命じ、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)と保証した。これまで考察してきたように、聖霊は、その実現のために、キリスト者に、3つの機会を与えた。1に、ヨハネの黙示を日々朗読しこれを聞く訓練を続けること。信者の無意識の領域に、イエス・キリストの世界観が注入される(本ブログ№36参照)。2に、ミサに与かること。福音書の朗読と聖体拝領が、信者の五感に強く働きかけ、最期の食卓で使徒たちが経験したイエスとの合一体験を与え(本ブログ№32参照)、キリストの名に相応しい役割を実感させる(本ブログ№49参照)。3に、聖霊の養成に与かること。神の無情報とつながる信者の意識の領域が、御父の摂理に適合するよう育成され、聖霊と協働する第3の受肉の神秘に向けて準備される(本ブログ№38参照)。こうして信者たちは、聖霊と協働するとき、神の国がキリスト者のものになったことを実感する。これら3つの機会は、黙示録21章の天から降って来る聖なる都エルサレムの描写に当てはまる。1に、「都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(黙示録21:14)とあるのは、十二使徒たちが持っているイエス・キリストの世界観を指す。城壁はヨハネの黙示の訓練である。2に、「この都は四角形で、長さと幅が同じであった」と「それは長さも幅も高さも同じであった」(黙示録21:16)は、ミサの平面的広がりと立体的空間を表現している。都の外観はミサである。3に、「十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた」(黙示録21:21)とある「真珠」はご聖体を暗示する。ゆえに門は聖霊の養成である。これらの符合からこの聖なる都エルサレムは、聖霊と信者が協働するとき現れる神の国の預言となっている(黙示録21:9~27参照)。前回、神の国を求めるキリスト者がミサへ向かう日常のルーティンを生きるとき、そこで辿る道がイエスの最期の食卓を、“今”に引き寄せ、再び『私の記念』(ルカ22:19)を現実にすると書いた。これは続く22章に描かれた、永遠に生きる都の描写に当てはまる。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。もはや呪われるべきものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや夜はなく、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らすからである。そして、彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22,1~5)。

Maria K. M.


 2022/10/03


59. 大バビロンの秘義

「天におられるわたしたちの父よ」と祈るキリスト者にとって、創造主である神が真の親であることは、教会が一貫して教えている周知の事だ。しかし一方で、「雅歌」に代表される婚姻のイメージを、まるで祖先の遺伝子を受け継ぐように、キリストと教会の関係になぞらえる伝統が引き継がれてきた。第2バチカン公会議文章の教会憲章は、「キリストは、教会を自分の花嫁として愛し、妻を自分のからだとして愛する夫の模範となった」(教会憲章第7節)と表現している。真の親である神として教会を産み出したキリストが、その教会を自分の花嫁として愛すると言っているのである。ここには、矛盾と倫理的な違和感を感じないではいられない。上記の表現は、性差と女性の権利を無視した表現であるだけではない。イエスが、「私たちに御父をお示しください」(ヨハネ14:8)と言うフィリポに言った次の言葉をも無視していることになる。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである」(ヨハネ14:9~10)。さらに、キリストと教会の関係に婚姻のイメージを持ちこむことによって、花嫁が婚姻によって花婿との性的合一に向かうように、キリストとの霊的合一を求めようとする信者が現れる。それは、キリスト者でなくとも、個々人が、それぞれに直感した神、宇宙など、大いなる存在との合一を目指し鍛錬することや、悟りの境地を体験し完徳を治めること、心身のバランスを保って良き人生を求めることなど、世界中で人々が切に求めてやまないものの一つであるにすぎない。イエスは言う「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。」(ルカ12:30~31)。それゆえ、イエスは、ご自身そのものである神の国のために、み言葉とご聖体と使徒たちを残した。そして、聖霊は、聖書とミサをもたらし、キリスト者と協働して地上に神の国を出現させる。こうして、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)とイエスが約束したとおり、神の国はキリスト者のものになった。神の国を求めるキリスト者は、決断一つで、イエス・キリストの世界観と聖霊の霊性によって養われ、神の無情報とつながり、ミサへ向かう日常のルーティンの中に入ることができる。このルーティンを生きるとき、そこで辿る道がイエスの最期の食卓を、“今”に引き寄せ、再び「私の記念」(ルカ22:19)を現実にするための始めと終わりになる。この日、過越の食事の準備のために、イエスから使いに出されたペトロとヨハネが辿った道、都に入り、水がめを運んでいる男(聖霊)と家の主人(御父)に出会った道がここに現れる(ルカ22:7~20参照)。

Maria K. M.


 2022/09/26


58. エルサレム

「天使は、霊に満たされた私を荒れ野に連れて行った。すると私は、深紅の獣の上に座っている一人の女を見た。この獣は、神を冒瀆する数々の名で覆われ、七つの頭と十本の角を持っていた」(黙示録17:3)。黙示録の中で、著者ヨハネは4回霊に満たされたことを記載した。上記はその3回目になる。第1の箇所で、著者は霊に満たされて「ラッパのような大きな声」を聞いた(黙示録1:10参照)。第2は、その同じ声を聞いた直後に著者は霊に満たされた(黙示録4:1~2参照)。しかし、今回、霊に満たされた著者に関わったのは、「声」ではなく天使だった。それは、公生活に入るイエスが、荒れ野でサタンの試みを受けたとき、天使たちがイエスに仕え、また、野獣と共におられたと福音書に書かれたように(マルコ1:13参照)、「荒れ野」は、人にも獣にも共に備わっている無意識の領域であり、天使の同伴が必要だったからだ。著者は「私は、この女が聖なる者の血と、イエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見て、私は非常に驚いた」(黙示録17:6)と書いている。聖なる者の血とイエスの証人の血を流した女は、エルサレムの都を象徴している。また、「あの大きな都は三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた」(黙示録16:19)とあったように、実際エルサレムは、未来にアブラハム由来の3つの宗教全ての聖地として三つに引き裂かれ、それが21世紀の今も続いている。黙示録には、次のようにエルサレムを都に定めたダビデ王に関わる記述が、暗示的に置かれている。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方」(黙示録3:7)、「ユダ族の獅子、ダビデのひこばえが勝利を得た」(黙示録5:5)、そして、「私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である」(黙示録22,16)。ここでイエスがご自身をダビデのひこばえと言っているのは、ソロモンが実現できなかったことを、イエスが実現したからだ。神はダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)と告げた。しかしソロモンが神から離れたために実現しなかった。神を父と呼ぶイエスに、ユダヤ人たちが強い妬みを持っていたことから、彼らの中に神への迷いと矛盾があったことが伺える(ヨハネ8:31~42参照)。やがて、ソロモンの著といわれる「雅歌」が聖書として後世に残され、この書に代表される婚姻のイメージが、神と民の関係に重ねられるようになった。神と親子の絆を結べなかった民は、神を花婿に、民を花嫁にたとえ、夫婦の契りを神との絆にイメージしたのだ。人の真の親である神を前にして、神と人の婚姻をイメージすることは、「深紅の獣の上に座っている一人の女」そのものだ。その額には、秘められた意味の名が記されている、それは、「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母という名である」(黙示録17:5)。

Maria K. M.



 2022/09/19


57. ヨハネの黙示の構成 その2

本ブログ№47で、イエスの誕生にまつわる新約聖書の登場人物の世界観に基づく行動原理を確認しながら、ヨハネの黙示の構成について考察した。ヨハネの黙示は、新約聖書成立を預言し、訓練者にイエス・キリストの世界観を注入しつつ、後半に入ると、「幸い」が次々に現れ、訓練者に同伴して聖霊の養成とミサに向かわせる。この構成は、福音書の流れを反映していると言える。そのことは本ブログ№50から前回までの考察によって明らかになった。ここで、ヨハネの黙示を朗読し、その声を聞く訓練を続けながら、聖霊の養成に与かる訓練者を考慮して、黙示録の初めから16章までの考察をまとめてみよう。訓練者は、新約聖書成立の預言を受け取り、竜や獣、偽預言者や悪霊たちの出現を乗り超えて、偶発的情報を区別する習慣を身につけながら、イエスの道を進み、ミサに向かう「王たちの道」を現した(本ブログ№56参照)。これによって、悪霊の救いを助け、第七の天使が空中に注いだ鉢の中身によってハルマゲドンから守られた。そして、「神殿の玉座から大きな声が聞こえ、『事は成った』と言った」(黙示録16:17)。次いで、ミサの始まりを告げる黙示録最後の大イベントが起こった(黙示録16:18参照)。しかし、ミサの挙行は先送りされた。それは、「あの大きな都は三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い起こし、怒りに満ちたぶどう酒の杯をこれにお与えになった」(黙示録16:19)という出来事が挿入されたからだ。続く「島々は逃げ去り、山々も消えうせた」(黙示録16:20)との言葉が、時間の経過を示し、これが預言であることを表している。さらに、「一タラントンほどの重さもある大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々はその雹の災いのゆえに神を冒瀆した。被害があまりにも大きかったからである」(黙示録16:21)と書かれた文の「雹」の災いは、イザヤ書にも「私は公正を測り縄とし、正義を下げ振りとする。雹は偽りという逃れ場を一掃し、水は隠れ場を押し流す」(イザヤ28:17)とあるように、神の裁きを示唆している。この流れは、17章冒頭の「さて、七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語りかけた。『ここへ来なさい。大水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。地上の王たちは、この女と淫らなことをし、地上に住む人々は、彼女の淫行のぶどう酒に酔いしれている。』それから天使は、霊に満たされた私を荒れ野に連れて行った」(黙示録17:1~3)にそのままつながる。黙示録の中で、著者ヨハネは、自身が4回「霊に満たされた」ことを記載している。上記の「霊に満たされた私を荒れ野に連れて行った」と言うフレーズは第3のものだ。ここに、黙示録の新たな構成をみることによって、黙示録1619節の預言が挿入され、ミサの挙行が先送りにされたことの意味を理解する鍵があるのではないか。次回からこのことを念頭に考察を続ける。

Maria K. M.

 2022/09/12

56. ハルマゲドンと第七の天使(黙示録15~16章)

黙示録の七人の天使の七つの災いの最後は次の個所だ。「汚れた三つの霊は、ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所に王たちを集めた。第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、『事は成った』と言った」(黙示録16:16~17)。汚れた霊、すなわち悪霊は、悪魔化(サタン化)したまま死んだ人の意志が、「人の偶発的情報」を取り込んだ知識と密着したまま地上に残って霊になったものだ(本ブログ№49参照)。そこで、意志と人の知識が切り離される場が「ハルマゲドン」であり、悪霊たちにとってまさに終末の戦いの場である。ここでイエスが話した毒麦のたとえが現実になる(マタイ13:24~30参照)。悪霊の意志と知識は、「刈り取る者」によって分けられる。「人の偶発的情報」を取り込んだ知識は、意志から引き離され、焼くために束にされる。そして、切り離された意志は、「王たちの道」(黙示録16:12)の到達地であるミサに入って来ることができる。この意志をご自分の死によって父のもとに一人一人連れて行くのは、信者に拝領されたご聖体だ。だから、両者が切り離される場であるハルマゲドンは、ミサに入る前の、いわば門前の広場だ。悪霊がここに至るためには「王たちの道」を出現させる信者が必要なのだ(本ブログ№55参照)。第七の天使が空中に注いだその鉢の中身は、ミサに向かう信者たちを照らし、守る(本ブログ№50参照)。ハルマゲドンに王たちを集めた悪霊たちにとって、神の照らしは災いと映る。この黙示録の箇所には、次のヨハネ10章の第7の節目が符合する。「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』そこでは、多くの人がイエスを信じた」(ヨハネ10:41~42)。ヨハネ福音書において、イエスを信じた人々の中で、洗礼者ヨハネを引き合いに出した上でイエスを信じたのは、この人々が初めてだった。彼らが言った、洗礼者ヨハネが話したことの中には、次の言葉が含まれている。「世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)、「私よりも先におられた」(ヨハネ1:30)、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」(ヨハネ1:33)、「この方こそ神の子である」(ヨハネ1:34)。イエスのもとに来て、これらの事が「すべて本当だった」と言ったこの人々こそが、聖霊降臨後の未来に、「王たちの道」を現し、ミサの中でご聖体を前にして、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と、天の父がペトロに現した言葉ではっきりと宣言するキリスト者になるのだ(本ブログ№32参照)。そこで、「神殿の玉座から大きな声が聞こえ、『事は成った』と言った」のである。そして、「稲妻、轟音、雷鳴が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった」(ヨハネの黙示16:18)。

Maria K. M.


 2022/09/05


55. 第六の天使と第3の幸い(黙示録15~16章)

ヨハネ10章の第6の節目は、「イエスは、再びヨルダンの向こう岸、ヨハネが初めに洗礼(バプテスマ)を授けていた所に行って、そこに滞在された」(ヨハネ10:40)という箇所だ。この個所は、洗礼者ヨハネが「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である」(ヨハネ1:23)と言って、自身の使命をはっきりさせたことを思い出させる。キリスト者の使命は、その名のごとく神の救いの業の継続のためにイエスの道を歩むことだ。この道は、ヨハネの黙示が示すようにミサに向かい(本ブログ№8参照)、派遣の祝福を受けた信者が再び次のミサを目指す道である。信者はミサにおいて真理であるみ言葉を聞き、命であるご聖体を拝領する。イエスが「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言った道がそこにできる。信者はこの使命を生きるために、ミサに向かう具体的なイエスの道の上に、日常のルーティンを形づくるのだ。すると日常で出会うすべてがミサへの途上に起こる出来事として受け取れるようになる。それは、信徒の生涯の上に具現化した、イエスを通って父のもとに行くキリストの道である。ここに、「第六の天使が、その鉢の中身を大河ユーフラテスに注ぐと、水が涸れ、日の昇る方角からやって来る王たちの道ができた」(黙示録16:12)が符合する。イエスの誕生において、東方の博士たちが星を頼りにイエスにたどり着いたように、「日の昇る方角からやって来る王たちの道」とは、み言葉とご聖体にたどり着く信者たちが辿るキリストの道である。続けて、「また私は、竜の口から、獣の口から、そして偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである」(黙示録16:13~14)とあるように、「王たちの道」は、キリストがその死によって贖った後に、新たに地上に残った苛まれる意志(本ブログ№50参照)や悪霊たちにとっては、救いの道となる(本ブログ№49参照)。彼らはイエスを知っていたので(ルカ4:41参照)、この道が現れるとそれがイエスだと分かるからだ。そして、悪霊たちは全能者である神の大いなる日の戦いに向かって「王たちの道」を求めて全世界に出て行く。そこで信者が、悪霊たちに見破られたスケワの息子たちのような目にあってはならない(使徒言行録19:15~16参照)。そのために、信者たちがヨハネの黙示の訓練と聖霊の霊性に与かり、目を覚まして神の照らしの衣を身に着けて歩むように(本ブログ№54参照)、第3の幸いが彼らを鼓舞する。「見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」(黙示録16:15)。

Maria K. M.


 2022/08/29

54. 第四の天使と第五の天使(黙示録15~16章) 

ヨハネ10章の第4の節目は、「イエスは言われた。『私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか』」(ヨハネ10:32)という個所だ。この時ユダヤ人たちは、神を父と呼ぶイエスに強い妬みを持っていた。神は、昔ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)とダビデに告げたが、ソロモンが神から離れたために実現しなかったからだ(本ブログ№43参照)。妬みの感情は増幅しながらその火で人を激しく焼く。ここに、「第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。人間は、熱で激しく焼かれたが、これらの災いをつかさどる権威を持つ神の名を冒瀆し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。」(黙示録16:8~9)が符合する。聖霊は今もイエスの言葉で人を説得し続ける。「もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう」(ヨハネ10:37~38)。人が神の現実を知り、また悟るためには、父の業を行うイエスを体験する五感の記憶の裏付けを必要とする。信者にとって、「この預言の言葉を朗読する」(黙示録1:3)ヨハネの黙示の訓練は、必要不可欠である。無意識の領域にイエス・キリストの世界観を注入するからだ。訓練者はその途上で、自身が妬みの火で焼かれていることに気付いたなら、喜んで神の名を讃え、悔い改めて神に栄光を帰すのだ。なぜなら、黙示録で災いという言葉は、神の照らしを意味し、それをつかさどる権威を持つ神の業を体験したのだから。こうして訓練者は目を覚まし神の照らしの衣を身に着けていく。第五の節目は、「そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた」(ヨハネ10:39)と言う箇所だ。「私たちと共におられる」(マタイ1:23)神が、目の前から見えなくなるという現実は、無意識のうちに人の記憶に大きな喪失感を与える。ここに、「第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣の国は闇に覆われた。人々は苦痛のあまり自分の舌をかみ、苦痛と腫れ物のゆえに天の神を冒瀆し、その行いを悔い改めなかった」(黙示録16:10~11)が符合する。獣の国とは、矛盾に気付かせる神の置いた敵意を無視し、錯覚を持って人が逃げ込むフィクションの世界だ。その中で闇は神の不在を知らせている。ヨハネの黙示の訓練者は、自身の無意識の領域にイエス・キリストの世界観が注入されながらも、聖霊の養成に与かることによって、神の無情報とつながることができる(本ブログ№39参照)。人の意識の領域とつながる神の無情報は、神の不在を知らせる闇に差し込む一筋の光、人の軛を共に負い、人に真の安らぎをもたらすキリストの光である。

Maria K. M.


 2022/08/22


53. 第二の天使と第三の天使(黙示録15~16章)

ヨハネ10章の第2の節目は、「ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』」(ヨハネ10:24)という箇所だ。各人がそれぞれに矛盾を抱え、フィクションの世界に逃げ込んでも(本ブログ№52参照)、イエスの存在によって、「神は私たちと共におられる」(マタイ1:23)という現実の前にたちまち引き出されてしまう。彼らは、自身の中に堆積する矛盾に堪えられず、矛盾を持たない神への妬みでいら立っていた。彼らはその原因を、血眼になってイエスに探す。人はこのような状態に陥ってしまうと、命の重さが見えなくなる。ここに、「第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、海の生き物はことごとく死んでしまった」(黙示録16:3)が符合する。第3の節目は、「私と父とは一つである」(ヨハネ10:30)というイエスの言葉に、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」(ヨハネ10:31)という箇所だ。人は矛盾の中で真理を突き付けられると、これを抹殺しようとする。ここに、「第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった」(黙示録16:4)が符合する。「水」とは、人が実際につながっている知識のことであり、「水の源」は、この知識の情報元を指している。それが「血になった」とは、この情報が人のものであったということだ。この源を神のものに変換するために、創世記で神が置いた敵意(創世記3:15参照)の働きに注目する習慣が必要だ(本ブログ№24参照)。妬みのために弟アベルを殺したカインは、矛盾を抱えフィクションに逃げ込んだが、神が置いた敵意の働きによって正気に戻り、神の前にいるという現実に目覚めた。そして「私の過ちは大きく、背負いきれません」(創世記4:13)と、正直に自分の気持ちを神に言うことができた(本ブログ№23参照)。神が置いた敵意の働きの背後には、常に人に真摯に向き合い、真理を告げる神の言葉がある。しかし、人は神の言葉をそのまま受け取ることに堪えられない。あらゆる真理に導いてくれる聖霊の支えが必須になる(ヨハネ16:12~13参照)。ヨハネの黙示の訓練者は、このために、自身の無意識の領域がイエス・キリストの世界観で満たされる訓練を続けている。やがて、第2の幸いを得た訓練者は(本ブログ№48参照)、自身が関わる外界に、ヨハネ10章のイエスの経験を見出し、「七人の天使の七つの災い」を悟るようになる。黙示録の著者が証し人として描き出した世界が、この人の実生活の面と重なって見えてくるのだ。そして、ヨハネの黙示の著者の体験を共有するようになる。

Maria K. M.


 2022/08/15


52. 第一の天使(黙示録15~16章)

前号までの考察を続ける。羊の囲いのたとえで始まるヨハネ10章の記述には、七つの節目がある。それらは、黙示録の「七人の天使の七つの災い」と符合する。第1の節目は、イエスの語った言葉をめぐって、「ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」(ヨハネ10:19)という箇所だ。人は世界を3次元の空間として捉える。その記憶には、ほとんど無作為に切り取った画像のように、個々人の幼少期から現在までの様々な場面が、適切に検証されずに蓄積されている。一方、言語は一次元の形態を取る。だから時間軸にそって記号が線状に並んだ情報として感覚に捉えられ、個々人の記憶に、いわば諸刃の剣のように差し込まれる。それは、いつも心地よいものばかりではない。時には自分の中に矛盾があると気付かされるからだ。まして、それが真理であればなおさらだ(本ブログ№48参照)。イエスは安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者としたと非難されていたが、彼を論破できる者はいなかった。イエスの言葉は、非難する者たちの矛盾を明らかに示す。多くの人は、自身の中に矛盾を見出すと、その矛盾に対峙するよりも、その矛盾の原因を、外界の出来事や他者のせいだと錯覚する。すると、この人の記憶に未解決の矛盾が堆積し、大きなストレスを抱え、遂にはフィクションの世界に逃げ込む。この個所では、「あれは悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたがたはその言うことに耳を貸すのか」(ヨハネ10:20)と言っている。これに対して、曖昧な認識のまま「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目を開けることができようか」(ヨハネ10:21)と言う者たちがいて、共同体の中に対立が生じたと書かれた。往々にして、古い体質の共同体や仲間の内では、所属する人々が、ある情報を共有したとき、画一的な共感を求める内的圧力が生じる。このとき、求めに応じず、疑問や異論を挟む者があれば、そこに生じる対立は、ときに人々の間を分断し傷を残す。これは、黙示録の「第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地に注ぐと、獣の刻印を押されている者たち、また、獣の像を拝む者たちにひどい悪性の腫れ物ができた」(黙示録16:2)と符合する。この悪性の腫れ物、すなわちここに生じた対立は、やがて、フィクションの世界を壊し、曖昧さを払拭し、救われる人々に道をつくる。

Maria K. M.

【お知らせ】本ブログ№50で、あいまいだったフレーズを、次の通り変更しました。

(変更前)「ご聖体は、これら死んで地上に残った苛まれる意志や悪霊を、死んで一人一人連れて行くために、信徒の協力を待っている。」

(変更後)「これら死んで地上に残った苛まれる意志や、悪霊であった意志を、ご自分の死とともに一人一人連れて行くために、ご聖体は、信徒の協力を待っている(本ブログ№49参照)。」


 2022/08/08


51. 神の怒りの頂点(黙示録15~16章)

前回考察したように、ヨハネ福音書において、5章の初めに「羊の門」(ヨハネ5:2)という言葉が出るのは偶然ではない。10章で、「よくよく言っておく。私は羊の門である」(ヨハネ10:7)とイエスが言った羊のテーマに向けての話が、5章からすでに始まっているのだ。また、イエスとファリサイ派やユダヤ人たちとの論争も、5章でイエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者としたことから始まっている(ヨハネ5:18参照)。さらにこの羊のテーマは、21章の復活したイエスがペトロに3回「私を愛しているか」と問う場面にまで及ぶ。ヨハネ福音記者が、これほどまでにこのテーマに固執したおかげで、キリスト者は、イエスの「私の教会」(マタイ16:18)の表象とその構造を、イエスのみ言葉から直接導き出すことができる。イエスは、羊の門のほか、羊の囲いや、羊飼い、(羊の)群れなどの言葉を用いて説明した。さらに、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)というイエスの言葉は、神が父性と母性を併せ持つ親であることを示している(本ブログ№2943参照)。神こそが人の真の親である。この神の特徴は、黙示録153節で、「彼らは神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌った」と表現されているところにも映し出されている。この描写は、イエスがその死をもって贖った人々と、その未来に、降臨した聖霊がご聖体の死をもって贖った人々が(本ブログ4950参照)、共に、全能者である神と小羊の道が、正しくかつ真実であることを讃え、歌っているところだ(黙示録15:3参照)。ここに、「羊のために命を捨てる」神の姿がある。ヨハネ福音書では、10章への導入となる9章の出来事の中で、ユダヤ人たちが、「イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(ヨハネ9:22)、そして、イエスについて、「私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ」(ヨハネ9:24)と公言していたと書かれている。彼らは、創世記4章で神が初めて罪と呼んだ、殺人に至る危険を、胸の内に秘めていた。殺人は、人を創造した神の御業へのはっきりとした否定だ。殺人に向かう人の思惑には人を悪魔化(サタン化)する、人の偶発的情報が密着している。ここに最後の七つの災いが注がれると、神の怒りが頂点に達する(黙示録15:1参照)。彼らが悔い改めないなら、死んだ後、彼らは悪霊になるより他ないからだ(本ブログ49参照)。(つづく)

Maria K. M.


2022/08/01

50. ヨハネの黙示15~16

前回考察したように、人の意志に偶発的情報が密着したまま死ぬと、悪霊となってこの世に残る。また、悪霊にならずとも、地上の生活にあまりにも執着していた意志も、死の時、神のもとに帰るみ言葉「あれ」に付いて行けず、この世に残ることになる。イエスが語った、紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた金持ちと、貧しい人ラザロのたとえ話のとおりである(ルカ16:19~31参照)。二人は死んで、ラザロは天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれ、金持ちは、黄泉で苛まれていた。アブラハムは、その理由を、「子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と説明した。これら死んで地上に残った苛まれる意志や、悪霊であった意志を、ご自分の死とともに一人一人連れて行くために、ご聖体は、信徒の協力を待っている(本ブログ№49参照)。信徒に拝領されることを待っているのだ。だから、信徒が勇敢にミサを目指すとき、神はミサに行くことを決断したこの信徒の意識の領域を守る。黙示録で、「神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった」(黙示録15:8)と書かれた「神殿」とは、この時の信徒の意識の領域を指している。では、ここで書かれている「七人の天使の七つの災い」とは何であろうか。まず分かるのは、これらの天使たちに神の怒りで満たされた金の鉢を与えた「四つの生き物のうちの一つ」(黙示録15:7)は、ヨハネ福音書だということだ(本ブログ№12参照)。それは、16章の「第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、『事は成った』と言った」(黙示録16:17)というフレーズが、ヨハネ福音書の「イエスは、この酢を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19:30)と符合するからだ。さらに、このイエスの十字架上の死の場面は、「羊のために命を捨てる」とイエスが何度も繰り返して言った、良い羊飼いのたとえの場面とリンクしている(ヨハネ10:1~42参照)。ヨハネの福音書において、イエスが公生活に入ってから、イエスの話しを聞いた人々との論争が絶え間なく続いた。その始まりは、「ベトザタ」と呼ばれる池で、安息日に病人を癒したことだったが(ヨハネ5:1~47参照)、その池はエルサレムの「羊の門」の近くあると書かれている。羊の囲いのたとえで始まる10章の記述から、イエスの言葉につまずいた人々が、イエスを殺そうとするまでの心理の変化を読み取ることができる。その流れは、黙示録の「七人の天使の七つの災い」と符合する。そして、「これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである」(黙示録15:1)と書かれた言葉は、この符合によって理解することができる。(つづく)

Maria K. M.

 

 2022/07/25

49. 悪霊の救い

ご自身を「ある」と言う神は、「あれ」というみ言葉によって被造物に自発性を付与し、すべてを創造した(創世記1章参照)。生き物が死ぬときは、この命を生かしていた「あれ」は、神の意志を成し遂げて神のもとへ帰る。一方、人は、他の生き物とは異なり、「あれ」という自発性が付与されたあと、神が、神の意志である命の息を吹き込んだ。意志は知識とともにある(本ブログ№41参照)。だから、人が死ぬ時、その意志は、体と共に死ぬ「人の知識」と切り離され、神のもとへ帰るみ言葉「あれ」に付いて行くことができる。聖書の中で蛇や竜の名で呼ばれている「人の偶発的情報」は、人間に取り込まれ、区別されずにその人固有の知識として意志に密着すると、人間を悪魔化(サタン化)する。だから、多くの人は、悪というものを人格化したくなるが、悪は生きている人間の仕業だ。悪魔化(サタン化)した人が死ぬと、その人の意志には、その人固有の知識として偶発的情報が密着したままである。そこでその人の意志は、「あれ」に引き寄せられることなくこの地上に残り、悪霊となる。悪霊となった意志は苦しみ、生きている人に取り付き、殺し、再び死ぬことによって解放されようとする。福音書には、イエスと出会った悪霊たちが、「神の子、構わないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」(マタイ8:29)と叫んだとある。この場面でイエスは、悪霊の望みどおり豚の中に入ることを許し、再び死ぬ機会を与えた(マタイ8:30~32、マルコ5:11~13、ルカ8:32~33参照)。弟子たちはイエスから与えられた権能によって、他者にとり付いた悪霊を追い払うことはできた。しかし、悪霊に死を与えられるのは神だけだ。十字架上でイエスは、すべての人をご自分に引き寄せた(ヨハネ12:32参照)。ことにイエスが現れる時代までこの世に残った悪霊やその他の死者たちの意志を引き寄せ、ご自分の死とともに連れて行った。これが、悪霊が言った「その時」だ。イエスは、ご自分の未来においても、地上に神がキリストの聖体として現存し、キリスト者に食べられることによって死に、この神の救いの業を続けるように準備した。イエスは、毒麦のたとえを話した時、意志を麦に、「人の偶発的情報」を毒麦にたとえた(マタイ13:24~30参照)。両者は、「刈り取る者」によって分けられる。人が死んでもその人の意志に貼り付いて、人を悪霊にしていた「人の偶発的情報」は、意志から引き離され、焼くために束にされる。イエスは、神の救いの業の継続を、イエスの名によって遣わされた聖霊と信者に委ねた。ミサの中でご聖体が信者に食べられて死ぬと、「私はある」(ヨハネ8:58)というみ言葉が神のもとに帰る。この時み言葉は、十字架上でイエスがしたように、死んで地上に残った悪霊やさまよう他の霊を、一人一人連れて行く。「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」(黙示録19:9)の幸いが、すべての人のものになるのだ。だから信者は、ご聖体を拝領する直前、死にゆくご聖体を前にして、天の父がペトロに現した言葉ではっきりと宣言しなければならない。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と(本ブログ№32参照)。

Maria K. M.


 2022/07/18

48. ヨハネの黙示14章

「また、私が見ていると、小羊がシオンの山に立ち、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」(黙示録14:1)。ここで言われた小羊の名は、彼らの無意識の領域に注入されたイエス・キリストの世界観であり、小羊の父の名は、意識の領域に刻まれた主の祈りであった。次いで、大水のとどろきのような、また激しい雷鳴のような音が天から響き、天上のミサの始まりを伝える(本ブログ№18参照)。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌っていた。イエス・キリストの世界観を歌う彼らの新しい歌は、小羊と小羊の父の名が記されているもの以外、誰も覚えることができなかった。彼らは、女、すなわち「情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を、あらゆる国々の民に飲ませたこの都」(黙示録14:8)との関りによって汚されたことがない。天の父の名によって守られたその記憶が純潔だったからだ。彼らは小羊といつも共にいる自由を聖霊によって得たのだ。地上に住むヨハネの黙示の訓練者に、イエス・キリストの世界観が注入され始めると、訓練者は、無意識のうちに、自分の内に「獣とその像を拝み、額か手にその獣の刻印を受ける者」(黙示録14:9)がいることを感じ取るようになる。この情報は、意識の領域に伝わり、おぼろげに神の知識と人の知識の区別が始まる(本ブログ№46参照)。そして自発的にみ言葉による「神の裁きの時」(黙示録14:7)へと出向くようになる。ミサに与かり、ご聖体を訪ね、聖霊の養成に与かるのだ(本ブログ№37~40参照)。ご聖体に現存する神は無情報だ。この無情報が訓練者の意識の領域とつながると、聖霊は、訓練者が持った錯覚やフィクションの記憶を、み言葉の諸刃の剣で貫く。そこで訓練者は、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。「ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある」(黙示録14:12)。そして、さらなる訓練に向けて第2の幸いが現れ、訓練者を励ます。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙示録14:13)。やがて訓練者は、神が意識の領域に置いた敵意に目覚める(本ブログ№23,24参照)。天使が地に鎌を投げ入れたのだ。それは容赦なく訓練者の持つ矛盾を明らかに示し、訓練者は自身が抱える矛盾を認める。神の怒りの杯に注がれた、混ぜものなしの怒りのぶどう酒を飲むのだ。搾り桶は「都」の外、すなわち意識の領域の外、実際の生活の場で踏まれる。訓練者の意識の領域は、具体的な場面で浄化される。矛盾を正し、それを人々の前で言葉や行為に移していく訓練者は、「主にあって死ぬ人」の幸いを得る。

Maria K. M.


 2022/07/11

47. ヨハネの黙示の構成

マタイ福音書は、イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれたとき、東方から博士たちが来訪したことを記載した。博士たちはヘロデに、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)と尋ねた。博士たちの訪問の理由に不安を抱いたヘロデは、自ら招集した祭司長たちや民の律法学者たちが引用した「一人の指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである」(マタイ2:6)という預言者の言葉と、博士たちの言葉との微妙な差異に気付かなかった。そこで、「ヘロデは博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、こう言ってベツレヘムへ送り出した。『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。』」(マタイ2:7~8)。しかし彼らは夢でお告げを受けたのでヘロデのところに戻らず、自分たちの国に帰って行った。ヘロデは、博士たちにだまされたと知って、激しく怒った。疑心暗鬼になったヘロデは、「人を送り、博士たちから確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した」(マタイ2:16)。ここでは、ヘロデ王、東方の博士たち、イエスの両親という登場人物が、それぞれの行動原理をもっていることが示されている。ヘロデは、皇帝とつながり、竜の情報を取り込んだ獣となっていた(本ブログ44№45№46参照)。他方、新しく生まれたユダヤの王の星を見たので拝みに来て、夢でお告げがあったので帰って行った博士たちは、真理の探究に基づく世界観を持っていた。また、主の天使が夢で現れ、その言葉に従って夜のうちにエジプトへ退き、ヘロデが死ぬまでそこにいたイエスの両親は、福音書が次のように記載したとおり、預言の言葉に基づく世界観を持っていた。「それは、『私は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」(マタイ2:15)。博士たちと両親は、それぞれが受け取ったしるしや言葉が、彼らの世界観から引き出された事柄そのものだったために、これらを信じ、確信をもってそれぞれの行為にした。しかし、その後この両親は、イエスが成長すると、「イエスの言葉の意味が分からなかった」(ルカ2:50)という場面に遭遇する。それは、まだ彼らがイエス・キリストの世界観を持っていなかったからだ。イエスは成人し、自らの世界観を弟子たちに注入した。そして、聖霊が降臨し、「イエスの言葉の意味」を知らせた。ヨハネの黙示は、前半で、新約聖書成立を預言して、訓練者にイエス・キリストの世界観を注入し、後半に入ると、「幸い」が次々に現れ、訓練者に同伴して聖霊の養成に向かわせる。この構成は、福音書の流れを反映していると言える。

Maria K. M.


 2022/07/04


46. 神の知識と人の知識 その3

「獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた」(黙示録13:7)。権力と権威を持って皇帝となったこの第一の獣は、政治と経済を司り、民を支配する。「また私は、もう一頭の獣が地中から上って来るのを見た。この獣には、小羊に似た二本の角があって、竜のように語った」(黙示録13:11)。この第二の獣の角は、この獣が、誰かの権威と権力を着ていることの象徴だ。彼は、雄弁をもって民に皇帝を拝ませ、戦争を起こして他国の富や領地を奪い大きなしるしを見せた偽預言者だ(黙示録19:20参照)。新しい武器をもって天から地上に火をも降らせ、民を惑わせた。惑わされた民の前には、獣の名の刻印(黙示録13:16参照)、すなわち皇帝の名と像が刻まれた貨幣による通貨制度が立ち上がっていた。今日でもそうであるように、貨幣を使うようになれば、その右手か額に刻印を押されたようにこの制度から逃れられない。民は貨幣がパンや魚、あらゆるものに代わることに慣れていく。人は、貨幣経済の中で生きるようになると、無意識のうちに、すべてを貨幣に換算して考えるようになる。それはイエスの弟子たちも同じだった。イエスがパンを増やした場面で、弟子たちは、イエスの言葉に、5千人の群衆にパンを食べさせるのに200デナリオンくらいは必要だと即答している(マルコ6:37、ヨハネ6:7参照)。この状態にあった弟子たちは、パンと魚を増やすしるしを見ても、それが神からのものだと悟るまでに至らなかった。そこでイエスは、「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」(マタイ14:22)。そして、「夜が明ける頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた」(マタイ14:25~26)。ここでペトロは、イエスに求め、水の上を歩いてイエスのもとへ行くという劇的な体験をした。弟子たちは、「まことに、あなたは神の子です」(マタイ14:33)と言ってイエスを拝んだが、おそらく恐怖のために、ここでも彼らは悟らなかった(マタイ16:5~12参照)。イエスは、弟子たちを獣の名の刻印から解き、額に「小羊の名と、小羊の父の名」(黙示録14:1)を記すために、多くのしるしや奇跡を体験させ、教え続けた。ヨハネ福音書では、イエスが群衆とのやり取りを通して(ヨハネ6:22~58参照)、パンを増やしたしるしの持つ真の意味を明かし、弟子たちを信仰告白まで導いている。弟子たちにとってイエスと共に過ごした3年間は、神の知識と人の知識(人の偶発的情報)を区別する体験の連続でもあった。だから、ヨハネの黙示にあるイエス・キリストの世界観も、同じ目的をもって訓練者に臨む。

Maria K. M.


 2022/06/27


45. 神の知識と人の知識 その2

「エバは、さらに弟アベルを産んだ」(創世記4:2)。アダムとエバは2人の子の父母となった。父母は、子どもたちにとっては神のような存在だ。実際、アダムとエバは、神になったかのようだった。これまで考察したように、アダムは、自分が権力をもったと錯覚し、他の生き物と同じように妻に名を付け支配することで、「すべての生ける者の母」としての権威も自分のものにしたというフィクションを持った。一方、カインを産み、「私は主によって男の子を得た」(創世記4:1)と言ったエバの言葉には、神を人の助け手、すなわち従属者にする意味が見える。体の中に命の城ともいえる子宮を抱えたエバは、神秘的な享楽につながるフィクションを持ったのだ。彼女は、男子という権力の象徴を手にし、しかもそれを神の権威によって得たと受け取った。この両親のもとで、殺人が起きた。カインが妬みのためにアベルを殺したのだ。これを神が初めて罪と呼んだのは、殺人が、人を創造した神の御業へのはっきりとした否定だったからだ。こうして、初めから困難を抱えた男と女の関係から成り立つ血縁の共同体は、家族と呼ばれ、婚姻という社会制度によって固められた。婚姻の制度は、常に権力と権威を追い求め、罪というリスクを内蔵する社会の土台となった。やがて社会は、権力と権威を持つ王や皇帝を求めた(サムエル記上8:1~22参照)。神はこれを受け入れつつも、時を見計らって神と人の上に親子の関係を定めようと計画した(サムエル記下7:14参照)。しかし人々は、神との関係に親子の関係よりも婚姻のイメージを求めた。これが「人の知識」であった。そこで、み言葉が人となって誕生し、神を父と呼ぶことによって、神は、神と人の関係を親子の関係として世にはっきりと表した。み言葉イエスを自分たちの子として受け入れることによって、ヨセフとマリアも、神を父と仰ぐイエスの側に置かれた。さらにマリアは神の独り子を宿し、神との完全な合一体験をもった。この体験は、イエスの弟子たちがご聖体を拝領する前触れであった。あるとき、少年イエスを見失った父母が、神殿の境内で彼を見つけたとき、彼が、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(ルカ2:49)と答えた言葉がこれを示唆している。父母がイエスを神殿の境内で見出したように、イエスの弟子たちもイエスの「私の教会」(マタイ16:18)でご聖体を見出す。そして、ミサの中でご聖体を拝領する時、神との合一体験をもつのだ。イエスの弟子たちはミサから出れば、再びミサへ帰る日常がある。この日常の道のりはけして平坦ではない。そこでイエスは次のように諭す。「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない」(ルカ14:26~27)。ここに「神の知識」がある。

Maria K. M.


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