イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/08/05



155. 司祭職と教会の天使

前回、「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」(黙示録21:9)の句を考察し、「小羊の妻である花嫁」は、主の十字架であり、イエスの言葉を記念として行う司祭自身が背負っている職務、司祭職であると結論付けた。今回、この天使のように、黙示録に登場する天使と司祭職について考察する。 

黙示録の初めに、著者は、ラッパのように響く大声が、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(1:11)と言うのを聞いた。そして、「○○にある教会の天使に、こう書き送れ」という書き出しと共に、それぞれの教会に手紙を書き送るように指示される。これらの手紙の中には、「あなた」と「あなたがた」を書き分け、司祭と信徒のいる教会共同体をイメージさせるものがある(スミルナ、ペルガモン、ティアティラ)。また、手紙の受け手が、自身の不足や弱さを抱えながらも、任された教会共同体のために、さまざまな問題と対峙する様子が描かれている。「天使」は司祭である。しかし、司祭が「天使」と呼ばれるのはなぜであろう。 

他の箇所で、天使は自分自身を、「わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である」(19:10)と言っている。「イエスの証しを守っている」という言葉は、黙示録の中では、この箇所と、「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った」(12:17)の文中の2か所のみである。そして、この「竜」の場面には、「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった」(12:6)と書かれていることから、この「女」すなわち司祭職は、「荒れ野」である使徒たちの記憶に隠されたと考えてきた。 

福音書は、イエスが「仕える者」について使徒たちに語り、彼らの記憶にこの御言葉を注ぎ込んでいった事を記している(マタイ20:26~28、マルコ9:3510:43~45、ルカ22:26参照)。使徒たちの記憶には、天使が自らについて言った「仕える者」という御言葉が置かれていたのだ。この御言葉は、イエスご自身である。イエスは最期の食卓で、使徒たちに「仕える者のようになりなさい」(ルカ22:26)と命じ、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22:27)と言っている。このようなわけで、七つの手紙の受け手である司祭も仕える者として、「天使」と呼ばれているのである。そして、ここから、「仕える者」が使徒たちの記憶に隠されていた司祭職の実像であったことが分かる。 

そこで、再び、黙示録の七つの手紙に戻り、それぞれの手紙の内容を、「仕える者」という御言葉を念頭に見直すと、そこに書かれた様々な問題に答えが見えてくる。さらに、各手紙の最後にある「勝利を得る者」に与えられる報いの内容は、「仕える者」の新しい姿を示し、それらは、終わりにイエスの食卓に行き着く(注)。司祭職は、天使がそうであるように、イエスの証しを守っている兄弟たちと共に、仕える者である。それは、すべての人をイエスの最期の食卓に導く。これらのことが分かるのは、私たちがすでに新約聖書を手にしているからだ。ヨハネの黙示録は、七つの教会に送る手紙の後、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第3の預言、「新約聖書成立の預言」(4~11章)に進む。 


(注)「勝利を得る者」の受ける報い

1.「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(黙示録2:7/エフェソ)

2.「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない」(2:11/スミルナ)

3.「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」(2:17/ベルガモン)

4.「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える」(2:26~28/ティアティラ)

5.「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3:5/サルディス)

6.「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(3:12/フィラデルフィア)

7.「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(3:20~21/ラオディキア)

 Maria K. M.




 2024/07/29


154. 司祭職と十字架

「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第7の預言、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落(黙示録21:1~8)は、前回考察したように、第4の預言で天に隠されたご聖体が姿を現す「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落(20:11~15)と同じ構造を取っている。このことから、「聖霊の霊性の預言」の初めの段落が、ご聖体の秘儀を明らかにしていることが分かった。 

続く「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の二つ目の段落は、「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」(黙示録21:9)で始まる。ここで、「小羊の妻である花嫁」は、イエスご自身のからだを釘付け、支えた十字架を表している(本ブログ№149参照)。この十字架は、イエスの言葉を記念として行う司祭自身が背負っている職務、司祭職である。そこでイエスは、使徒たちを選んで派遣するとき、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:38)と言っておいたのである。 

イエスの名によってパンとぶどう酒が御からだと御血になるように御父に願った司祭が、そのパンを取り、信徒と共に囲む祭壇の上で持ち上げる時、司祭の身体が、イエスのからだを釘付け、支えた十字架になる。福音書には、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ19:25)と書かれている。イエスは十字架上から彼らを見て語りかけた(ヨハネ19:26~27参照)。ゆえに、司祭は、共に祭壇を囲む信徒に向けてご聖体を示すのである。 

イエスによって成し遂げられたすべての出来事は、彼の最期の食卓で「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言ったものの、それを実現できなかった使徒たちの記憶に刻み込まれた。一方でそこには、御父のみ名が、これからも使徒たちを守ってくださるようにと願ったイエスの祈りがあった(ヨハネ17:11~19参照)。 

イエスは、使徒たちに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13~14)と言い、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)と続けた。そして、御父に、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17:19)と祈ったのである。 

「真理」とは、イエスご自身である(ヨハネ14:6参照)。真理であるイエスが、ご自身をささげたのは、十字架上であった。ゆえに、司祭の祈りに応えてキリストのからだとなったご聖体を、司祭が、信徒と共に囲む祭壇の上に持ち上げる時、まさに、ご聖体を支える司祭の身体が、イエスのからだを支える十字架となって、イエスに釘づけにされ、共にささげられた者になるのである。こうして、「彼らも、真理によってささげられた者となるためです」というイエスの祈りが実現する。 

イエスが「友のために自分の命を捨てる」と言った友とは、司祭職を担うことになる使徒たちである。それは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)と言った使徒たちを、一人も失わないためのイエスの決意だったのである(ヨハネ18:9参照) 

Maria K. M.





 2024/07/22


153. ヨハネの黙示録の内に現れたご聖体の秘儀

前回、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第4の預言、「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(12~16章)の中の、天と荒れ野に隠されたご聖体と司祭職についての考察を振り返った。これをもとに現在の考察を先に進める。 

第4の預言で天に隠されたご聖体は、第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落で姿を現す。「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」(黙示録20:11)の句で始まるこの段落では、「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」がご聖体をイメージさせ、ご聖体によって悪霊が救われる様子が描写される(20:12~15参照)。そして、「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(20:14~15)で終わる。この構造によって、太字で示した箇所が決め手となって、第7の預言、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落も、次のようにご聖体について続けて描写されていることが分かる(21:1~8参照)。 

「聖霊の霊性の預言」の初めの段落は、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行きもはや海もなくなった」(21:1)で始まる。次に、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(21:2)という句が続くことから、これが第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)に関わることだと分かる。「夫のために着飾った花嫁」が、イエスの最期の食卓、すなわち祭壇を表しているからである(本ブログ№149参照)。ゆえに、この段落で著者が聞いた「玉座から語りかける声」(21:3)も、「玉座に座っておられる方」(21:5)の声もご聖体からのものである。聖霊による、いわば第二の受肉の神秘であるご聖体が、イエス・キリストが成し遂げたすべてを継続し、保っている様子が語られているのだ(21:3~7参照)。そして、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者・・・このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)で終わる。 

完全に神であり、完全に人として現存したイエス・キリストは、この世で人の身体を取って生きている間、ただ追い出すだけで救うことをしなかった悪霊たちを、死んで陰府に降って救った本ブログ№147参照)。ご聖体は、それと同じ仕方で、すなわち信者に食べられて死ぬことによって、今も悪霊たちを救っている(20:12~15参照)。さらにご聖体は、イエスが人々と共におられたように、神が私たちと共におられること、そしてそこに神の国があることを実感させる(21:3~4参照)。 

イエス・キリストが成し遂げたすべてを私たちに悟らせる聖霊は、ご聖体を拝領する信者たちの中で、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言ったイエスの言葉を実現し、いわば第三の受肉の神秘を具体的に体験させる。そしてそのことによって、第三の受肉の神秘の状態を再現することのできる聖霊の霊性へと彼らを導く(黙示録 21:5~6参照)。聖霊の霊性の中で、神を天の父と呼ぶキリスト者は、同時に神であるイエスの子となる(21:7参照)。こうして、キリスト者がイエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって世の中で協働する姿は、世にイエス・キリストの姿をもたらすのである。 

だから、終わりに、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)と書かれている警告は、「不信仰な者」という言葉が示すように、私たちキリスト者に向かっている。 

昇天するイエスから、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1:8)と言われていた使徒たちのように、聖霊を受けたキリスト者であっても、受けた力を信じないで、おくびょうな者、不信仰な者となって、次々と不義を重ねていけば、第二の死を免れないのである。 

こうして、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落と共に、第4の預言で天に隠されたご聖体の秘儀を明らかにしている。同じく荒れ野に隠された司祭職の秘儀については次回以降に考察する。

Maria K. M.




 2024/07/15


152. 隠されたご聖体と司祭職

以前、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第4の預言、「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(黙示録12~16章)の中で、天と荒れ野に隠されたご聖体と司祭職について考察した。その結果、「身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙示録12:1)女は、司祭職をイメージしていること、「火のように赤い大きな竜」(12:3)は、人間の情報であることが分かった。そして、教会がたどる運命が、「教会の堕落の預言」(17~18章)へと向かっているために、司祭職から生まれたご聖体は天に、司祭職は使徒たちの記憶に、それぞれ隠された(12:5~6参照)。現在の考察を先に進めるにあたって、これらの考察を振り返っておくことにする。 

その後、ミカエルとその使いたちは、人間の情報(竜とその使いたち)に戦いを挑み勝利した(12:7参照)。それは、昇天するイエスから、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒言行録1:5)、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1:8)と言われていた使徒たちの霊を、人間の情報から守るためであった。 

実際、使徒たちは、復活したイエスと食事を共にしていたとき、イエスから、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1:4)と命じられたとおりに、都で彼らが泊まっていた家の上の階にいた。そして、「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1:14)。上の階で熱心に祈っていた彼らは、人間の情報から守られていたのである。 

復活したイエスを見ていた彼らの霊の内で、「命の木」は、「命の息」と神の知識とをつなぐインターフェースの働きをしていた。「命の木」は、さらに「善悪の知識の木」とつながり、すでに「善悪の知識の木」とつながっていた彼らの魂に、神の知識を伝えるのである。こうして霊が魂とつながった彼らは、イエスを身ごもり、エリザベトを訪問したマリアが、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1:46~47)と言った言葉に共感できる状態にあった(図1参照)。 

創世記にあるように、先に「善悪の知識の木」とつながってしまった人類は、その魂に激しい欲求が起こると、魂の側から強力な自発性を求めて「命の息」とつながり、行為を成すことができるようになっていた。多くの人々が悪霊候補者となっていたのだ。彼らは死ねば悪霊となってこの世をさまようのである。ご聖体と出会うまで地獄の苦しみにさいなまれる彼らこそが、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示録12:10)となる。 

使徒たちは、「小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った」(12:11)。「神のメシアの権威」(12:10)を実証したのだ。「自分たちの証しの言葉」は、福音書に「ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と書いてあるとおりである。その後、イエスの予告どおりに散らされ、イエスの受難と死を知った彼らの記憶には、「小羊の血と自分たちの証しの言葉」が刻み込まれた。 

司祭職は、人間の情報(悪魔、竜、蛇)から逃れ、養われる場に隠された(黙示録12:14参照)。イエスの最期の食事の席である。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22:19)とあるように、このイエスの命令は、聖霊が降臨して実現したミサ典礼が執行される場で現在化する。そこには人間の情報は入ることができなかった(黙示録12:12~16参照)。 

しかし、ミサ典礼が終わり、派遣される信者たち、「すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たち」(12:17)に、戦いを挑む情報群が待ち受けている。それは、「海辺の砂」(12:18)のような人の偶発的情報である。 

Maria K. M.





 2024/07/08


151. 無限大へのループ

ヨハネの黙示録の大きな特徴は、啓示の書、預言の書でありながらも、養成の書でもあるということだ。前回みたように、これまで黙示録の働きを支え、伝達してきたシグナルとなる言葉が、最後の「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22/下図参照)の章に集まってきている。それは、養成の書として持つ、いわばコンピュータプログラムのループ構造のようである。繰り返し実行される命令は、信者に神の無限の大きさとつながる準備をさせるために、この世に現れたイエス・キリストの世界観を刻み込む無意識の領域を、信者の記憶内に創造する。人の意識の中だけでは、神であるイエス・キリストの世界観を収めることができないからだ。ここで前回に続き、いくつか例を挙げながら考察を進めたい。 

「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22章)の、「私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(21:6)という句は、次に「私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである」(22:13)という強化された形で繰り返され、この最終章が初めの章へ力強く戻っていく力となる。それは、「私はアルファであり、オメガである」(1:8)という句が、「教会と共にいるイエス・キリストの預言」(黙示録1/下図参照)にあるからである。この力は、ヨハネの黙示録を養成の書として心得る者の、日々反復する修行がもたらす無意識の力に還元される。それは、キリストの名を受けたキリスト者が、イエスの名によって遣わされた聖霊と協働するためである。 

また、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)、「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」(21:27)、「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる」(22:15)と繰り返される句は、再び養成の初めに戻り、修行に向かって身を引き締めるように諭すのである。 

これらの諭しは、これまで考察したように、悪霊の救いはただ「大きな白い玉座」(20:11)であるご聖体により頼む以外にないことを思い出させる。ヨハネの黙示録の修行によって、イエス・キリストの世界観を着る信者たちは、ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きながら、悪霊たちにとりつかれることなく、死ぬ前は人であった悪霊たちがご聖体にたどり着くための「王たちの道」(16:12)を、身をもって指し示すのである。 

この養成の善き同伴者として黙示録の随所に登場する「幸い」も、ヨハネの黙示録のループを支えている。第6の「幸い」、「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」(22:7)は、第1の「幸い」の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3)に再び向かう勇気を与える。ヨハネの黙示録を朗読し、これを聞くことで、無意識の内に身に着けるイエス・キリストの世界観は、格別にミサ典礼に向かうルーティン上で生かされる。そこに苦労もあるが、この修行によって、その人自身が清められるだけではなく、その人の足跡がその時代をも清めていく。 

最後の第7の「幸い」は、「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(22:14)と書かれている。ここで「命の木に対する権利」とは、私たちの内に置かれた「命の木」が「命の息」とつながる権利である。神の自発性から分与された「命の息」とつながった「命の木」は、聖霊からの神の知識を受け取り、インターフェースとしてその機能を発揮する。そして、「命の息」とともに準備のできた信者たちの魂に向かう。こうして神の知識を受けた信者たちに、「門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める」ことが始まる。そこには、イエスが次のように約束した大きな報いと励ましが待っている。 

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。 

Maria K. M.




 2024/07/01


150. シグナル

前回に引き続き、ヨハネの黙示録の預言的構成(下図参照)の「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22章)についての考察を続ける。これは、ヨハネの黙示録の最後の預言である。ここには、これまで黙示録の預言の書としての働きを支え、伝達してきたシグナルとなる言葉が集まってきている。 

黙示録21章3節の、著者に玉座から語りかける大きな声は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)が実現するに至ったすべての労苦、死と悲しみや嘆きが過ぎ去ったことを告げた。ここは、ミサ典礼完成直後の場面である。そこで、「玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」(黙示録21:5)。 

したがって、使徒言行録でペトロが神殿で説教をした時、「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」(使徒言行録3:21)と述べた「万物が新しくなるその時」とは、ヨハネの黙示録において、「ミサ典礼の完成の預言」が実現されるときである。 

そこで「玉座に座っておられる方」は、続けて、著者に次のように言った。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙示録21:6~7)。著者に向かってこのように言ったのは、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」と言った「これらのもの」が何であるかを著者が知っていたからだ。 

著者がこの黙示録を書くきっかけは、主の日に、著者が、「霊に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた」(1:10)ことから始まった。彼はその声に、見ていることを巻物に書いて七つの教会に送れと命じられた。この七つの手紙に共通して書かれているのが、「勝利を得る者」に与えられる報いであった(2:72:112:172:26~283:53:123:21参照)。 

ここで、最後の手紙の報いが「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(3:21)と書かれており、今回の「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(21:7)とつながって意味を成していることが分かる。それは、最後の手紙の送り主が、「神に創造された万物の源である方」(3:14)であり、上記の「玉座に座っておられる方」(21:5)の言葉と主題が合致するからだ。 

さらに、最後の手紙の「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう」の直前の句は、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3:20)である。「戸口に立って、たたいている」方は、その方が入るに相応しい食卓が完成するのを心待ちにしているのだ。なぜなら、この方が、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(ルカ22:15~16)と言ったキリストだからである。 

ゆえに、ここで「勝利を得る者」とは、ミサ典礼を完成したキリスト者なのである。「ヨハネの黙示録の預言的構成」の図に示したように、ミサ典礼を完成するために、今分かっているだけでも、3つの必須要件を上げることができる。これらは、教会において未だ達成されていないか議論中のものばかりである。確かに私たちは、「教会の堕落の預言」の只中にいるのである。 

上記の「勝利を得る者」の二つの句は、次のようにつながる。「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」 

ここで示されたことは、イエスが最期の夕食で、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言った言葉と合致する。イエスのみ心は、彼が「わたしの兄弟姉妹、母、友」と呼んだキリスト者が、「わたしの子」となることにあったのである。

Maria K. M.




 2024/06/24


149. イエスのみ心と洗礼者ヨハネ

ヨハネの黙示を預言の書(黙示録1:3参照)と見た時の構成上の最後の部分、「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22/下図参照)は、イエスのみ心そのものである。聖霊はイエスの名によって遣わされたからだ(ヨハネ14:26参照)。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(黙示録21:1)という、何かの前兆であるような表現で始まっているのは、著者が「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(21:2)ためである。 

「花嫁」という言葉は、黙示録の中で5つの場面に登場する。新約聖書の他の箇所では、ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの口から出た次の一言だけである。「花嫁を迎えるのは花婿だ(ヨハネ3:29)。洗礼者ヨハネは、イエスが「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:13~14)と言ったように、預言者であった。そこで、洗礼者ヨハネの言葉を、黙示録から推測し、解釈することができるのではないだろうか。 

ヨハネの黙示録の中で「花嫁」が初めて登場するのは、「教会の堕落の預言」(17~18章)の最後である。「新約聖書成立の預言」(4~11章)が終わり、新約聖書は成立したものの、「司祭とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(12~16章)の中で、教会は、情報に翻弄された挙句、「紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、『大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母』という名である」(17:4~5)と描写されるまでに堕落する。 

そして遂に、「ともし火の明かりも、もはや決してお前のうちには輝かない。花婿や花嫁の声も、もはや決してお前のうちには聞かれない。なぜなら、お前の商人たちが地上の権力者となったからであり、また、お前の魔術によってすべての国の民が惑わされ、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」(18:23~24)と書かれた。これは、洗礼者ヨハネの殉教の場面ともイメージが重なる。 

このような状況を踏まえて、ここでの「花婿」を御言葉、「花嫁」を新しい契約を示す新約聖書と捉えなおしてみると、このフレーズは、教会の内で、御言葉も新約聖書も忘れられていることを憂いているのだということが分かる。そして、洗礼者ヨハネの「花嫁を迎えるのは花婿だ」と言った表現は、御言葉が新約聖書を完成するイメージとなり、旧い契約の最後の預言者として、彼が、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言ったことが頷ける。 

「花嫁」が次に登場するのは、「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた」(黙示録19:7~8)というフレーズであり、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の箇所に置かれている。「小羊の婚礼の日」がイエスの最期の夕食の場面であり、ここでご聖体を制定したイエスの言葉を受け取ったのは新約聖書であるから、ここでも「花嫁」は、新約聖書である。 

後の3つは「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22章)にあり、別のイメージが付加されている。「夫のために着飾った花嫁」(21:2)は、イエスの最期の夕食で御言葉によって成ったイエスの身体を支える食卓(祭壇)を、「小羊の妻である花嫁」(21:9)は、その翌日、イエスご自身の身体を支えた十字架を暗示している。 

これらの最後に、「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」(22:17)とある。これは、完成したミサ典礼に世界中の人々を招くイエスのみ心の声であり、信者たちにもそうするように命じているのである。このイエスのみ心を実証するのは、私たちキリスト者である。次のイエスの言葉が私たちの内に実現しているからである。 

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』」(ヨハネ7:37~38)。 

Maria K. M.







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