イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/11/04


168. 違和感

ローマ帝国に根付いたキリスト教は、西ローマ帝国の滅亡からローマを守った。そうしながら、およそ800年かけて準備された歴史の中に、聖フランシスコは登場した。彼の人生は、さらに800年後の私たちのために、今もシグナルを発している。 

イエスは、最期の食卓で使徒たちに、女が子供を産むときのたとえを語り、一人の人間が世に生まれ出た喜びに言及した。続けて、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16:22)と言って、ご自身の復活と同時に、ご聖体の誕生を予告した。そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16:23~24)と保証した。教会はこの世で最高のものを願って、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と祈り、イエスのこの言葉に応えてきた。 

ヨハネ福音書において、マリアは、司祭職そのものになるために、イエスから「母」と呼ばれることはなかった(ヨハネ2:419:26参照)。そして、十字架上のイエスの言葉によって「イエスの母」と親子の絆で結ばれた使徒は、司祭職と結ばれたのである。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(19:27)とある。そこには、クロパの妻マリアとマグダラのマリアもいた。サン・ダミアーノの十字架像はまさにこの場面を描いた。ここから、聖フランシスコが何かを悟ったのである。助祭職を受けた彼は、自身を「聖職者」と呼んでいることからもわかるように(注)、司祭職に向かう路線の上に立った。しかし、彼が司祭になることはなかった。

(注)『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)P. 289参照 

フランシスコは、教会への愛のために助祭に叙階されたことによって、違和感を抱え、それはやがて矛盾となって苦しんだのではないか。彼がこの矛盾を背負って生きる姿に、「イエスの召命」の存在が見える。彼の弟子たちの多くが離れ去り、もはや彼と共に歩まなくなったことがそれを物語っている(ヨハネ6:66参照)。それは、同時に、「『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(18:9)とある、受難に臨むキリストの姿でもあった。御父のみ手は、イエス・キリストと完全につながるぶどうの枝を、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:2)。そのみ手がフランシスコに臨み、彼は、そのみ手に自身を委ね、徹底的に清貧を生きて応え続けた。 

私見であるが、フランシスコに臨んだ御父のみ手は、彼が教会への愛のために受け取った助祭叙階の秘跡を無効にし、彼に初めから授けていた「イエスの召命」を戻してくださるための愛であったと思えてならない。彼は、やはり、サン・ダミアーノの十字架像の前で、「イエスの召命」を受け取っていたのだ。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/10/28


167. 召命 

前回の考察の結果は、大変興味深いもので、聖フランシスコが助祭職を受けた理由が分かる気がした。ヨハネの福音書と黙示録を題材にしたサン・ダミアーノの十字架像に呼ばれた彼は、無意識の内に自分が「イエスの召命」を持っていると感じていたのではないだろうか。それは、イエスが天の国のために自ら独身となった者として生き、「御父」に対して最期まで「子」であり続けることで残した「イエスの召命」である。 

イエスに倣って天の国のために自ら独身を生きる召命に恵まれた者は、自分にそれがあることが分かる。イエスが、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19:12)と言った言葉は、この召命を自分が持っていることを受け入れた男女の信徒が、自由にそれを生きることができることを保証している。「イエスの召命」は、それを受け入れた者を、イエスのように、「神の国」のありかを告げる「恵まれた者」(19:11)にする。しかし、男性であったフランシスコは、教会が彼を司祭職へ招くことによって大いに苦しむことになる。彼は、自分の内にすでにあった「イエスの召命」への愛と、教会への愛との間で板挟みとなったからだ。司祭職への招きは、「マリアの召命」を受け取ることへの招きであり、両者は異なる召命である。 

イエスの司祭職は、その母マリアが天使のお告げに答えたことに始まった。マリアは、イエスと共に彼の司祭職も受け取ったのである。ヘブライ人への手紙に、「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」(ヘブライ5:4~5)と書いてあるように、イエスは、神から召されて受けるこの光栄ある任務を、いわば母マリアから受けたのである。そこでイエスは、母のために「最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(ヨハネ2:11)。水がぶどう酒に変わったこのしるしは、次に、ぶどう酒が御血に変わる前表であった。マリアは、天使を前に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と言った言葉を、まさに生涯をかけて生きていたのである。イエスは、そのマリアの願いが御父に向かっていたことを知っていた。 

イエスが行った聖体制定によって、パンとぶどう酒が、キリストの体と血になったご聖体が、イエスと共に最期の食卓を囲んだ使徒たちに食べられ、飲まれたことによって起こったご聖体の誕生と死は、イエスの誕生と死の現実の再現であった。イエスは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって、この業を未来も継続するように命じた。イエスを産み、イエスの十字架上の死を体験し、イエスの誕生と死を完全に共有した唯一の人である母マリアの現実は、聖霊と協働してご聖体を生み出し、その誕生と死を共有する司祭たちの体験の源であり、新しい契約の司祭職である。イエスは、十字架上で、母と使徒を親子の絆で結んだ。それは、使徒が、聖霊が降り、いと高き方の力に包まれてマリアが受け取ったイエスの司祭職と、未来永劫結ばれたことのしるしである。ゆえに、司祭は、「マリアの召命」を持っている。 

イエスは最期の食卓で、「マリアの召命」を受ける使徒たちの願いが、ご自身から(ヨハネ14:13~14参照)、聖霊へ(15:7~16参照)、そして、御父に向かうまで彼らを導いた(16:21~27参照)。そして教会は、イエスのこの導きに応えた。司祭は、ミサ典礼の中でパンとぶどう酒を前に、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と祈る。使徒たちの役務を受け継ぐ者である司祭だけができるその祈りを、司祭は、生涯をかけて捧げるのである。ご聖体は、ご自身が食べられて死ぬという業によって、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17:19)というイエスの言葉を実現しながら、司祭たちの祈りを支え続けている。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/10/21


166. 神の似姿

サン・ダミアーノの十字架の中央のイエスはご聖体を表している。その右側には、司祭職(イエスの母)と、それと分かたれない絆(親子の絆)で結ばれた司祭(愛する弟子)がいる。ご聖体を挟んで左側には、既婚の信徒(クロパの妻マリア)と、独身の信徒(マグダラのマリア)がいて、彼らの左には、キリスト教を受け入れ、真摯な眼差しをご聖体に向けるローマ帝国(百人隊長)が置かれている。これは、おもにヨハネ福音書の場面を題材にしている。十字架像全体は、幸いと平和に満ちている。 

百人隊長を除く4人は皆、キリストの名を自分の十字架として背負っているキリスト者である。彼らは、イエスの名によって遣わされた聖霊と協働して、イエス・キリストをこの世に再び現す使命を帯びている。サン・ダミアーノの十字架には、この使命が、教会を構成する司祭と信徒という二つの立場として、イエス(ご聖体)を中心に左右に配置されている。「神の国」を世に現す教会の使命は、これら二つの立場を一つに包み、覆う、聖霊の力を見えるようにすることにある。それは、ミサ典礼の中で、祭壇とご聖体を囲んで立つ司式者と会衆として具現化する。さらに、これら二つの立場は、三つの召命によって構成されている。 

イエスは、およそ30歳で宣教を始め、受難を通って、十字架上で母を使徒に与え、ご自身の死によって聖家族を一時的に解消した。そして、わき腹から流れ出た血と水によって、聖家族の構成を持つ教会を新たに生み出した。 

イエスの十字架のそばにいた人々は、「愛する弟子」を除いて女性ばかりであった。しかし、彼女たちの名の後ろには、既婚の男性の信徒と独身の男性の信徒が隠れているのである。当時、女性たちは社会的にあまり目立たず、ローマ兵やユダヤ宗教指導者たちの監視が厳しくなかったため、十字架のそばにいることが比較的安全だったと考えられる。イエスの復活後も、番兵がいたにもかかわらず、「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(マタイ28:1)と書かれている。 

マリアは、天使が、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(ルカ1:35)と告げた言葉を承諾し、イエスの母となった。イエスは昇天を前に使徒たちに、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(24:49)と命じた。彼らは、イエスの言葉を承諾し、イエスの祝福を受けた。このように、司祭は、聖霊によって高い所からの力に覆われることによって、聖霊と協働して「キリストの体」の母となることができる。これこそが司祭職であり、ゆえに司祭は、男性でありながらマリアの召命を持っているのである。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)とあるマタイ福音書の証しが、イエス昇天後も実現し続けるためには、聖霊と協働するマリアの召命が必要である。この召命は「聖霊」のポストに対応する。 

イエスは、生涯独身を生きることによって、「御父」に対して「子」であり続けた。その証人となる信徒は、イエスに倣って生涯独身で生きることができる。イエスが、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19:12)と勧めたように、天の国のために独身を生きるその人には、自分がイエスの証人であることが分かるのである。彼らは、「神の国」のありかを告げる「恵まれた者」(19:11)なのだ。イエスが、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(ルカ18:16)と言ったように、神の国は「子供たち」のものである。彼らはまさしく独身者であり、「神の国」は、彼らと共にある。このように独身の男女の信徒は、イエスの召命を持っている。この召命は「子」のポストに対応する。 

ヨセフは、主の天使が夢に現れて言った言葉を承諾し、妻マリアと胎内の子イエスを迎え入れた。その言葉は次のとおりである。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:20~21)。彼がマリアとイエスを迎え入れた時、彼は、彼自身の召命を受け取った。そして、聖家族が世に現れたのである。ヨセフは、既婚の男女の信徒を表している。彼らは、教会の召命を持つ者、すなわちマリアとイエスの召命を持つ者たちを恐れずに迎え入れ、教会に聖家族を現わすヨセフの召命を持っている。この召命は「御父」のポストに対応する。 

このように、聖家族の構成を持った教会は、その自覚によって、三位一体の神を反映することができる。イエスは、御父に次のように切に祈った。 

「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(ヨハネ17:22~23)。 

つづく 

Maria K. M.



 2024/10/14


165. 時差

第二バチカン公会議の典礼改革によって、ミサ典礼は、司祭と信徒が祭壇を囲む様式へ移行した。これは、イエスが、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:38)と言った「新しい革袋」への大きな一歩であった。イエスは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)と言い、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)と祈った。御父がイエスに託した救いの計画の中心はここにある。そこで、上記の一歩を確実に前に進めるために、神の救いの計画について、洗礼者ヨハネの生涯を追いながら考察したい。 

洗礼者ヨハネは、「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1:17)という天使のお告げと、父ザカリアの、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」(1:76~77)という預言、そして、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(3:4~6)という神の言葉を授かっていた。彼が、エリヤの霊と力で主に先立って行き、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるのは、人が皆、神の救いを仰ぎ見るためであった。 

福音書は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)という洗礼者ヨハネの声を聞いて、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたこと、ファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢、洗礼を受けに来て彼の教えを聞いたこと(3:3~10参照)、徴税人や兵士たちにも様々な勧めをして民衆に福音を告げ知らせたことを記載した(ルカ3:7~18参照)。 

また、ヨハネはイエスに洗礼を授け、「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)。そして、自分の弟子たちを意図してイエスに向かわせていた。「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(1:35~37)とある。ヨハネは、イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)であり、「私よりも先におられた」(1:30)方、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」(ヨハネ1:33)、「この方こそ神の子である」(1:34)と預言した。 

さらに彼は、イエスが遣わされた真の目的が、旧い契約を終わらせ、新しい契約(花嫁)を成し遂げることだと悟り、次のように言った。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:29~30)。イエスが、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:13~14)と言ったように、「わたしは衰えねばならない」と言う彼の言葉には、旧い契約の預言の終焉を背負った洗礼者ヨハネの覚悟があった。彼は、エリヤのように神への不義に挑戦し、殺された。 

イエスは、弟子たちに、「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか」(マルコ9:12)と問うた。この問いは、その答えを唯一知るイエスご自身が「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)ための、苦難と死への挑戦の言葉であった。子を見て信じる者が皆永遠の命を得て、イエスがその人を終わりの日に復活させるために、彼は「自分の民」、すなわちキリスト者の未来を、崩壊するエルサレムから救い出し、新しい都に移す計画を担っていたのだ。それは親がその子を自分の命と引き換えに救うような挑戦であった。神の子イエスは、完全な人として、ローマ帝国の刑罰である十字架刑を受けることで、ローマ帝国の額にその名を刻印したのである。 

ピラトは、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(マタイ27:24)と言った。しかし、イエスの思いはすでにローマ帝国を捉えていた。使徒パウロは、「勇気を出せ」(使徒言行録23:11)というイエスのはげましの言葉によって、この壮大な神の計画を背負って、ローマの地を踏んだ。 

一方、ピラトの言葉に、民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ27:25)。「その血」とは、イエスが、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(26:28)と言った血である。神は、ご自身が選び育んだ旧約の民が、キリスト者と共に、この新しい「契約の血」の責任を担い合う日を待っている。ゆえにヨハネの黙示録には次の言葉がある。 

「都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(黙示録21:12~14)。 

つづく 

Maria K. M.

 


 2024/10/07


164. 配置

サン・ダミアーノの十字架の構図には、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)にある二つの到達点が見える。第3の預言、「新約聖書成立の預言」(4~11章)と、第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)である。その中央には、十字架につけられ、血を流すイエスの姿がご聖体を暗示している。そして、イエスの血によって結ばれた新しい契約が、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって現在化されていることが、その浮かび上がるようなキリストの体の描写に表れている。 

ここで、ご聖体を暗示した十字架のイエスの両側に描かれた4人は、ヨハネ福音書で十字架のそばにいた、イエスの母と「愛する弟子」、クロパの妻とマグダラのマリアである(ヨハネ19:25参照)。さらにイエスの左端にいて彼らに寄り添い、十字架上のキリストを見上げ、下に百人隊長と書かれている人は、改宗したローマ帝国を表している。彼の立てている三本の指は、「キリスト教的な文脈においていえば、これは『わたしはイエスが主であることを証ししている』と言う意味」(注)だという。

(注)マイケル・グーナン著、小平正寿訳(2001)『聖フランシスコに語りかけた十字架』サンパウロ, p.20 

この4人は、「ヨハネの黙示録の預言的構成」の第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の中にいる。イエスを挟んで左右に分かれて描かれているのは、ミサ典礼における人の配置を示している。この十字架像には十字架の木がはっきりと描かれていない。キリストの体がご聖体であって、その下には祭壇があるはずだからだ。祭壇の上のご聖体として描かれたイエスの右に表されているのは、イエスの母と彼女を自分の家に引き取った「愛する弟子」である使徒、すなわち司祭職とそれを受けた司祭である。左には、クロパの妻が既婚の信者たちを表し、地名であるマグダラで呼ばれているマリアは独身の信者たちを表していると考えられる。 

ご聖体の右と左に描かれた彼らには、イエスが、「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」(マタイ20:23)と言った言葉が実現している。この御言葉は、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来てひれ伏し、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(20:21)と願った言葉にイエスが答えたものだ。権力や支配力を求めるのは、男も女も変わりはない。世界のグローバル化が進んだ現代にあっても、男尊女卑や、家父長制の伝統が残り、真の男女平等が見えにくくなっている。 

アダムは、妻をエバと名付けて支配し、権威と権力を得ようとした(創世記3:20参照)。エバは、カインが生まれると「わたしは主によって男子を得た」(4:1)と言って、自分を神聖化し権威を持とうとした。この両親のもとで、カインは妬みによって、「弟アベルを襲って殺した」(4:8)。福音書には、ゼベダイの息子たちとその母の出来事について、「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(マタイ20:24)とある。ヨハネは、この出来事を決して忘れることがなかったに違いない。使徒たちの間にさえ、人間関係の負の連鎖が始まるのを見たからだ。 

サン・ダミアーノの十字架像の右と左に描かれた人々は、三次元的に描けば、ご聖体とそれを支える祭壇を囲んだ構図になる。このような配置は、互いの姿を見て、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(ヨハネ17:23)というイエスの祈りを実感することを可能にする。そうすると信者たちの関係に透明性が出てきて、次第に負の連鎖を抑止する新しい人間関係が生まれてくる。教会が独特な伝統の中で隠蔽し続けてきたさまざまな事柄が、今日明るみに出されている現実が、それを証ししている。それらがあまりにも耐えがたい経験であったとしても、私たち教会は、確かに浄化の道を歩み始めている。聖体の制定が過ぎ越しの食卓を囲んで行われたからだけではなく、信者がご聖体とそれを支える祭壇を囲んで行うミサ典礼の重要性がここにもある。 

私は、第二バチカン公会議後の信者であり、ミサ典礼は司祭と信徒が祭壇を囲むこの様式しか知らない。だから、教会が皆で祭壇に向かってミサ典礼を挙行していた時代から一世紀もたっていないことを知った時は、少なからずショックを感じた。一方で、このような改革を行った教会は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)に向かって大きな一歩を踏み出していたと知って、大変うれしかった。これらを思い出し、フランシスコの時代に思いを馳せ、ずいぶんと考えさせられた。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/09/30


163. 神の子キリストの痕跡

聖フランシスコは、サン・ダミアーノの十字架を見た。そこには、ヨハネの福音書と黙示録から多くの着想を得た神の国が描かれていた。彼が受けた神の国の真理は、800年を経た今も私たちに伝わってくる。 

サン・ダミアーノの十字架上のイエスは苦しんでいない。その姿がご聖体を暗示しているからだ。ご聖体は、信者たちに神の無情報の知を持たせる。信者たちに食べられ、「神の子キリスト」との合一体験を与え、神の無情報を体感させる。そこで信者は、ご聖体からパンとぶどう酒の味わいを切り離したところに注目し、ご聖体を拝領した無味乾燥の味を覚え、神の無情報を記憶しなければならない。そのために信者は、ご聖体を拝領するにあたって、全感覚を総動員する必要がある。まず、司祭が挙げるご聖体を見て、「神の子キリスト」であると宣言しておくことが不可欠である。これから拝領するご聖体における神の無情報が「神の子キリスト」のものであることを、宣言する自分の声を聞いて確定させるためである。そして配られたご聖体を取って自分の指で触れ、匂いをかぎ、口の中に入れ味わう。 

このような特別な知識の習得は、普通、無意識のうちに行われる。それは、本人はもちろんのこと、誰にも見えない。だから、この無意識の領域に「神の子キリスト」が痕跡として残るように、ご聖体を拝領する直前にご聖体に向かって告白するのである。この痕跡は、そのミサ典礼が派遣の祝福によって終わった後から次のミサまでの、日常のルーティンを生きる道筋で生きるものとなる。イエスの名によって遣わされた聖霊がキリストとして働くために、信者に協働することを常に求めているからだ。聖霊はキリストとなるために信者に触れ続けている。そのかすかな感触は、聖体拝領を通じて信者の無意識の領域でその人が預かっている、神の無情報の痕跡と一致する。「神の子キリスト」の痕跡である。 

協働することを常に求めている聖霊に応える体験は、それを望む信者にとって常に「然り」だけが実現する(コリント二1:17~22参照)。自発的に聖体拝領の列に並び、司祭から渡されるご聖体を取って食べるように、派遣の祝福から次のミサまでの日常のルーティンを生きる道筋で出会うすべての出来事の前で、自発的にご聖体を拝領した神の無情報の感覚を思い出し、聖霊と協働することに注意を向ける。すると次の行為が、自分一人で成した時と違うことがそのプロセスから分かるようになる。イエスが「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言ったとおりである。 

情報の塊として生まれ、情報の只中で生きる人間にとって、意識を神の無情報に向ける事だけが、あらゆる情報から貧しくなる唯一の術である。そして、聖霊と協働した記憶は、神の洗いを受け入れる小さい者に与えられる幸いを実感させる。神は、このように信者が、何人にも依存することなく、ダイレクトに聖霊と協働して生きる者となることを望んでいる。 

ここで、聖霊と協働するために同時に必要になるもう一つの事柄が、イエスの次の言葉にある。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハネ16:13~14)。 

聖霊がイエスのものを受けて、私たちに告げることを知るためには、現実にイエスと共に生きた弟子たちのように、イエス・キリストの世界観を共有している必要がある。聖霊降臨の後の弟子たちの活躍にみられるとおり、彼らは、ヘブライの聖書の預言をイエス・キリストの世界観によって悟り、語ったのである。彼らが「無学な普通の人であること」(使徒言行録4:13)は問題ではなかった。同じように、ヨハネの黙示録から、私たちの記憶に注入されたイエス・キリストの世界観は(下図参照)、私たちが新約聖書の言葉に触れる時、記憶の内奥から深い共感を呼び起こし、真理を知っていることを悟らせる。ついには私たちの口から、当時の弟子たちに起こったように、御言葉が、命の言葉が流れ出てくるのである。 

つづく 

Maria K. M.

 



 2024/09/23


162. わたしの家

ヨハネの福音書と黙示録から多くの着想を得て描かれたサン・ダミアーノの十字架は、フランシスコの視覚に強く訴え、彼はそれを捉えた。彼は、この十字架から、「フランシスコよ、見てのとおり、わたしの家は完全に壊れようとしている。さあ、行ってわたしの家を修復しなさい」と言う声を三度聞いたという。フランシスコは具体的な教会堂の修復に向かった。 

イエスは、弟子たちと過ぎ越し祭にエルサレムへ上ったとき、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した。そして鳩を売る者たちに、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2:16)と言った。「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(2:17)とある。「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(16:15)と言ったイエスにとって、「父の家」が「わたしの家」なのである。また、御父が持っている家を思う熱意もイエスのものであった。フランシスコは、それを共有したに違いない。 

さらにイエスはこの場面で、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2:18)と詰め寄るユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)と答えた。福音書は、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(2:21)と解説している。当時のフランシスコにとって、また私たちにとっても、イエスの「御自分の体」とは、ご聖体である。ゆえに「わたしの家を修復しなさい」とは、ミサ典礼を完成することにつながっていた。 

しかし、800年以上も前にすでに新約聖書が成立していたものの、当時の教会は、まさに「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第4の預言、「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言(12~16章)」の只中にいた。さらに歴史の流れは、教会を、第5の預言、「教会の堕落の預言(17~18章)」に向かわせていた。この狭間で、神は、ヨハネの福音書と黙示録を題材にして、フランシスコに、神の国全体を可視化して見せたのである。 

彼はサン・ダミアーノの十字架に「神の国」の「真理」を見て、「命」を悟った。それはキリストの命であった。彼は、キリストの命によって救われた全被造物を見渡した。そして、振り返った。求める人々にこの「命」に至る「道」を示そうとしたのである。「神の国」を真理として受けた彼の脳裏には、「神の国」についての二つの福音のテーマがあった。貧しさと小ささである。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)と言ったイエスがその人々の間で生きたこと、それは弟子たちを派遣したときの言葉にも裏付けられていた(ルカ9:3参照)。これがフランシスコにとって具体的にキリストの後に従う方法になった。 

また、イエスは、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18: 17)と言った。それは、弟子たちがイエスに触れていただくために子供たちを連れてきた人々を見て叱った時である。「イエスに触れていただく」ことには、神の洗いを受け入れる者の幸いがある。イエスが、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)行為は、弟子たちの足を洗うことだった。このように、「子供のように神の国を受け入れる人」とは、神がいつでも洗うことができる小さい者として自分を捉えている人だ。 

こうしてフランシスコは、御言葉によって、貧しい者であることと小さい者であることが、「神の国」の「真理」に至る「道」を示すしるしだと確信した。そしてそこに集中し、徹底的に生きたのである。彼は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)というイエスの言葉を、正面から信じて生きていた。この彼の情熱を頼みに、神は彼にイエスの十字架を負わせた。それは、ヨハネの福音書と黙示録を題材にして描かれたサン・ダミアーノの十字架であった。彼はイエスの名を身に受け、その愛と「神の国」を背負ったのである。 

つづく 

Maria K. M.




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