イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/12/16


174. 三人のヨハネ

サン・ダミアーノの十字架像には、特徴的な三人の男が描かれている。上部に描かれた封印のついた巻物を持つ黙示録の著者ヨハネ、中央の十字架像の右側にイエスの母とともに描かれた使徒ヨハネ、そして、十字架像の左端、百人隊長の後ろに小さく首から上だけ描かれている男である。これら三名の男たちは、他の人物にはない特徴ある額のかたちで描かれている。 

封印のついた巻物を持つ黙示録の著者ヨハネの描写は、黙示録に注意を向けさせるためであった(本ブログ№161参照)。イエスの母とともに描かれた使徒ヨハネの描写には、司祭職と司祭が描かれている(本ブログ№166参照)。それでは、百人隊長の後ろにいる第三の男は誰で、彼のテーマは何であろうか。 

まず、そこに描かれている百人隊長は、キリスト教を受け入れたローマ帝国を表している。ローマ帝国に根付いたキリスト教は、西ローマ帝国の滅亡からローマを守った。800年後、キリスト者となることが当たり前の場所と時代にフランシスコは生まれた。当時、ギリシア哲学、特にアリストテレスの教えがカトリック教会に影響を与えつつあった。 

一方、フランシスコ自身は、学問的な影響をあまり受けることなく、教会の教えに対する素直な信仰と簡素な生活を重視していた。サン・ダミアーノの十字架像から、ヨハネ福音書と黙示録を授かったフランシスコを、聖霊が導いて真理をことごとく悟らせようとしていたからだ。サン・ダミアーノの十字架像は、フランシスコが誕生し、やがてそれを見に来ることを預言して彼を待っていた。第三の男は、彼もまたヨハネの名を持つ、本名ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ、すなわち聖フランシスコである。この男の後ろには、彼に従う人々の頭部らしきものが描かれている。 

サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写は、神の国の到来を告げたイエスの血による新しい契約の締結とともに誕生したイエスの教会が、その使命を達成した場面に見える。入信することでキリストの救いの業を継承する信者は、完成したミサ典礼の中で、ご聖体を囲んで、司祭と、会衆という立場を取り、さらに、神の独り子を授かった聖家族、マリア、ヨセフ、イエスにあやかる3つの召命を持っている。 

フランシスコにとっての課題は、十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、まず、「イエスの召命」を、身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることにあった。しかし彼は、教会の勧めに従って助祭職を受け入れた。教会を愛していたからだ。教会の召命は聖家族に根ざしている。フランシスコの視点はおのずとご降誕の馬小屋に向かった。 

「飼い葉桶の上で荘厳なミサがあげられ、フランシスコは助祭として、聖福音を朗読した。それから、周囲に立っている人々に向かって、貧しい王の誕生に関して説教を行ったが、その方の名を呼ぶときには、やさしい愛をこめて、ベトレヘムのみ子、と呼ぶのであった」(『ボナヴェントゥラによるアッシジの聖フランシスコ大伝記』)。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/12/09


173. 小さな巻物

サン・ダミアーノの十字架像の前で、聖フランシスコは真理を受け取った。一つは、ヨハネ福音書から、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)というイエスの言葉を悟り、共観福音書をはじめとした新約聖書を、ヨハネ福音記者の視点で読むことであった(本ブログ№169参照)。もう一つは、黙示録を朗読し、それを聞くことで、イエス・キリストの世界観を暗黙知として彼の記憶に蓄積していくことだ。黙示録を読んだフランシスコは、そこに書かれたことを素直に実行したにちがいない(黙1:3参照)。それは、啓示を新約聖書から直接受け取ることを助ける。黙示録には、新約聖書が伝える啓示と預言の内容が織り込まれているからである(下図「ヨハネの黙示録の預言的構成」参照)。そこで彼は、いつも「命である」ご聖体に向かっており、司祭職を尊び、聖書に関して博識であった。そして、十字架像に描かれたご聖体のイエスと、その右と左に分かれて描かれた人々、すなわち教会の召命が、頭から離れなかったに違いない(本ブログ№166参照)。 

以下は、ヨハネ福音記者の視点で新約聖書を読むことの一例である。十字架上のイエスが息を引き取る直前の言葉を各福音書から拾い、時系列に並べると、そこに筋の通った物語が出現する。この物語は、三共観福音書に書かれたイエスの最期の食卓の聖体制定の場面を、それを書かなかったヨハネ福音書の十字架のそばで起こった事柄とつなげ、ご聖体と司祭職の行方、神の国の到来と新しい契約の締結、そして、イエスの教会の誕生を証しする。 

イエスは十字架上で最期を迎えた時、新しい契約のために御父がその当事者たちを引き寄せるのを待っていた。御父が引き寄せなければ誰もイエスのもとへ来ることはできないからだ。彼は嘆願の叫び声をあげた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46、マコ15:34)。この叫びは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46) という祈りになった。 

遂に、十字架のそばに御父が引き寄せた人々が集まった。イエスの母、クロパの妻マリア、マグダラのマリア、そして使徒ヨハネである。ここでイエスは、神の子イエスと共に彼の司祭職も受け取った母マリア(本ブログ№167参照)と使徒を、親子の絆で結んだ。それは、前晩にイエスから「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じられた言葉を実現するために、使徒たちが司祭職解けない絆で結ばれた保証であった。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハ19:27)とあるとおり、使徒は司祭職を受け取ったのである。 

この事実は、黙示録に、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女は蛇から逃れ、そこで一年と二年と半年の間、養われることになっていた」(黙12:14)と書かれたことと合致する。「女」は司祭職である。「鷲」はヨハネ福音書を指している。「荒れ野」とは、イエスの母と解けない絆で結ばれた使徒たちの記憶だ。こうして、使徒たちの記憶に隠された司祭職は、「人間の情報」(「蛇」)から逃れ、相応しい時まで養われることになっていたのである。 

「この後、イエスはすべてのことが今や成し遂げられたのを知り」(ヨハ19:28)、「渇く」と言って酸いぶどう酒を受けた。それは、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言ったイエスが、「神の国」が到来したことを告げたのだ。そして、「成し遂げられた」(ヨハ19:30)と言い、「息を引き取られた」(マタ27:50、マコ15:37、ルカ23:46、ヨハ19:30)。その後、イエスのわき腹から流れ出た血と水は、御父が引き寄せた人々の上に降りかかり、「わたしの血による新しい契約」(ルカ22:20)が締結されたことを証しし、同時にイエスの「教会」を生み出した(ヨハ19:34~35参照)。 

このように、フランシスコがサン・ダミアーノの十字架像から受け取ったヨハネ福音書と黙示録の真理は、新約聖書の中で御言葉が生きていることを表している。彼は、黙示録の著者ヨハネがしたように(黙10:10参照)、十字架像の上端に描かれた小さい巻物を小羊の手から受け取って、食べてしまったのだ。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/12/02


172.

前回、聖フランシスコの小品集をもとに、人の意志について考察した。創世記の記述に照らすと、神は、ご自分に似せて人を創造するために、人に意志を与えた。人の意志は、神が吹き入れた「命の息」である人相応の「神の自発性」と、神が「命の木」として生え出でさせた「神の知識」が結びついて発現し、それは、神の似姿に創造された人の自由意志になるはずであった。「神の自発性」である「命の息」が、「自由」の源泉だからである。しかし人は、「命の木」からは取って食べず、かえって禁じられていた「善悪の知識の木」から取って食べたため、「神の自発性」と「人の知識」を結び付けて意志を発現することとなった。「人の知識」は、受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」によって進化する。このため、人の意志は善悪の知識の縛りを受けて、「神の自発性」の自由を発揮することができない。こういう訳で、人には、神がご自分に似せて人を創造するために望んだ自由意志が発現しないのである。 

イエス・キリストは、「神の自発性」と「神の知識」が一つになって発現している完全な自由意志を持つ神が人となった方である。イエスの到来は、旧い契約のもとで、人相応の「神の自発性」に「人の知識」を結んで意志を発現して生きていた人々に、神が望んだ自由意志を、人が発現することができることを証しした。しかしながら、人相応であっても、「神の自発性」に、それとは全く不釣り合いな「人の知識」を結び付けて意志を発現している多くの人々、ときに死と背中合わせになるような矛盾を抱えて生きる多くの人々は、イエスの勧めに抗い、しまいには憎んでイエスを殺そうとするようにまでなった。神であっても完全に人でもあったイエスは、その制約の中で、弟子たちと後に降臨する聖霊のために、神の計画を成し遂げていった。 

「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている」(ヨハ13:18)と言ったイエスは、ご自分の弟子たちが、聖霊降臨後に、聖霊と協働するために必要なすべてを準備した。人は聖霊と協働することによって初めて自由な意志を手にすることができるからである。イエスは、まず、その記憶に残るように弟子たちの知識に感覚を通して御言葉を挿入し続けた。聖霊に触れられた時それを思い出すためである。聖霊に触れられた感覚は、「神の無情報」、すなわち、ご聖体からパンとぶどう酒の情報を除いたものと接触する感覚である。信者は、聖体拝領において、「神の無情報」に触れられた感覚を体験する。 

神から授かった自発性の自由が、「意志」において発揮されるために、ふさわしい知識を人の脳の中に直接もたらすことができるのは、物理的な体をもたない聖霊がその人と協働する時である。ゆえにイエスは、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。聖霊は、私たちの抱えている矛盾を、私たちの内奥から私たち自身に知らせ、私たちが陥る自身への裁きの弁護者となってくださる。 

イエスは、ご自分が選んだ弟子たちが、弁護者である聖霊を受け入れるようになるまで、神の啓示と「人間の情報」を区別することを訓練した。その訓練を未来のキリスト者たちのために再現するのが、ヨハネの黙示録である。黙示録を声に出して読み、その声を聴く訓練は、信者が、聖霊の働きと「人間の情報」を区別することを感覚的につかむことを可能にするだけではない。新約聖書が伝える啓示と預言の内容を織り込んだ黙示録は、信者が、この世に現れたイエス・キリストの世界観を無意識的に、暗黙知として得ることを可能にする。人の意識の中だけでは、神であるイエス・キリストの世界観を収めることができないからだ(下記図参照)。黙示録は、聖霊と出会うすべての場面で、聖霊が働く「神の現実」に自らを最適化することができるように信者を準備する。 

聖フランシスコは、ヨハネの黙示録を読み込んでいたことが、彼の書き物からうかがい知ることができる。しかし、多くの人々は、彼の言動の内に、サン・ダミアーノの十字架像から彼が授かったヨハネ福音書と黙示録の真理があることに思い至らない。フランシスコが神のみ手に運ばれるようになったからである。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/11/25


171. 自分の意志

『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の第2のテーマ、「我意の悪」は、次のとおりである。 

「神は人に仰せになりました。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木から決して食べてはならない』(創2:16~17参照)。人は、従順に背かない限り、罪を犯すことはなかったので、楽園のすべての木から食べることができました。実に、次のような人こそ、善の知識の木から食べているのです。すなわち、自分の意志を己のものとし、自分の中で神が語ったり、行ったりされる善について誇る人です。このようにして、悪魔のそそのかしと、掟の違反とによって、悪の知識の木の実になります。それで、罰を受けなければならないのです」(『アシジの聖フランシスコの小品集』の第一章「訓戒の言葉」、テーマ2「我意の悪」、p31参照)。 

神は、ご自分に似せて人を創造するために、人に意志を与えた。「命の息」を吹き入れ、園の中央に「命の木」を生え出でさせたのだ。「人は、従順に背かない限り、罪を犯すことはなかったので、楽園のすべての木から食べることができました」とフランシスコが書いた通りである。しかし、人と人の間にすでに「情報」が発現しており、人は神の命令とは異なる認識をしていた。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない」(創3:3)と捉えていたのだ。それで、「命の木」から取って食べなかったために、「命の息」と「命の木」は結ばれることがなく、人は神が与えた意志を自分のものにすることができなかった。かえって、「善悪の知識の木」から取って食べたことによって、「人間の情報」によって進化する人の知識を「命の息」と結んで「自分の意志」を得たのである。その知識は確かにその人のものであるが、自発性は神のものである。 

一方、聖霊は、協働しようと信者に常に働きかけている。その力に触れた信者の中には、「自分の中で神が語ったり、行ったりされる善について誇る人」が出てくる。「自分の意志を己のものと」しているからである。このような人の実りは、信者であっても「悪の知識の木の実」になる。それで、罰を受けることになる。しかし、すべての救い主である神は、罪とも罰とも無関係である。社会倫理や規則など、すなわち人の知識がその人を罰するのである。 

神は、ご自身に似せて創造した人の「自分の意志」の自由を保証している。しかしそれは、神が人に自由意志を授けたということではない。神が人に授けたのは、人相応の「神の自発性」である。それは、「命の息」(創2:7)であった。これを神から吹き入れられたことによって、また、この自発性が「命の木」と結ばれることによって、人は神の似姿として生きるようになるのである。自由は神の自発性にある。「意志」は神の与えた自発性と知識の、いわば化合物のようなものだ。そこで、「意志」において神から授かった自発性の自由が発揮されるためには、それにふさわしい知識と結ばれなければならない。それは、神の啓示以外にはないのである。 

フランシスコは人の知識が善悪であることを知っていた。それは、人と人の間に発現する「人間の情報」が、受け取る人によって善にも悪にもなるのを見たからである。この「人間の情報」を、神から与えられた自発性と結んでも、善悪の縛りを受けて、自由な意志となることはない。神の啓示は神の知識であり、イエス・キリストの御言葉であり、真理である。イエスが「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:31~32)と言ったとおりである。 

信者がイエスの言葉にとどまるために、信者を導いて真理をことごとく悟らせてくださる「真理の霊」(ヨハ16:13)である聖霊は、いつも信者と共にいる。ゆえに、信者が聖霊と協働する時にこそ、そこに自由意志が発現すると言える。前回の考察で、フランシスコがそうであったように、神の啓示と「人間の情報」を区別すること、すなわち聖霊の働きと「人間の情報」を区別することを知っていることは、その前提条件である。そのためにヨハネの黙示録が新約聖書にある。 

つづく 

Maria K. M.

 


 2024/11/18


170. 最適化

前回、『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の最初のテーマ「主の御体」で考察したように、聖フランシスコは、ヨハネ福音書から御父の愛とご聖体についての特別な理解を得ていた。一方、同じ「訓戒の言葉」の第2のテーマ、「我意の悪」では、創世記の「善悪の知識の木」へとその関心が向いている。それは、フランシスコが、ヨハネの黙示録の影響を強く受けていたことを物語っている。 

それまでの黙示文学に類を見ない特異な構造を持ち、その冒頭から「イエス・キリストの黙示」(黙示録1:1)とはっきり宣言しているヨハネの黙示録は、啓示の書、預言の書でありながらも(下記図参照)、信者の日常の訓練の書でもある。その訓練の方法は、黙示録1:3に示されたように、信者が、この預言の言葉を朗読し、自分の声を聞いて、中に記されたことを記憶に保持していくことを繰り返すことによって、信者の内に、いわばコンピュータプログラムのループ構造を作ることだ(本ブログ№151参照)。この構造は、派遣の祝福によってミサ典礼が終わった後から次のミサまでの信者の日常のルーティンを支えるのである。 

訓練の書としてのヨハネの黙示録の第一の目的は、この日常のルーティンにいる信者が、まず黙示録に描かれた「人間の情報」を感覚的に捉えて、聖霊の働きと区別する習慣を身に着け、それを記憶に保持することである。そこで黙示録には、竜、蛇、悪魔、サタン、全人類を惑わす者といった「人間の情報」を表す言葉が、繰り返し出てくる。信者は、黙示録を朗読して聞くことを反復するうちに、いつしかこれらの言葉のイメージが退き、「人間の情報」を直接感じられるようになっていく。この感覚は、ミサ典礼における日常のルーティンを生きながらも、この世で「人間の情報」の只中にいる信者が持つ願いを、強力にバックアップする。それは、出会うすべての場面で、聖霊が働く「神の現実」に自らを最適化させ、聖霊と協働したいという切なる願いである。黙示録は、そのためのシミュレーションになっているのだ。 

以上のような理解のもと、黙示録の「年を経た蛇」(黙12:9,20:2)という言葉をヒントに創世記3章を振り返る時、そこに、すでに同種の生き物の間にそれ相応に情報が発現していたこと、その中で最も賢いのは人間の間に発現した情報であったことが見えるようになる(創3:1,3:14参照)。他を凌駕する「人間の情報」が高度に発達したのは、神がご自分に似せて人を創造するために、人に意志を授けたからである。全聖書は、御父である神が、ご自身に似せて創造した人の「自分の意志」(注)の自由を保証しているということを、常に訴えている。この観点から創世記3章を読むとき、そこに我が子たちの過ちに対処する御父の姿を見出す。それと同時に、その御父の姿と、御父の御心を成し遂げるイエス・キリストの姿が重なって見えるようになる。

(注)『アシジの聖フランシスコの小品集』p31「我意の悪」参照 

それは、信者が、「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(創3:24)という御父の姿が、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言ったイエス・キリストの姿と一つであったと実感する時である。そして、この善い知らせを世にもたらすために、人々の内に今も残る「善悪の知識の木」から取って食べたという記憶に取り組もうと、「善悪の知識の木」に関心を向けるのである。 

フランシスコの時代には、「情報」という特別な概念がなかった。『アシジの聖フランシスコの小品集』には、その時代にあって、なんとかして自分が授かった啓示によって、「人間の情報」に対峙しようとするフランシスコの姿が見える。その姿は、すでに彼自身が、聖霊の働きと「人間の情報」を区別する習慣を身に着けていたことを証ししている。実際に「我意の悪」のテーマの中でも、また、他の箇所でも、彼が引用した「悪魔」や「サタン」を、「人間の情報」と置き換えても、その文脈が成り立つことからも、それを伺い知ることができる。その一方で彼は、さまざまな問題について、当時の教会の教えに従って理解しようとしたのである。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/11/11


169. 暗黙知

聖フランシスコの時代に教会ではご聖体への関心が高まり、新しい修道生活の形態が起こっていた。このような折に、聖霊がフランシスコを導いて、サン・ダミアーノの十字架像から、ヨハネ福音書と黙示録の真理を悟らせたとすれば、それは時宜に適っていたにちがいない。しかし、神の啓示を授かる者は、たとえ聖霊と協働している瞬間であっても、ベースはこの世を旅する生身の人であって、黙示録の著者ヨハネが、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」(黙示録1:2)と書いたように、その人が見たこと以上のことは伝えてこない。そのことを念頭に、フランシスコに直接関係する資料、『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)を手掛かりに、彼の悟りを考察したい。 

第一章「訓戒の言葉」の最初のテーマ、主の御体」が、ヨハネ福音書の言葉で始まることは注目に値する。フランシスコは、初めに「主イエスは弟子たちに仰せになります」と書いて、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)という句から、イエスとフィリポのやり取りを経て、「わたしを見た者は、父をも見るのである」14:9というところまでイエスの言葉を引用した。そこから彼は、「御子は、御父に等しい方ですから、御父または聖霊を見るのと同じようにしなければだれもその神性を見ることはできません」(『アシジの聖フランシスコの小品集』p29)という結論に導く。 

それは、「主イエスを人間としてだけ見て、その霊と神性において、主がまことの神の子であることを見も、信じもしなかった者は皆、罪に定められました。今もこれと同じように、主の言葉によって祭壇上で、司祭の手を通して、パンとぶどう酒の形色のもとに聖別される秘跡を眺めながら、その霊と神性において、それが本当に私たちの主イエス・キリストのいと聖なる御体と御血であることを見も、信じもしない者は皆、既に罪に定められています」(p29)と諭すためであった。彼は、すでに罪に定められている者のように生きる多くの人を、実際に見ていたのだ。 

一方、彼自身は、「御覧なさい。主は、天の玉座から処女の胎内に降られた時と同じように、毎日へりくだられるのです。毎日謙遜な姿で私たちのところにおいでになるのです。毎日御父の懐から祭壇上の司祭の手のなかにお降りになるのです。かつて主は、まことの肉のうちにご自身を聖なる使徒たちに示されたように、今は聖なるパンのうちにご自身を私たちに示されます」(p30)という境地にいて、「使徒たちは、肉眼では主の肉だけを見ていましたが、霊的な眼で観想し、主が神であることを信じていました。それと同じように、私たちも、肉眼でパンとぶどう酒を見て、これこそキリストのいと聖なる生けるまことの御体と御血であると悟り、堅く信じましょう」(p30~31)と勧めている。この勧めを、フランシスコは自身にも課していたに違いない。しかし、この勧めは、「御子は、御父に等しい方ですから、御父または聖霊を見るのと同じようにしなければだれもその神性を見ることはできません」という結論を持っていた彼にとって難しかったと思う。 

イエスは、群衆に向かって、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである」(ヨハネ5:37~38)と言っている。 

「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」という言葉が実現したのは、イエスがペトロに次のように言った場面である。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)。それはペトロがイエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた言葉による。この言葉が「わたしの天の父」が現した言葉であった。この言葉を発したペトロ自身も、またそれを聞いた他の弟子たちも、自分の内に御父の言葉をとどめた。彼らは、「父がお遣わしになった者を」信じていたのである(ヨハネ17:8参照)。 

「あなたはメシア、生ける神の子です」という天の父が現した言葉は、これを聞く者の内にとどまる。そこで、ミサ典礼に集う信者は、司祭が示すご聖体に向かって、司祭と共に、天の父がペトロに現したこの言葉を声に出して宣言し、司祭から手渡されるご聖体を取って食べるとき、「これこそキリストのいと聖なる生けるまことの御体と御血であると悟り、堅く信じましょう」と言ったフランシスコの勧めに応えることができる。 

さらに天の父が現した言葉は、その言葉を声に出して宣言し、それを聞く信者の記憶に、暗黙知を形づくっていく。これが、イエスがペトロに、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:18)と言った岩である。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/11/04


168. 違和感

ローマ帝国に根付いたキリスト教は、西ローマ帝国の滅亡からローマを守った。そうしながら、およそ800年かけて準備された歴史の中に、聖フランシスコは登場した。彼の人生は、さらに800年後の私たちのために、今もシグナルを発している。 

イエスは、最期の食卓で使徒たちに、女が子供を産むときのたとえを語り、一人の人間が世に生まれ出た喜びに言及した。続けて、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16:22)と言って、ご自身の復活と同時に、ご聖体の誕生を予告した。そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16:23~24)と保証した。教会はこの世で最高のものを願って、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と祈り、イエスのこの言葉に応えてきた。 

ヨハネ福音書において、マリアは、司祭職そのものになるために、イエスから「母」と呼ばれることはなかった(ヨハネ2:419:26参照)。そして、十字架上のイエスの言葉によって「イエスの母」と親子の絆で結ばれた使徒は、司祭職と結ばれたのである。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(19:27)とある。そこには、クロパの妻マリアとマグダラのマリアもいた。サン・ダミアーノの十字架像はまさにこの場面を描いた。ここから、聖フランシスコが何かを悟ったのである。助祭職を受けた彼は、自身を「聖職者」と呼んでいることからもわかるように(注)、司祭職に向かう路線の上に立った。しかし、彼が司祭になることはなかった。

(注)『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)P. 289参照 

フランシスコは、教会への愛のために助祭に叙階されたことによって、違和感を抱え、それはやがて矛盾となって苦しんだのではないか。彼がこの矛盾を背負って生きる姿に、「イエスの召命」の存在が見える。彼の弟子たちの多くが離れ去り、もはや彼と共に歩まなくなったことがそれを物語っている(ヨハネ6:66参照)。それは、同時に、「『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(18:9)とある、受難に臨むキリストの姿でもあった。御父のみ手は、イエス・キリストと完全につながるぶどうの枝を、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:2)。そのみ手がフランシスコに臨み、彼は、そのみ手に自身を委ね、徹底的に清貧を生きて応え続けた。 

私見であるが、フランシスコに臨んだ御父のみ手は、彼が教会への愛のために受け取った助祭叙階の秘跡を無効にし、彼に初めから授けていた「イエスの召命」を戻してくださるための愛であったと思えてならない。彼は、やはり、サン・ダミアーノの十字架像の前で、「イエスの召命」を受け取っていたのだ。 

つづく 

Maria K. M.


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